第9話

「……戌子が見えるのですか?」


 今度は凛之助が驚いて片眉を上げた。

 坂口も一瞬遅れて、えっ、と頓狂な声を上げた。

 老執事は事態を把握できず呆気に取られて目を見開いている。


 戌子は霊体だ。

 尋常の者にはその姿を見ることは叶わず、式神符に宿って初めて姿かたちや声を確認できる。

 霊体のままで戌子の姿を見ることができるのは、霊視を扱える者か、あるいは、霊力が異常なほど高い人間だけだ。


『なんと! わしが見えるのか?』


「えぇ……はい」


『おお、おお! わしが見える人間は陰陽師以外じゃとおぬしが初めてじゃ! わしはの、わしはの! 戌子と云うのじゃ!』


「戌子、さん……ですか?」


『うむ! よろしくなのじゃ!』


「よ、よろしくお願いします……?」


『わはは! 見よ、握手もできるぞ! こやつとんでもない霊力の持ち主じゃな!』


 ましてや霊体に直接触れられるとなれば、その身に宿す霊力の量は常人とは桁外れになる。

 四六時中も感じる視線の話も下らぬ幽霊の仕業と笑うことはできない。


(戌子が見えるほどの強大な霊力を持っているのなら、たいていの陰陽師なら帝都のどこにいたってわかるはずだ。それが、今の今までわからなかっただと? 本人が知らないところを見るに、誰かの術で隠されているのか? いや、それならば陰陽頭から彼女についてもっと具体的な言伝があるはず。ユザレだってわかりやすく動いてるだろう。……まったく想像以上に厄介な依頼だな。恨むぞ陰陽頭)


 異常事態の四文字に、内心で溜め息を吐く。

 ただの幽霊であれば解決は簡単だった。

 除霊して魔除けの札でも渡してやればそれで済む。

 しかしこうも彼女の霊力が高いのであれば、その上に、まだユザレの上層部ですら補足していないほど巧妙に隠されていたとなれば、話はまったく別の方向へ変わってくる。

 真に恐ろしきは死者の怨念ではなく、生者の悪意であるゆえに。


「ひとまず、依頼についてお話を伺いたく思います。どうか、お席へ」


「えっ。あ、ああと……そうですね」


 浮足立った雰囲気をそのままにしてソファへ腰かける。

 機嫌が良いのは常人の目には見えない戌子ばかりで、周囲は凛之助と坂口の緊迫した様子に重苦を感じて顔を険しくしていた。


「では、今回の依頼について私から説明させていただきます」

 

 まず口火を切ったのは幸子であった。

 奇麗にそろえた膝の上に両手を置いた彼女は、長い息を吐いたあと、自身に起こっていることを整然と話し始めた。


「事が起こりましたのは、先週の日曜日。私が帰路に着いた時でした。車の中であるにも関わらず、どこからか視線を感じたのです。最初は外からの視線かと思いました。しかし窓のカーテンは締め切られていて、外から中を覗き見ることはできません」


 車の中だけならば気のせいと片づけることもできた。

 だが、屋敷に帰ってからも幸子を見つめる奇妙な視線は続いた。

 夕餉の際も、湯浴みの時も、就寝の時も、夜が明けてもなお消えることはなく感じられたという。


「最初は父に恨みを持つ悪漢と疑いました。父は、自分で云うものではありませんが、私をたいそう大事に育ててくれましたから。私に害をなせば父への復讐になると考える輩がいてもおかしくありません。実際、小さな頃に誘拐されたことがあります。今回もその類だと思っていました」


 一度言葉を区切った幸子は、ここで小さな身震いをして恐怖を堪えるように右腕を抱いた。瞳を伏せ、震えた声で感情の塊を凛之助に吐露した。


「でも、でも違ったのです。視線を感じていたのは私だけで、他の誰もが視線に気付いていなかったのです……幼い頃から常に私の傍にいるこちらの付き人、狩ヶ瀬にも聞きました。しかし、やはりそんな視線はどこにもないというのです」


 方々へ掛け合って周囲の警備を強化してもらい、周囲に不穏な影在れば問答無用で捕まえ警察に突き出すまでの厳戒態勢を敷いた。 

 けれど不思議なことには、戦争帰りの軍人も、手練れの刑事たちも、誰も視線の正体を捉えるどころか視線にすら気付くことができなかったそうだ。

 これが四日も五日も続いた頃、いよいよ幸子もこれは人の仕業ではないと疑い始めた。


「素人の私ですらこんなにもしっかりと感じ取れる視線を、お歴々の皆さまが気付かないだなんで、そんなの、そんなのおかしいじゃありませんか。だから私は、きっとこれは人の行いではないと思いました。人ではない何かの仕業なんじゃないかと」 


