第9話 真理子
女子大を卒業する時、就職の決まっている友達は少なかった。
女子学生の就職難、氷河期とまで言われていた。
「いいよな、真理子は。大手でさ」
親友の塚ちゃんは、理系科目が得意な珍しい女子だったのに、高校生の時から編集者を目指して、文学部に進学していた。大手出版社は軒並み今年度の採用無しと断られた。やっと決まったのは、飲料メーカーの下請け会社の営業だった。
この不況では、大手でも下請けの子会社でも、いつ会社が無くなるかわからない。
都市銀行だって潰れる時代だった。
真理子も総合職を目指していたけれど、決まったのは建設会社の秘書課だった。秘書とは名ばかりで、実際には受付だということは承知していた。それでも、早い時期に就職が決まって、安心できた。
見た目が影響したことはわかっていた。
高校の時は、校内のミスコンで優勝した。
勉強だってがんばった。
女子大生なんて、頭悪そうに言われるのが嫌いだった。偏差値はあんたの大学より上よ! と合コンの度に思っていた。
今は、ただの受付だけど、きっと、今に、仕事のできる女だって認めてもらえると思っていた。
三年も経つと、会社のことがすっかりわかるようになっていた。
所詮、この枠からは出られないことも。そういう立場で採用されたのだということも。
受付嬢は、社内外からちやほやされて、気分が良かった。
そろそろ、結婚のことを考えていた。
夢見ていたのは仕事のできるいい女だった。
でも、今は、どれだけ条件のいい男と結婚して寿退社するかが、最大の目標になっていた。三十歳を超えたら、受付は、若い後輩にかなわない。
社内の男なら、安泰だった。うちの業績なら、潰れない。
二十五歳になっていた。付き合った男は、そこそこいたけれど、「この人!」と思える人はいなかった。
その年の忘年会は、十二月二十四日だった。
「イヴに忘年会なんて、ホント、うちの会社、気が利かないよね」同僚の女が言った。なぜかその女は総合職だった。
真理子も同じ意見だったけれど、丁度、イヴを前に、彼氏と別れたばかりだったので、イヴを実家で過ごすという、残念な女にならない口実ができてほっとしていた。
例年の忘年会なら、二次会、三次会は当たり前だったけれど、その年は「イヴですから」と、一次会であっさりお開きになった。
家族のある人は、家族の待つ家へ。恋人のいる人は、遅れを詫びるため、きらびやかな街へ消えていった。
なんとなく飲み足りない気分だった。それでも一人で店に入るのは嫌だった。寂しい女と思われたくなかった。
虚しい気持ちになりながら、歩き出した時、「飲み足りないですね」と声をかけてきた男がいた。
いつも笑顔で挨拶をしながら受付を通って行く男だった。名前も知らないし、タイプでもなかったから、部署も特にチェックしていなかった。
「もう一軒、行きませんか?」と誘われても、普段ならやんわり断っていただろう。
イヴだったのがいけなかった。帰りたくないと思っていた。
二人で、何軒かまわったが、どの店もいっぱいだった。
「イヴですからね」諦めて、真理子が言うと、「僕のマンション、この近くなんです。僕の部屋で飲み直しません?」と誘ってきた。
いつもなら、断っていただろう。
イヴだった。恋人と別れたばかりのイヴだった。一人でいるのが嫌だった。
男は、自分より四つ年上だということが分かった。たった四歳だった。まだ二十代なのに、品質管理部の係次席だった。
「へー、すごい!」と、男の部屋で、コンビニで買ったスナック菓子をつまみながら、チューハイを飲んでいた真理子は、素直に褒めた。
男は、ちょっと得意そうに笑って、「ずっと、憧れてたんです。受付にいるあなたに」と告白した。
部屋に上がったときから、ある程度覚悟はできていた。
イヴの寂しさを埋めてくれるなら、一晩くらい付き合ってもいいと思っていた。
真理子は面食いだった。男は、まったく琴線に触れてこなかった。
それでも、今夜だけなら、こんな日には私を褒め称えてくれる男が必要だと思った。
真理子がイキそうになって声をあげた時、男が囁いた。
「かわいい、声だね」
その一言で、真理子は堕ちていた。
今日の夕飯は、牛肉と牛蒡の柳川風、マグロの山かけ――味噌汁は作るけれど、あまり飲まれない。あの人は晩酌をするから。
