第5話 マンドラゴラの夜泣き

 生まれ変わったような心地で玄関を開けた瞬間、赤ん坊の泣き声が聞こえた。信志は真っ青になってドアを閉めた。


 ついにマンドラゴラになったのか? 「自分はいじめの加害者だ」と認めたから?


 死はドア一枚を隔てて目前に迫っている。信志は立ち尽くした。でも、田中先生の人生を狂わせた罰なのかもしれない。

 お母さん、お義父さん、ありがとうございました。胸のうちで唱えて、また玄関を開けた。


 奥から確かに泣き声が聞こえる。即死を予想していた信志は戸惑いながら鉢に近寄った。

 大根はぐずっている。もしかして、号泣しない限り死なないのかも。その前に泣き止ませないと!!


「よしよーし。どうしたの」


 声をかけてみても泣き止まない。


「歌は好きかな? よいこ〜よいこ〜あなたはわたしのきれいな赤ちゃん〜」


 ヤケになって子守唄を歌うと、ぐずる声はだんだん小さくなって、止まった。

 汗をびっしょりかいていた。死は信志のすぐそばに迫る。深い深いため息をついて、床にへたり込んだまましばらく動けなかった。


 その日から、大根は夜泣きするようになった。歌を歌ってやると泣き止む。

 大根の黒はまた少し濃くなった気がする。おののいた信志は、本気で善行を積み上げると誓った。それから大根に「ドラコちゃん」と名前をつけてかわいがることにした。悪あがきだって何でもしてやる。


 夜泣きするドラコちゃんに子守唄を歌う。


「よいこ〜よいこ〜あなたはわたしの優しい赤ちゃん〜」


 ドラコちゃんに歌を歌う時間を大切に思うようになった。歌っている間は心が穏やかになる。

 ドラコちゃんのためにも、改心しよう。


 まずポイ捨てされた空き缶を拾った。中身が残っていて、靴にかかって汚れた。

 次に電車で親子に席を譲ろうと立ち上がった。ビシッとスーツで決めた若い男に割り込まれた。


 善行ってのも楽じゃない、とへこたれてアパートに戻る途中で、また小学生のいじめ集団を見かけた。

 俺は「あっち側」だったんだ。下卑た卑劣な奴らの仲間だったんだ。

 近所の公立小学校に電話をかける。


「あの、小学生のいじめ、を見たので……」


 電話を取った教員は当惑した様子だった。おせっかいだったんだろう……。


 ドラコちゃんの色は少しだけ薄くなったようだが、まだ普通の大根とはかけ離れた黒だ。

 今の鉢は少し狭そうだ、と思って気づいた。もしかして、ドラコちゃんが鉢に収まらなくなったときがタイムリミットなんじゃないか!?

 親に謝ろう。俺に残された最大の善行はそれしかない。

 ずっと無視してきた母とのトークルームを開き、通話ボタンを押す。


「信志!? どうしたの!?」

「母さん……今までごめんなさい!!」


 信志は目に涙を溜めて謝った。だが母は無言だった。数秒の沈黙の間、信志は息を殺して母の言葉を待った。


「……もう養えない。反省したなら一人で生きてみなさい」


 一方的に切られた通話。

 信志は震えながらへたり込んだ。

 もう、部屋に閉じこもって将来の不安から逃げることはできない。家賃を払うために働いて、食費に、光熱費に……。

 ばくばくと鳴る心臓がうるさい。生きていると痛感させられる。生きるだけで金はかかる。

 大声で泣いた。俺はまさに今、終わりかけている。もう、ここまでなんじゃ……。


「フフフ〜ン」


 ハミングが聞こえた。


「ドラコちゃん!? 歌えるの!?」


 信志が繰り返し聴かせた子守唄だった。慈しみに満ちた響きだった。夕暮れの薄暗い部屋に、あたたかいメロディが細くたなびいた。信志は大粒の涙をこぼしながらその歌を聴いた。


 そして気づいた。ドラコちゃんの色が、白に近づいている!


 やっぱり母さんに謝らなきゃいけなかったんだ。信じてもらえなかったと不貞腐れて、世界を憎んで、母さんを憎んだ。それでも母さんは俺を信じて大学に通わせてくれる。それに甘えていた。

 人に信頼される男になろう。


 そのとき玄関のチャイムが鳴って、ドラコちゃんのハミングが止まった。

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