第10話 ヤマネの森へ

 紅葉の渓流をさらに上流へと、僕達は歩いていく。


 一帯が苔で覆われてきて、東山さんのヤマネの写真集の舞台に雰囲気が近くなってきた。

 どうやら、ヤマネの森はもうすぐのようだ。


 と、一匹のバッタが渓流を流されていく。

 川に落ちてしまったようだ。


 身体が勝手に動いた。

 バッタ目がけて飛びつくと、手でその虫を掴み、向こう岸に肩から着地して、合氣道の前受け身で一回転し、瞬時に立ち上がる。


 バッタは無傷、そのまま、放してやった。


「スゴ~イ!」

 全員から、歓声が起きる。


 添乗員が駆け寄ってくる。

「中原さん、大丈夫ですか!?」


 僕は何事もなかったように答える。

「はい。何ともありません。」


 普段の稽古の賜物である、このくらい平気なものだ。

 下がアスファルトや、コンクリートなど、硬い路面を想定して稽古していなければ、実際には役に立たない。


 すると、なぜか、横浜の水野さんが進み出てくる。

「中原さん、私が診察します。横になって下さい。」


 僕は本当に異常無い、どこも痛くないし、ケガもないんだけど?

「大丈夫ですよ。」

 と言ったのだが。


 添乗員と東山さんが口を揃えて

「中原さん、水野さんに診てもらって下さい。」

 この二人、何か知っているようだ。


 しかし、佑夏の目の前で、他の女性に触られる訳にはいかない。

「本当に大丈夫ですから。」

 あくまでも、断ると。


「中原くん、葵さんに診てもらって!」

 佑夏本人が懇願してくるじゃないか?いや、もう名前で呼んでいるとは、女同士は仲良くなるのが早いな。


 仕方なく、水野さんの前で横になる。

「中原さん、今から肩の打撲の治療をします。」

 こちらの目を見ながら、そう囁く水野さんは、かなり場数を踏んでいるように見える。


 水野さんの応急手当は、すごく手馴れている。

 しかも、どういう訳か、自分の救急セットを持参しているとは。

 素人じゃない!


 応急処置が終わり、水野さんに聞いてみる。

「水野さん、あなた?」


 絵画の世界か?紅葉の渓流、鳥の声、風の音。

 一瞬、女神のように見えた彼女が答える。


「看護師です。」


 ナースが、どうしてヤマネに興味あるのか?

 まあ、職業は関係ないかもしれない。


 さらに、僕達はヤマネの森に向かって歩き出す。

 やがて、次第に傾斜が無くなり、広い平坦な場所に出る。


「ここが、私のヤマネの写真集の主な撮影場所です。」

 東山さんは、そう語ってくれた。


 意外にも、道路のすぐ脇だ。

 もっと山奥だと、思っていたが。


 紅葉の広葉樹林に、何本がモミの木が混じっている。


 特に、一本、巨大なモミの木があって、樹高30mを超えそうだ。

 この森の守り神、御神木といった佇まい。


 来る時、マイクロバスで通った道路がすぐ上に見える。


「ヤマネさ~ん、こんにちは~!」

 佑夏が、森に向かって声を上げている、熊の時のような、絶叫ではないけど。


「ここで、夜に明かりの無い中で、一人で撮影するんです。

 ヤマネは木の上を動き回り、こっちは足場の悪い沢の上でカメラを構えるから、転びそうなって大変ですがね。」

 東山さんは笑う。


「こんなところで、夜中に一人ですか?」

 僕はつい、聞いてしまった。


 楢の手つかずの原生林、熊も出る。


「慣れれば、何ともありませんよ。」

 東山さんは、こともなげだ。


「先生、写真集の表紙は、こちらで撮影されたんでしょうか?」

 今度は、小林さんの質問。


「そうです。あの木ですよ。」

 東山さんの指差した方向を全員が見る。


「ああ!あれだ!」

 全員から声が上がる、果たして、写真集の表紙で、ヤマネが顔を覗かせている樹木が、そこにあったのだ。


 本当に、道路ブロックのすぐ隣だ、驚きだな。


「皆さん、ここで少し時間を取ります。」

 添乗員がそう告げ、それぞれが思い思いに、ヤマネの森を観ることに。


 水野さんが、何やら、小さな楽器を取り出し、奏でてくれる。

 オルゴールのような、美しい音色が、沢のせせらぎ、森を通り抜ける風のざわめき、小鳥のさえずりと溶け合っていく。


 なんだか、すごくいい。


「そら、何ていう楽器どすか?ええ音色どすなぁ」

 ルミ子さんは興味津々だ。


「カリンバです。アフリカの楽器です。」

 水野さんは、涼しげな微笑と共に答えた。


 カリンバ、木製の本体にオルゴールの内部のような金属片がついていて音を出す。

 オルゴールの原型になった楽器である。


「脳にヒーリング効果があるので、患者さんクランケにも聴いてもらってるんです。」

 水野さんがカリンバを弾きながら、ヤマネに語るように上を見上げる。


 大き過ぎない音色、電子音でもない。

 ヤマネを刺激することも無いだろう。


「ヤマネさ~ん、良かったね~♡♡」

 佑夏は空を仰ぎ、クルクル回っている。


 僕達も、本当に良かった。


 ここにいる誰もが、カリンバの音色に癒されている。


 一人を除いて。


 山田さんだけは、相変わらずブスッとして、不機嫌そのものの顔をしている。


 しかも、何やら「これじゃ金にならない、これじゃ金にならない。」と、ブツブツ呟いているように聞こえるが?


 いったい、この人は何者で、何の目的で、ヤマネの棲みかを見にきたのだろう?

 何か、良からぬ考えを持っていなければいいんだけど。


 実は、こういうことがあった。


 ボランティアで、クマタカの生息地の調査を手伝った時、「環境調査の会社の社員」を名乗る男、二人が参加してきた。


 しかし、この会社は、本当は「環境破壊の事前調査」をする企業だったのである。

 親会社には、道路やダム建設などの大型公共事業を請け負う、大手ゼネコンがズラリ。


 彼らの目的は、環境保護側の「敵情視察」だったのだ。


 もしかして、山田さんも、あの二人のような環境破壊のエージェントなのか?

 ともかく、要注意人物であることは間違いない。


 だが、今は山田さん以外は、全員が目を輝かせ、和やかな森の空気と氣持ちも一つになっている。


 理夢ちゃんが、ニコニコして添乗員にお願いする。

「ウチ、ここでお弁当、食べとおす!」


 反対する者もなく、そうしよう、そうしようということなり、僕達はヤマネの森で昼食に。


 山田さんを除く五人の女性達は、和気あいあいと楽しそうに話しながら、食事している。

 何を喋っているのか、佑夏はまたも爆笑を誘っているな。


 クールな外見に似合わず、高学歴でパーク協会職員の小林さんも、よく笑う人だ。


 僕はといえば、東山さん、ディーンフジオカ添乗員と男三人で食べている。


 森の澄んだ空気の中で食べる弁当は最高に美味い。


 しかも、ヤマネと一緒という極上ロマン付き。


 ヤマネは夜行性である。

 どの木の中に今は潜んでいるのだろうか?


 東山さんは知っているはずだが、まだ教えてはくれない。


「どうぞ~。」

 食べ終わる頃、佑夏と水野さんが、僕達、男衆にお菓子を配りに来てくれる。


 やっぱり、男だけでは有り得ない、幸せな時間だったりする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る