ラップをかけて並べたおかずを前に、真理子は思い出していた。
今年で、私たちは、結婚何周年だったかしら? お互い、会話も少なくなって、愛し合うことも少なくなった。
子供はできなかった。真理子は不妊外来を受診したが、問題なかった。夫の方に問題があるらしかったが、切り出さなかった。そんなことをして、関係をこじらせたくなかった。
真理子は、結婚と同時に仕事を辞めた。
仕事のできるいい女が目標だった。
今は、夫に扶養される専業主婦だった。
夫の収入は十分だった。自分は主婦業を頑張ろうと思った。
結婚してわかったことは、主婦は誰にもちやほやされないということだった。
どんなに頑張って作った夕食も、夫はただ餌のように食べた。なんの感想も、感謝もなかった。
新婚のときは、そうでもなかったかもしれない。
「あ、この匂い。カレー? 真理子のカレー、絶品だよね」帰ってきた夫が、そんな風に言ってくれた時もあった。
専業主婦には報酬がなかった。
これが食べたかった・おいしい・ありがとう
そんな言葉だけが、報酬だった。
――結婚して何年くらい経ってからだろう。夫は、最低限の報酬すら払わなくなった。
給料は、何時でも口座から下ろせた。好きなものを買うにも、とくに許可は必要なかった。
それで、十分だろと、夫の態度は言っていた。
料理は――結構手間がかかっている。
ほんの一言、私を喜ばせる一言。
この料理を作る手間を考えたら、あなたが感謝の一言を言うくらい、なんてことないんじゃない? 私を褒めたら、あなたの何かが削られるの?
結婚生活は、だんだん虚しくなっていった。
自由にお金を使うことができるのはありがたかった。
いまでも、塚ちゃんとは付き合いがあった。
真理子は二十五歳で結婚したが、塚ちゃんは四十歳を過ぎた今でも、独身のままだった。
ただ、会社での地位は上がって、今では飲料メーカーの下請けではあったけれども、企画や契約もこなすバリバリのキャリアウーマンになっていた。
塚ちゃんの有休にあわせて、よく旅行に出掛けた。
旅行費用も、特に、夫は何も言わなかった。
それなりに、私は幸せなんだろうと思っていた。
塚ちゃんと出掛けるときは、真理子は服装に気を付けた。
専業主婦と、働く女は、同じようにリラックスできる普段着でも、やっぱり装いが少し違った。
塚ちゃんに見劣りするわけにはいかなかった。
春の日差しが暖かくなった季節の京都を旅した。年度初めの忙しさがまだ続いているらしく、夫の帰りは毎日遅かったが、別に私が気にすることではなかった。
女同士の旅はいい。
見たいものも、食べたいものも、疲れたからお茶にするタイミングも、気兼ねなく口にできた。
何を言っても、否定的な返事しか返ってこない「男」とは違って、心底楽しめた。
湯葉の店で、お昼を食べていた時、塚ちゃんの携帯に電話が入って、表情が険しくなった。
「なんか、トラブル?」真理子が心配そうに訊いた。
「ごめん、真理子。私、すぐ帰らなきゃならなくなった。」
「仕事? 大丈夫?」
「うん、なんとかしなきゃ。でも、私が行かなきゃ。あと一泊あったのに。ごめんね」
「何言ってんの。旅行はまた来れるし。塚ちゃん、がんばって!」
「ありがとう……私、すぐホテル帰って、荷物片づける。真理子はゆっくり観光していって。」伝票を持って立ち上がる塚ちゃんの向かいで真理子は、「まさか、私も一緒に帰るわよ」と言って立ち上がった。
塚ちゃんを散々、激励して駅で別れた。
なんだかどっと疲れた。
それでもこれから仕事に行って、大変な思いをする塚ちゃんを思うと、私は恵まれていると思えた。
玄関を上がった時に、知らない靴があることには気付かなかった。
着替えようと二階の階段をのぼりかけた時、物音に気付いた。
「なんだ。もう帰ってるんだ」と思った次の瞬間、その物音が、まさにアレのときの音だとわかった。
リズミカルにマットレスが沈む音、夫の漏らすくぐもった呻き、聞きなれない声の甲高い喘ぎ――
真理子は階段の途中で動けなくなった。
(AVを見ているだけかも)違うことはわかっていたけれど、そう考えてみた。
伝わる振動が、AVではないことを知らせていた。
今、踏み込めば、決定的瞬間。
しばらく足を止めている間に、怒りがふつふつと湧き上がってきた。
とっちめてやろうと思った。夫にも土下座くらいさせよう。女からは慰謝料をとってやろうと考えていた。
