第四十二話



 メザメの突拍子も無いその言葉に、ツユは時が止まった様な感覚がした。そして彼の正気を確かめるみたいにメザメの顔を見下ろしてみたが、そこには至って平然とした面相が落ちているばかりであった。


「見てはいませんけど……でも、人が数百と吊るされていたんです。栗彦に追われて見つけるどころじゃなかったですけど、あの無数のてるてる坊主の中に兄はいるんです」


「しかし見てはいない。キミの兄の魂は未だ如雨陸の中にあって、魃というもう一つの魂をその身に宿し、いま一つになろうとしている。そう考えた方が自然じゃあないか?」


「その肉体と一つになるという意味では?」


「いいや、如雨陸の肉体と一つなるという意味で用いられているのであれば、肉体の同化は既に完了している事になるのだから。一つにと未来系で述べているのはおかしい。その場合は既に終えているのだから一つにと過去形で表現する筈だ」


「そんなつぶさな言葉の言い間違い、誰にでもあるんでは無いですか?」


「栗彦は何を目指してた? 小説家だ。些細な日本語の違いに最も敏感に反応するのが文筆家という輩だ」


 人を小馬鹿にする様な嘆息を聞いて、ツユはまつ毛を震わせながら否定していた。


「でも『異界のおみくじ』にだって兄が吊るされていく描写が――」


 ――


 メザメは瞳を光らせて、栗彦の口より語られた些細な言葉を繰り返した。そう、栗彦自身が言っていたでは無いか、と。


 ぐうの音も出ないとはこの事なのか、手を振り上げる位に勢いづいたツユの態度は急速に失速していった。


「ははァ。だれが何のために『異界のおみくじ』を記したか。僕は当初そんな疑念を持ったものだが何の事はない。あれは魃とキミの兄による二つの意思でもって紡がれた共同作品であったのだ。つまり物語の中に怪奇の真相へといたる道標をキミの兄が意図的に含み込ませた。それは魃との契約に応じながらも、心の奥底で何処か救済を求める深層心理が故に、だろう」


「兄はやっぱり、心の奥底で誰かに助けを求めていたと……? ウェブという不特定多数の目に留まる場所に『異界のおみくじ』を投稿する事で、SOS信号を発信していたって言うんですか?」


「キミの兄がその様に回りくどい一計を案じたのは、自らの内に潜む魃へと、その真意を悟られぬ為であったのだろう」


 メザメに言われてしばし考え込んだツユ。あの時も、あの時も、ツユを前にしたあの栗彦の瞳の中に、兄が……いた?

 だが確かにいま考えてみれば、異界を逃げ出す時に栗彦は、ツユに「逃げろ」とそう告げた。あの無感情な瞳の奥に、微かに兄の自我が残されているのだとしたら……。


 わからない。あの目に宿った深淵が、日に日に深く翳っていく事に気が付いたのはいつの事だろうか? 去年の兄の誕生日に兄の体に魃が宿ったのだとすれば、ツユは初め全く違和感を感じずに魃と過ごしていた事になる。如雨陸の中にある兄の魂が、徐々にと侵食されているという事を意味していると言うのならば、

 ――兄は、少しずつ。神に体を食い尽くされようとしているという事になる。


「じゃあ、栗彦の言う……完全に兄を理解したというその瞬間に兄は、兄の魂は完全に」


 動揺し切ったツユが点滴を引き抜いてベッドから立ち上がり、いそいそと側の引き出しに仕舞ってくれていた衣服に着替えようとするのを緩々と見上げていきながら、メザメは鼻から一つ息を吐いた。


「待て、何処に行こうとしている。後の事は僕に任せろ、キミを三度みたび危険な目に合わせる訳には……」


 下から見上げる形でツユの事を窺ったメザメだったが、そこに表出していた意志の強さを察した彼は、言い掛けた口元を閉じていくしか無かった。 そうして観念した様に眉を歪めると、唐突にツユの前腕をハンカチで抑え込む様にして掴んだ。


「止めないでくださいメザメさん!」


「違う……」


 その手はツユの言動を遮る為ではなく、今しがた引き抜かれた点滴針の穿刺部からの出血を圧迫止血する為に添えられている様であった。点滴を落としていた場合は特に、しっかりと圧迫してやらないと血と薬液が流れ続けるのだ。

 止血の確認後、メザメはハンカチを仕舞い込みながらに呟く。


「キミのその、胆力だけには舌を巻く所があるな……」


 感心しているのか呆れているのか、そんな表情をしているメザメにツユは強い口調で宣言した。


「置いていくなんて言われても、絶対についていきますから。兄は口先では本望かの様に言いながらも本当は助けを求めていたんですよね? だったら唯一の家族である私が行かないでどうするんですか! さぁ早く、急がないと兄の魂が魃に!」

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