 そう云って、幸子は自身を落ち着けるために深呼吸をした。

 大きく長い息を吐いたあとには、もう身体の震えはなくなっていた。 

 再び前を向いた瞳に恐怖の色はすでになく、しっかりとした理知の光が宿っている。


「お願いします、どうかこの視線の正体を暴き、退治してください」


 真摯な態度で頭を下げた幸子に、凛之助は心賢い女子だと評価した。

 正体不明の視線に一週間も晒されておきながら、精神に異常をきたすどころか恐怖を押し殺して気丈に振る舞っている。

 そのうえで、自身の身に起こった恐怖の出来事を取り乱すことなく語れるとは、存外見た目以上に強固な心を持っているらしい。

 凛之助からしても舌を巻く。

 名家の令嬢に相応しく、誇り高い女だ。


「なるほど。言葉幸子様の危惧するところ、委細承知いたしました」


『なんとまあ、不逞で不埒な輩なのじゃ! じゃがもう安心するが良いぞ! わしと凛之助がソッコーで解決してやるからの! おぬしはドンと構えておるがいいのじゃ!』


 坂口が淹れてきた玉露で口を湿らせた凛之助のあとに、戌子がぷりぷりと憤慨した様子で吠えた。

 これには幸子は気が少し緩んで「ありがとうございます、戌子さん」と小さく笑う。不意に零れた少女の笑顔に、場の緊張感も少しほぐれていく。

 対照的に凛之助だけは変わらずの無感動で、空気を気にすることもせずに口を開いた。


「では、僭越ながら原因を申し上げます」


「えっ? あ、あの。不躾な質問で申し訳ありませんが、貴方は今の話だけで私の話を理解したと……そう云うのですか?」


「委細承知いたしました。と申し上げました通り。偽りはございません」


 こくりと頷けば、言葉家の面々から驚愕の色が返ってくる。

 これだけで原因を突き止めるとはさすが帝都守護任陰陽師の所以か! 余人からすれば心地の良い賞賛の声であった。

 だが凛之助は興味すら示さず微動だにしないで続けた。


「おそらく、言葉幸子様を監視する視線は”外道師”によるものかと」


「げどう、し……?」


 聞きなれない言葉に、幸子が可愛らしく首をかしげる。


 外道師。


 それはユザレに属さないもぐりの陰陽師。我欲のために悪逆非道へ堕ちた者への蔑称である。


 その昔、陰陽師とは律令に則り儀式を行う官人を指す言葉であった。

 だが世が乱れ、摂政や荘園が乱立すると、私欲や快楽に溺れて律令の禁を破り、人の道を外れた恐るべき所業を行う者たちが現れた。

 彼らは己が欲を満たすために陰陽の術を行使した。禁忌を唆し、堕落を勧め、放蕩に励み、死霊を呼び出し、病を蔓延らせる。

 護るための業で暴虐の限りを尽くすその様は、人世の守護を掲げる陰陽師に非ず、人面獣心の如く。

 まさしく悪徳に奉ずる徒、狂気を仄めかす者、所業に埒なき悪鬼羅刹。

 ゆえに、彼の邪悪なる者らは陰陽師と相反する者として”外道師”と呼ばれ、明確に区別されていた。


「それが、私を狙っているというのですね……」


「はい。彼らは霊力の高い人間の血肉を好んで、口に出すのも憚られる野蛮な行いに使用します。特に言葉幸子様は、私の式神である戌子が見えるほどの霊力の持ち主でありますから、彼奴らに身柄を狙われても不思議ではありません」


『あいつらはとっても悪い奴らなんじゃぞ! わしらも何度か戦ったことがあるんじゃが、どいつもこいつも最っっっ悪だったのじゃ! この前なんてまぁたわしを捕まえようとする輩が……』


「それ以上は慎め戌子。……失礼。とにかく、外道師が関わっている可能性が高いのが今回の一件です。自分との接触も、言葉幸子様がこちらへ来られた時点で知られているでしょう。今夜にも仕掛けてくることが予想されます。少々荒事になりますが、よろしいですか」


「そう、なのですね……いえ、ここまで来て否はありません」


 荒事と聞いて少しだけ眉尻を下げた幸子だったが、首を振って憂いを振り払う。無理を押し通してまで頼んだ依頼、よもや今更取り下げるなどできはしない。


「報酬はいかほどお望みですか」


「二円もあれば十分です」


 二円! 

 幸子はあまりに安い金額に悲鳴を上げそうになった。

 背後に控えた者たちも同様に顔を奇妙に歪めていた。

 帝都守護任陰陽師という大層な肩書の者を引っ張って来たのだから、相当の金を要求されるだろうと思っていた。

 それが蓋を開けてみればどうだ、レコード一枚の値段とほとんど同じではないか! 

 幸子はもはや驚きを通り越して呆然としてしまった。

 ここにきてから驚いてばかりである。そろそろ魂も消えるんじゃないかとくだらないことまで考えてしまった。


「二円? それは前金で、ということでよろしいのですか?」


「いえ。成功報酬で二円です」


「それは、あんまりにも安値ではありませんか……!」


 凛之助からしてみれば金なんてものは、日々の食に使えるだけの量があればそれで良かった。

 彼は暴食ではあるが、生活そのものは清貧だ。

 ユザレからの定期的な給金で十分に賄える程度の食事しかしない。

 しかも今回の一件についてもユザレから半ば命令された形であり、本人も金のためにやっているのではないから、貰えるにしたって最低限で良いと判断していた。


「こ、心付けとしてこちらで前金の追加と、報酬金の上乗せをさせていただきますね……」


 引きつりそうになる頬をなんとか抑え込んで、幸子は控えていた狩ヶ瀬に小切手を書かせた。

 いくらなんでも名うての陰陽師をこんな低賃金で使ったとなれば名家として面恥の極み、前金に渡す金額は十倍以上の八十円にしておいた。

 これは公務員の初任給とほぼ同等の金額である。


「そうですか。ありがとうございます」


 変な部分で神経をすり減らしている幸子とは対照的に、凛之助はまるで興味なさげで心にもない礼を云う。

 余人ならば目玉が飛び出して地面を転がるほど法外な値段だが、金に頓着のない彼からしてみれば、おいしいものが腹いっぱい食べられそうだな、くらいにしか思えなかった。

 ある意味で大物である。

 いつの世も、面目と醜聞に気苦労するのは金持ちばかりであった。


「これで話は、纏まりましたかね」


 黙っていた坂口が、ハンケチで額の汗を拭いつつ視線を巡らせる。

 言葉家の面々は声を揃えて首肯で返し、凛之助は無言で頭を下げた。

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