ふいに真理子は怖くなった。
(もし、私が踏み込んで、騒ぎたて……あの人が、私を選ばずに、この女を選んだら……)
もう、愛してもいなかった。同じように愛されているとも思っていなかった。
離婚していないだけ……の関係。
夫が今、欲している女性を前に、私を選ぶだろうか……。
夫と別れることは、なんでもないことだった。
でも、仕事を辞めてしまっていた。専業主婦になって、二十年以上経つ。慰謝料で一生は暮らせない。
そんなことを考えながら、真理子が固まっていると、女のあえぎ声が切なげになって、夫の名前を連呼しながら、イクっイクっと騒いでいた。
呆れて目をぐるりと回しながら、真理子はやっぱり踏み込んでやろうと思った。
体裁を気にする夫が、こんなバカ女のために、離婚劇を繰り広げるわけがないと思った。
ドアの前に立ったとき、夫の囁きが聞こえた。
「かわいい声だね」
真理子はビジネスホテルのシングルを一部屋とった。
駅に近い自宅からは、徒歩圏内だった。遠くまでいくほど、気力が残っていなかった。
(だいたい、私が逃げだすことじゃないのに)
真理子は、部屋には踏み込まず、旅行の鞄をまた持って、そっと家を出てきた。
もう一晩、予定通り外で過ごして帰ろう。
きっと、明日、夫の帰りは遅いだろう。
「これから、どうしよう――」全てがバカバカしく思えた。
あんな安っぽいセリフにほだされて、あんなつまらない男と結婚した自分を恨んだ。
仕事のできるいい女になりたいと思っていた。
こんな筈ではなかった。
シンとした部屋の中で、自分のお腹がなる音が妙に大きく聞こえた。
空腹だった。
この何日か、塚ちゃんと食事、お茶、試食と始終胃袋を甘やかしていたのに、今日は昼食を早々に切り上げた後、何も食べていなかった。
「コンビニでも行こうか」声に出して独り言を言いながら、真理子は部屋を出た。
コンビニのおにぎり売り場で、おにぎりを選んでいると、陳列棚のミラーに自分の疲れた顔が映った。
(私、何してるんだろう……)
仕事のできるいい女になる筈だった。
それなりにモテた。
頭の回転が早い。会話が面白い。顔がかわいい。
ちやほやされることにも慣れていた。さほど恋人に不自由したことはなかった。
なのに、あのクリスマス・イヴだけは、寂しくてどうしようもなかった。
別れたのは社内合コンで知り合った彼氏だった。
今では、誕生日さえ覚えていないけど、格好良かったことは覚えている。大好きだった。そろそろ結婚したいと思っている時の恋人だった。少し、そんなことを迫りすぎたかもしれない。大人になった今ならわかる。男には負担だったかもしれない。今、どうしているだろうか。今も、あの会社にいるのかどうかも知らなかった。今、どの程度の男になっているだろうか。あの頃の私が、今の私くらい、ものがわかっていれば、きっとあの男と結婚していただろう。
あの頃は、セックスだって、してもらうものだと思っていた。今なら、喜ばす術も知っている。今の自分なら、あの男を逃がさなかったかもしれない。
陳列棚のミラーに映った自分の顔を見ながら、そんなことを考えていた。
(馬鹿じゃない。あのパっとしない旦那一人、惹きつけておけないのに……)
情けなかった。光っていた時もあったのに。
なんて無駄な時間を過ごしたんだろう。
塚ちゃんが羨ましかった。
自分のことを「行き遅れ」と言いながら、バリバリ働いている友人は、今も輝いていた。
容姿は、決して恵まれた人ではないのに、真理子の目にも魅力的に見えた。同じように歳をとっていた。肌も疲れていた。それでも、目の輝き、豊かな表情。
外の世界で働いている塚ちゃんと、家の中で時間を殺してきた自分とでは、明らかな違いを感じていた。
もっと早く気がつけばよかった。取り返しがつくうちに……
割と十分なお金があって、自由もあって、時間もあって――自分は恵まれているのだろうと思っていた。
塚ちゃんが、旅行先から呼び戻された時も、家に帰れる自分が恵まれていると思っていた。
今は、ヘロヘロになって仕事をしているだろう塚ちゃんが羨ましかった。
塚ちゃんは、必要とされていた。
『私が行かなきゃ』と言った塚ちゃんの一言が、頭の中で響いた。塚ちゃんがいなきゃ、ダメなんだ。有休中なのを百も承知で電話してくるくらい。
