第2話 大根、はたまたマンドラゴラ

 春の陽射しはレースカーテン越しに、向かい合わせの机にちらちらと光と影を踊らせている。


「中川くんの成績なら、十分推薦を狙えるでしょう」


 頭の薄くなった担任は、分厚い眼鏡の奥からやわらかい笑顔で信志を、次に隣に座った母親を見た。


 信志は照れ臭い気持ちで母親の表情を盗み見た。いつも家庭の切り盛りで張り詰めている母が、今は安心して穏やかな顔をしている。

 信志の心にも、春のふわふわとした陽射しのような嬉しさが踊った。


「中川くんは真面目ですから、クラス全体が中川くんに引っ張られて前向きになっています。このまま頑張っていきましょう」

「はい。ありがとうございます」


 信志は嬉しさを隠せなくて、うつむいてはにかんだ。

 心に踊る春の光は、ぐんぐん明るさを増して信志の未来を照らした。信志は晴れやかにそのまぶしい可能性を見つめた。




「うわー!! いやだ、いやだ!! ああー……やめてくれ」


 ぜいぜいと息をつきながら信志はベッドの上を転げ回った。顔を手で覆い、爪が皮膚に食い込む。


 あれが夢だと信じたくなかった。この汚いワンルームが夢で、あの三者面談が現実であってほしかった。

 これが現実だ、と強く唇を噛む。取り返しのつかないことがいくつも意識に浮上して、そのたびに息ができなくなる。

 いや、息なんかできなくなってしまえば……。


「センパーイ。悪夢っスか」


 寝袋の上から蝉谷せみたに呑気のんきに訊ねる。元カノが家に押しかけてくるからと、この家に転がり込んできた後輩だ。


「……」

「それよりこの大根、なんなんスか」


 蝉谷は窓際にどんと置かれた植木鉢を顎で示した。


「大根……?」


 確かに大根の鉢植えだった。その瞬間、信志はワンピースの女の説明をはっきり思い出した。


「いや、マンドラゴラ」

「え!? いやいや! フツーに大根!」


 蝉谷はケラケラ笑った。


「大根抱えてぼーっと帰ってきたから爆笑したんスけど、マンドラゴラって」

「俺が改心すれば大根になる。改心しなければマンドラゴラに成長して俺は死ぬらしい」

「ハァ!? 誰に言われたんスか」


 そう言われて、信志はあの女の人間離れした雰囲気を思い返した。


「女神……だったのかも」

「いやいや〜!」

「でもうっすら黒いじゃん」


 不気味な色だから、マンドラゴラに成長してもおかしくないと思った。


「え? 緑スよ。フツーに大根の緑」

「掘ってみるか」


 信志は蝉谷を無視して、土に少しだけ指を突っ込んだ。大根の白い肌がわずかにあらわになり……。


「うわー!! 泣いてる!! すでに泣いてる!!」


 かすかに赤ん坊のぐずる声が聞こえた。信志は大急ぎで土を戻した。


 二十歳はたちの信志にとって「死ぬ」なんてずっと遠い先の話だ。自分がいなくなって全部おしまいになるなんて、想像がつかない。

 けれど唐突に「死」に直面した。世界は不確かで、自分の肉体はひどく脆い。急に現実を突きつけられて、信志の指は震えた。


「先輩……?」

「聞こえただろ?」

「いや、聞こえないッスね……そうだ!」


 引きつった顔で信志を眺める蝉谷だったが、空元気の声音で両手を合わせた。


「誰かに持ってってもらいましょ。先輩より心の綺麗な人なら問題なく大根ッスから!」


 大根の厄介払いを提案されて「そうだな」と上の空の返事をした。

 「心が綺麗」なときが自分にもあった。そのとき心に踊ったきらきらとまぶしい希望を、信志は自ら手放していったのだ。




 アパートは歩道のある道路に面している。そこに「ご自由にお持ちください」と植木鉢を置き、アパートの陰で持ち帰る人を待つ。


「あっ!」


 二人は顔を見合わせた。中年の女性が鉢に興味を示している!


「先輩はすっこんでてください!」


 言い残して蝉谷は駆け出し、女性に鉢を持って帰る手伝いを申し出た。確かに金髪プリンの信志より蝉谷の方が好印象である。

 信志は心底ほっとして二人を見送った。


 今さら両膝が震え出す。急に突きつけられた「死」の可能性にずっと怯えていたと気づく。身体の力が抜けてめまいに襲われ、しゃがみこんだ。


「センパーイ……」


 申し訳なさそうな蝉谷の声で、くらくらする頭を上げる。蝉谷は大根の鉢を抱えていた。


「は? どうして」

「アパートから離れるとしおれるんスよ。気味悪いって……」


 信志は絶句した。


「また置いてみましょ!」


 そのとき、下校する小学生の集団がアパートの前を通りかかった。

 そこには明白ないじめがあった。ランドセルを何人分も持たされている男の子。ケラケラとからかう周囲の子どもたちは、小学生ながらに下卑げびて見える。


 消したい記憶が閃光のように信志を刺した。心臓の鼓動が痛い。内側から責め立てられている気がして、信志は小さく「やめてくれ」と呟いた。


「……もういい。別の心当たりがある」


 死の恐怖がまた信志に取り憑いた。アパートの手すりにすがって階段を上る。不安な顔で蝉谷が着いてくる。


 ——死ぬのかよ。俺は……「いじめた」から?

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