第五十二話


「お前と栗彦の魂はいわば水と油。光と闇。表裏の関係にあり、決して同居し得ぬ宿命にある事は承知の筈だ。燃え盛るような情念に囚われていても。それが叶わぬ願いだとお前にはわかっている筈だ」


「黙れ……その名で彼を呼ぶな、それはだけの彼の名だっ!」


 ――まんまと燻し出されたな、と嗤う男の方へと、光を差し向けていった栗彦。メザメは懐より取り出した“黒塗りの呪符”を一枚指の先に挟み、胸の前で印を結んだ。


「陰陽五行道に光は無いが、ソレと闇とが相互関係にある事は誰しもが理解している」


 ――栗彦の光明に覆い被さるは、まるで頭上より降り注ぐ泥々の暗黒であった。頭から墨汁を被せられたかの様に、視界は上方より垂れて来る無数の闇に遮られて光が遮断されていく。しかし一方的に塗り染められていく訳ではなく、魃が目一杯に光を解き放てばそれは徐々にと立ち退いていく様だった。


「流石だな、八枚もの呪符を使って押し負けている」


「――陰陽師風情がっ!!」


「だがしかし、“邪”であるならば僕の十八番おはこだ」


 闇が深度を増して光と拮抗する――。

 夜の帳に昼間の陽光が――。


 まだしばしと暗黒に巻かれた栗彦の視界は闇に遮られていた。そしてもがき、苦しみ、闇を切り払っていく最中にその耳に聞く。


「自らを程なく消え入る運命と知りながら、何故お前は一人の男の願いに誠実に尽くそうとする? たとえ栗彦との同化を果たせたとしても、キミは遅く無い未来に、その身より消え去るのだろうに」


 メザメの言葉にハッと口元を手で覆ったのはツユであった。


 ――ばつは放っておいても兄の体から消え去っていた? 魃の死がもう逃れようも無い事であったとするならば、それならば何故、こうまでして兄の願いを必死に遂げようとするのか。……果たして神とは、それ程までに義理深いものなのであろうか?


 しかし何故だろう、メザメが先程述べたという言葉が、どうにもツユの心の何処かに引っ掛かっていた。

 メザメは続けていく。


「キミがその身を奪い去ろうと考えているのでは無いと気付いた時、僕はこのままキミが自壊するまで捨て置こうとも考えたのだが……盗られた毛皮と、兄を思う一人の純真がどうにも気掛かりであった」


 濃密な闇を光が切り払った時、栗彦は石畳の方へと移動していたメザメに向かって、伸縮する肉の管と共に目を血走らせながら迫って行った。そのおぞましい人相は、もはや如雨陸のものとはかけ離れている。


「この鳥辺野に幽閉され、風化を待たれるだけとなった悲しき神――魃よ。お前は人に利用され、人に虐げられて来た怪異だ。人間をひどく怨んだはずのお前が、どういう風の吹き回しで栗彦に肩入れする」


「黙れ――ッ!」


 これまで冷静沈着な態度を崩さなかった栗彦が声を荒ぶる。そうしていざやとメザメに肉薄した時、その足元で何かが割れたのに気が付いた。


な……?」


 栗彦の足に触れて瓦解していたのは、“黒い包帯を巻かれた土人形”である。割れたその内部より禍々しい気が立ち込めて来たかと思うと、半透明の髑髏しゃれこうべが一つ、栗彦の腰に纏わり付いた。


「それは割った者を三代祟ると言われている呪物。いかに神といえど、それだけ強い呪いには骨を折るだろう」


「おのれ……っ」


 恨めしそうに縋り付いてくる髑髏が、悶える栗彦の顔に顔面を近付けていく。

 それはいつか、メザメが骨董屋でツユを脅した品物である。実在したのかとツユが目を見張っていると、向こうで目を覚ました安城が声を上げたのに気が付いた。


「あ……」


 どういった運命の悪戯なのであろうか。フーリの猛攻により糸が切れて脱力された魂が死屍累々の様相で積み上がっていく中で、一つの魂が安城の頭の側に膝を寄せて、仰向けに倒れ伏したままの彼の表情を覗き込むかの様な格好で事切れているのである。


「あ……ぁあ」


 それは抜け殻となった安城廻の魂であった。狐がその身に取り憑く前の主。その彼が、落ち窪んだその瞳で自分の身を見下ろしていたのである。


「ごめん……ごめんね、本当に」


 安城の目尻より一筋の涙を垂れていた。不思議な事に、彼の見上げる抜け殻の表情には恨みや憎しみも無く、むしろ彼に「夢を叶えてくれてありがとう」とでも言っているかの様な微笑みが刻まれている様にも見えた。


 安城は誓う。

 その心に。その生涯に。

 ――彼の夢を抱いて。


「生きる。生きるよ。キミの夢も、これから抱く僕自身の夢も、全部背負って……」


 そう言って彼の頬を撫であげると魂は霧散して夜に消えていった。

 周囲に積み上がった魂達もまた煙となって闇に溶けていき始める。

 主人のある者はその元へ。無い者は天へと、その魂を還らせていく。

 霊魂が一斉に蒸発を始めた空を見上げて、メザメは裂ける様な口元で嗤う。


「この怪奇もまた、神の終わりを悟ったらしい」


 ――


 怪奇が――『異界のおみくじ』が崩壊を始めている。異界を形成していた思念が、存在が、魃の終わりを見越して霧になっていく。

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