大変だなぁっと思っていた。
今は、ただ、羨ましかった。
私がいなければ、ダメな場所なんて、どこにもない――
泣けはしなかった。悲しくはない。ただ、虚しかった。『私』というものの、時間がもったいなかった。
おにぎりを買う気が失せて、コンビニを出た。
後悔するだろう。今、ホテルに帰ったら、もう出掛けたくなくなる。空腹なのに。何か買えばよかったのに。
もう、自分が何をするのが正しいのか、わからなかった。
外はすっかり暗くなっていた。
コンビニに入った時と違う出入り口から出たのだろう。少し歩いて、方向が違うことに気がついた。
駅前の通りではなかった。もう閉まっているブティックらしき店のショーウィンドウに自分が映っていた。店が暗く、外の街灯が明るいので、鏡のように良く見えた。
いつもの自分ではなかった。塚ちゃんと一緒に旅をしていたから、ちょっと意識した服を着ていた。薄紫色のキュロットスーツは、堅苦しくはなかったが、まったくラフでもなかった。キャリアウーマンの普段着に見えなくもなかった。
(そうよ、あのイヴの日に、あんなくだらない男に引っかかったりしなければ、私は今でも働いていたかもしれない)真理子は想像してみた。
結局、結婚できなかった、と嘆く日もあるだろう。でも、日々の忙しさが忘れさせてくれる。恋人はいるだろうか。きっと、仕事の邪魔で、深い付き合いはできないだろう。でも、真理子さんがいなければダメだと言われて、何の予定があっても押して仕事に向かう自分を想像した。それは、結婚よりも価値があることに思えた。
きっと、旧姓のままだろう。如月 真理子。この響き、結構好きだった。
結婚して今は、斎藤 真理子だった。なんて平凡なんだろう。
またバカバカしくなって、方向違いだとわかっている道を進んだ。
ホテルに帰ったって、虚しいだけだ。
夜の街を一人で歩くなんて、いつ以来だろう。
私が、仕事帰りのOLなら、どなん店に入る?
丁度、目の前に、洒落たバーらしき店があった。
駅から少し離れている。あまり混んでいないかも。
一人で店に入るのは、嫌いだった。寂しい女に見えたら嫌だから。
でも、仕事のできる女は、きっとそんなこと気にしない。
真理子は、思い切って、店のドアをくぐった。
「いらっしゃい……」
店には、客が一人もいなかった。まだ薄暗い店内で、信じられないくらい美系の男が、カウンターにガラスの器を並べて、破片のようなチョコレートを取り分けていた。
「こちらへどうぞ」カウンターの席を示されて、かけながら、「へぇ、初めて来たけど、雰囲気のいいお店ね」と、真理子は言った。ちょっと上から目線で。まるで、人の上に立つのに慣れているような口調で。
――実際は、専業主婦なんて、人の都合に合わせてばかりだった。
まるで、召使いみたいだと思うこともしばしばだった。
私は、目覚まし時計じゃないのよ! と、口には出せないけど、何時も思っていた。
専業主婦なんかじゃなかったら。
主婦業だって、会社で働くのと同じくらい大変だった。
会社だって、手抜きしてるダメ社員は幾らでもいた。
主婦業だって、手抜きしてる主婦はいるだろうけれど、真理子は、ほぼ完璧に家事をこなした。
元来、頭の回転もよく、要領もよかった。
これが、企業なら、比較対象がいて、評価が上がっても当然だった。
でも、専業主婦は、何をしても、どれだけ努力しても、それが『当り前』になってしまう。
これだけのことを、いつもこなしているというのに、その評価は皆無で、たまに、手が回らなかった時に、文句だけは言われる。
虚しかった。
私が、もし、あの時、結婚なんて選ばずに、キャリアウーマンのままでいたなら……
真理子は、また考えてしまっていた。
あの時だって、受付から逃れられず、キャリアウーマンには程遠かったのに……
「お仕事帰りですか?」
「ええ。ここのところ、残業続きだったから、もう、今日はやめて帰ってきちゃった。なんか疲れすぎちゃって、ちょっとおしゃれな雰囲気あったから、つい入っちゃったわ。この店」
「それはどうも」綺麗な顔をにっこりとほころばせて、バーテンダーは笑ってくれた。
