第四十話


「そうです。


 そう強く言い放つ事で、ツユは混乱していた自分自身の脳内に整理を付けると同時に、メザメとの問答を仕切り直したつもりだった。


「言ってたじゃないですかメザメさん、あそこに居る人は、生きてもいないし死んでもいないって。それなのに……それなのに安城さんの魂は」


「……」


「まるで長く吊るされて干物になった魚みたいに、もうそこに生気が無かった!」


 点滴棒に吊られた薬液がポタリポタリと等間隔で落ちていた。ゆっくり、ゆっくりと、目には見えない位の速度でその中身を消費していって、いずれその内容物を全て絞り尽くすのだ。まるで異界に吊るされた人々の様に。

 重苦しい空気の中で、メザメは腕を左右の袖口に潜り込ませながら腕を組んで、額を俯かせながら表情に影を被せた。


「……厳密には、そこで干乾びた魂は死ぬ事も出来ずに、残留している。もう考える事も、動く事も無いがな」


「それって死んでるのと同じじゃないですか!」


 そんな叫声の後にしばしの沈黙が訪れる。騒ぎを聞き付けた若い女性看護師が部屋に顔を覗かせたが、メザメは手で簡単に合図をして「何でも無い」と彼女に伝えた。


 窓辺の網戸に張り付いて、カサカサと音を立てていた枯葉が飛んでいった。流石に肌寒く感じたのだろうか、薄い肌襦袢一枚と黒い着流しだけの姿で胸元の白い肌を覗かせていたメザメは、開け放たれていた病室の窓を閉めて回った。そこのハンガーに紋々入りの藤色をした羽織が掛けられている事から、岐阜から京都に来るまでずっと薄着でいた訳では無いらしい。袖口から覗く手首には何本かの数珠が巻かれていて、首には色とりどりの五つの勾玉が、左から琥珀、瑠璃、翡翠、赤瑪瑙、黒水晶の順で革紐に下げられている。彼の性分から考えても、単なる装飾品という訳では無さそうだ。

 メザメが再び窓際の丸椅子に腰を沈める頃には、ツユはベッドの上で三角座りをして、揃えた膝の上に顔を伏せている様子だった。


「僕の見立てが間違っていた、すまなかった」


「……」


 ようやく素直に謝罪の言葉を述べたメザメだったが、ツユは依然として塞ぎ込んだまま石の様に動かなくなってしまっている。

 やがてこもった声で彼女は呟く。


「メザメさんでも間違う事ってあるんですね。なんとなくですけど、メザメさんは絶対ミスをしないような、完璧な人なんだと思っていました」


 いま彼はどんな顔をしているのだろうとツユが密かに視線を上げると、メザメは再び足を組み、手元で開いた鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』の文庫本を眺めていた。そんな有様で「すまなかった」なんて言われても全然誠意を感じない。

 ……もっとも、メザメが止めるのにも構わずに異界に同行する事を強行したのはツユであるのだが。


 ――パタリと本が閉じられたので、ツユが慌てて視線を膝に埋めようとすると、刹那の瞬間に顎先を引っ捕えられて顔を強引に上げさせられていた。


 死体の様に白い肌……目前に端正な目鼻立ちがある。冷酷を思わせる瞳はやや怖いが、案外このミステリアスな男の顔立ちは整っていると思えた。


「にゃっ……にゃにするんでふかっ!!」


 対して顎を掴まれたツユの方は、いつの間にやらメイクも落とされて、非常にブサイクな表情をしていた。頬をグニっと掴み直されて、ツユはメザメに言い放たれる。


「完全な存在などあり得ない」


 氷の様に冷たい手を振り解いて解放されたツユは、純情を弄ばれた様な、いたたまれない気持ちになって、白いシーツをたくし上げながら口元を覆った。

 真っ赤な顔してわなわなと震えだし、どう言ってメザメを非難してやろうかと思案していると――その最中に、はたと思い至る。


……栗彦も確かそんな様な事を言っていた様な……完全に一つに……あれ、なんだっけ?」


 栗彦の言葉を思い出そうと試みると、全身から嫌な汗が吹き出してきた。次の瞬間には腕に鳥肌が立って思考に黒いモヤが覆い被って記憶が遮断される。正体不明の衝撃に唇を震わせるだけとなったツユに、メザメは視線を向かわせながら言った。


「それがだ。キミの中に巣食う怪異……キミ自身の心が生み出した物だ」


「私自身が……?」


「そうだ、キミははじめから恐怖という名の怪異に取り憑かれている」


 メザメと出会った頃に、怪異が憑いていると言われて以来、ツユは内心随分と気を揉んでいたものだったが、メザメの言う怪異の正体とはそんなものであったらしい。

 ……しかしそんなこと事こそが重要であるのだと言わんばかりの剣幕でメザメは言う。


「人知れず、キミが兄へと抱いていた恐怖。その恐怖こそが栗彦の力を増強する。何故ならばあやかしの類とは、恐れ、信じられる程にその力を増すのだから」


 メザメは続ける――。

 しかし勝利の鍵とは、そういった深淵の中にあるものだ。

 ――思い出せとメザメはツユを促して来る。


「でも」


 恐ろしい、恐ろしい、おそろしい……。


 思い返すだけで、トラウマがフラッシュバックするみたいに心臓の鼓動が痛い位に早くなる。動悸がして、胸が苦しくなって、次第に呼吸の仕方も不規則になってパニックを起こしそうになってしまう。あの肉の管がみんなの命を絡め取って空に吊し上げてしまったんだ。


 ――私は栗彦に、兄の顔をした怪異に、恐れを抱いている。

 ……それでも。


 ツユの脳裏に兄が、フーリが、安城の姿が思い起こされる。みんな身を挺してツユの事を守ってくれた人達だ。


 ――彼らを救いたい。違う、救わなければならない。


 ……そうと決めたならば、なんかがなんだ。自分自身の心が生み出した幻影に足を止められている場合なんかじゃないのではないか?

 嗚咽を漏らしながらもツユは、栗彦の言葉を、その時の記憶を少しずつ思い出していった。それが異界に幽閉された三人の命を救う事に繋がるのだと、そう言ったメザメの言葉を今度こそは信じながら。


……」


「そう言ったのか、栗彦が」


 ニヤリと裂ける様に口角を上げたメザメ。彼の胸元で翡翠の勾玉が照り輝いていた。

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