私を見て会話をしてくれる素敵な男の人。それだけで、嬉しかった。もう、どれくらいこんな感覚を忘れていただろう。『ずっと憧れていた』と夫は言った。そんなこと、今ではもうあの男は覚えてもいないだろう。そう思っていた時、真理子のお腹が、けっこうな音を立てて鳴った。慌てて、下腹に力を入れたりしてみたけれど、音が消えることはなく、結構長く引きずって、静かな店内にお腹が鳴る音は響いた。
恥ずかしかった。それでも、自分はキャリアウーマンだという設定が、真理子を助けた。いつもの真理子なら、慌てて、恥じらっていただろう。でも、ここにいるのは、幾つもの修羅場をくぐりぬけてきたキャリアのある女なのだ。
恥じらったりはしない。
「あら、ヤダ。そういえば、朝もコーヒーだけだったし、お昼休みもろくに取れなかったから、今日は、ほとんど、何も食べてないんだった」あっけらかんとした口調で言うことができた。
「空腹で、お酒飲んじゃだめですよ」バーテンダーは優しく言った。そう言われても、もう楽しくなってきていたので、帰る気はさらさらなかった。
「そうね。そのチョコ、食べてもいい?」バーテンダーが幾つものガラスの器に分けているチョコレートを見ながら、真理子は世慣れた感じで訊いた。
「もちろん、いいですけど。えーと、なんて呼べばいい?」
「あ、私? 真理子よ」バーテンダーに聞かれて、真理子はそう答えた。この素敵なバーテンさんに、下の名前で呼ばれることを想像しただけで、ちょっとときめいた。
「真理子さん、ラーメン食べません?」バーテンダーがそう言いだしたので、思わず真理子は、「へ?」と返してしまった。
「俺も、夕食これからで、コンビニで弁当でも買って来ようかなって、思ってたんですけど、二人分なら、ラーメン出前とれるんですよね。一人前じゃ持ってきてくれないけど。なんか、ラーメン食いたくて」
シャツの胸元をすこし大胆目に開けた色っぽい男が、まるで思春期の少年のような目で、笑って言っていた。
「真理子さん、ラーメン、嫌い?」
「いやぁ、好きだけど。このお洒落なカウンターで、ラーメン食べるの?」真理子も可笑しくなって笑いながら訊いた。
「大丈夫、開店までにまだ二時間もあるから、きっと匂いも消えるでしょう!」
開店前だとは知らずに入ってきたことを詫びた真理子は、ラーメン付き合ってくれたら許しますと言われて、今、白く長いカウンターの端の席で、並んで醤油ラーメンをすすっていた。可笑しくて、何度も笑った。
「チャーシューあげる」真理子が自分の丼からチャーシューをバーテンダーの丼に移そうとすると、
「駄目ですよ、真理子さん。なんだか、大事なものを人に譲るのに慣れてしまってるみたいだ。あなたは、そう、どちらかというと、与えられる側の人間だ。尽くしたりしなくても、ほしいものを得ることがきる筈」バーテンダーは、真理子の手を押し返した。真理子は、夫に合わせてばかりいるようになった自分を戒められたような気がして、胸の奥が痛んだ。
「でも、よければ、メンマは、半分くれます?」と言って、真理子の丼のメンマに箸を伸ばしたバーテンダーに真理子は「単に、チャーシューあんまり好きじゃないんでしょ? ずいぶん格好良かったけど」と言ってやれた。
信じられないくらい整った顔のバーテンダーは、笑って肯定しながら、真理子の丼からメンマを盗んだ。
最低な日だったのに、結婚してから、いや、思い出す限りのどの時点からカウントしても、最高の夜になった。ときめくという感覚を、久しぶりに思い出していた。それも、まるでデートのように肩を並べてラーメンを食べている男は、今まで付き合ってきた男とは比べ物にならないクラスの男だった。
店の正規の開店時間になって、店内は凄く混んできた。
カウンターには、一人で来ている女客がずらりと並んだ。
ボックス席は、常連客らしい一団が占拠していた。
バーテンダーは一人でこの店をやっているらしく、忙しく動き回っていた。
それでいて、身のこなしがスマートだった。
誰の前よりも頻繁に真理子の前に帰って来て、一言二言、話しかけて行った。
そこに冷蔵庫があるからだと気がついたのは、自分以外の人間が座っていた時だった。
それまでは、マスターは、自分のもとに帰ってくるのだと思っていた。
現実では、相変わらず夫の帰りは遅かった。
仕事が大変なのだろうと思っていた頃には、せめて食事くらい、ちゃんとしたものを食べさせようと、考えたものだった。
食事は毎日、家でとっていた。
あの女は、手料理食べさせたりしないわけ?
面倒な部分だけ、自分が担っているような気がして、面白くなかった。
とはいえ、夫とセックスしたいのかと訊かれれば、それも面倒になっているというのが、本音だった。ただ、溜まったものを吐き出すのに協力しているだけの行為。別に、それで親密になるわけでもない関係。夫婦なんて、つなまらないものだと思った。
私が面倒になったことを、代わりにやってくれていると思えば、少しは気持ちが楽になるかと試してみたが、それは、できなかった。
自分はいらなくなったものでも、他人に盗まれるのは、腹立たしかった。
夫は、以前から、週末に一泊の出張が多かった。
「休日をつぶすのに、どこかで振り替えとかないの?」と、訊いたことがあったけれど、夫は怒ったように、「うちには、子供がいるわけじゃないから、家族サービスは必要ないんでね。他の家族持ち社員のために、率先してこういう仕事を受けてやってるんだよ。気楽な専業主婦にはわからないだろうが、俺が休日を返上してまで、こうやって働いているから、お前の今の暮らしがあるんじゃないか」と言ったので、それ以来、出張のことはあれこれ訊かないようにしていた。
今思えば、何のことはない、ただの不倫旅行なのだろう。
何で、私があんな嫌味を言われなければならなかったのかと思うと、腹が立ったが、最近では、週末、夫が出張だというと、心が弾んだ。
私も、マスターに会いに行こう。
まるで、恋をしているようだと思っていた。
夫のことも、機嫌良く送り出すようになっていた。
夫も、真理子の態度に油断したのか、最近では、二泊の出張も増えてきた。金曜の夜に出掛けて、日曜の夕方まで帰らなかった。
日曜に帰宅した夫は、泥のように眠った。
(いい年して、女なんか作るから。――死んじゃえばいいのに)
だらしない下着姿でソファーを占領して寝ている夫を横目に見ながら、真理子はそう思っていた。
二泊の出張は、真理子にとっても、ご褒美のような週末だった。
誰にも邪魔されずに、キャリアウーマンの週末、という設定を楽しんだ。
金曜の夜は、アロマを利かせたお風呂にゆっくり入り、いままでサボっていた、身体のケアを入念にした。土曜の朝は、思う存分朝寝坊をして、遅めの朝食は、忙しいキャリアウーマンらしく、スムージーで済ませた。そう、自分のためだけに料理をするなら、きっとこんな感じだろう。
いつもよりも、入念にメイクをして、ショッピングに出掛けた。
デパートの化粧品売り場は、結婚して以来、通り過ぎるだけのフロアになっていたが、最近では、入り浸っていた。若い頃は、必要なかった基礎化粧品の大切さが、よくわかる歳になっていた。昨今の化粧品の進化に驚きながら、いろいろ試していた。化粧のノリが悪くなっていることなんて、気にせずに暮らしていたが、今は、どうにかしたい最優先事項だった。
「このファンデは、お肌のキメを整えながら、シミも小じわも隠してくれます。合わせてこちらの美容下地を使っていただくと、化粧持ちも良くなりますし、この下地は、お肌の潤いを保つ力が非常に高く……」美容部員(ビューティアドバイザーと呼ぶらしい)の売り文句は、いちいちこちらの痛い所をついてきて、さすがにこんなに買っては、まずいだろう、と思うほどつぎこんでしまっていた。
それでも、劇的に肌が若返るなんてことはなく、塗りこみすぎて、嫌味な仕上がりになっているのはわかっていたけれど、マスターに会いに行くと思ったら、いつもより念入りに化粧をしてしまっていた。
いつもは、旦那が帰ってくる前に家に戻らなければならないから、そう遅くまではいられなかったけれど、旦那が出張の時は、閉店まで居続けられた。
最後の客になることもしばしばだった。
「真理子さん、この後、何か予定あります?」そう、マスターが誘ってくる。この妄想なら、何度しただろう。
どこへでもついていく覚悟ができていた。
下着も、お気に入りのものをつけていた。無駄毛の処理も完璧だった。
マスターはいつもの通り、店の外まで見送りに出てくれた。
そこで別れて、明るくなりかけた街を歩いて帰路につくのだった。
家の玄関には入れば、私は、また、専業主婦に戻ってしまう。
いつも、帰り道にはそう考えながら歩いていた。
どっちが、本当の自分でも、もう、構わなかった。
マスターの前で、キャリアウーマンを演じているのも、もう場数をこなしているので、板についてきた。本当に、自分でもその気になっていた。出来の悪い部下の顔も、自分に下心のある部長の顔も、かなり鮮明に設定できていた。毎日の色々なしがらみも、次から次に起こるトラブルも、疲労疲弊する雑務も、輝くような成功も、鳥肌の立つような達成感も……鋭い目つきを意識しながら、キャリアウーマンの感覚を養っていた。マスターの前の自分はそういう女だった。
嘘の世界だという虚しさは、ほとんどなかった。
玄関を入って、出掛ける前に完璧に片付けた筈のリビングに、無造作に投げ出された旅行鞄と、抜け殻のようなスーツ、磨いてあったガラステーブルの上には潰したビールの缶が二つと、何かを食べたらしい皿と箸が散らばっている……この光景を見る方が、よっぽど虚しかった。
部屋に入ると、夫がベッドに大の字になって、眠っていた。
なるべく物音をたてないように服を着替えた。
夫がいなければ、ベッドで眠るつもりだったが、仕方なく、長袖のTシャツにジーンズを身に付けた。
「何処、行ってたんだ」夫が目をしばつかせながら訊いてきた。
一瞬、ビクッとしてしまったが、真理子は落ち着いて夫を見返すと、
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら。出張、二泊じゃなかったの?」と、訊き返した。
「早く仕事が片付いたんで帰ってきたら、嫁は朝帰りとはね」
「連絡くれればよかったのに。塚ちゃんに誘われて食事に行って、そのまま、駅の近くのバーで五時まで騒いじゃった」真理子は悪びれもせずに言うことができた。
「夫が休日返上で出張に行ってるっていうのに、いいご身分だねぇ」夫がお決まりの嫌味を仕掛けてきた。以前の真理子なら、卑屈な態度で自分だってどれだけ家事を頑張っているかを訴え、結局取るに足らないもののように言われて惨敗するのが常だったが、もう、夫にどう思われようと興味なかったので、
「本当に、あなたのお陰よ。ありがとう。私、幸せな女だわ」とほほ笑むことすらできた。
夫が驚いたように見返してきたので、思わずニヤリとしてしまった。そんな真理子は、いつもより妖艶に見えた。
「お前も寝てないんだろ」と夫がベッドの半分を譲るように空けた。
「あなたが脱ぎっぱなしにしたスーツをかけて、放りっぱなしの旅行鞄の始末をして、食べたままの食器を洗ってくるわ」そういいながら、部屋を出ようとする真理子を「そんなの後でいいだろ」と夫は引き戻した。
断ると気まずいのが長引く。ヤッておいた方が楽だった。
(本当に出張だったのかしら?)と思いながら、Tシャツとジーンズを脱いだ。
それなら、きっと、女のところへ行っただろう。嫁は二泊だと思っているのだから。きっと、途中で喧嘩でもしたのだろう。不発のまま帰宅したので、私は身代わりなのだろう。そう考えながらベッドに入った。夫がさっきまで寝ていた、汗臭い、生ぬるいベッドに寝るのは不快だった。
ちょっといい下着をつけていた。夫のためではなかった。身体も手入れしていた。こんなところで披露するためじゃなかった。
当然の権利のように自分の体を引き寄せる夫を、拒絶してやりたかったけれど、それよりも、もっと有意義な代替え案を思いついた。
私は、身代わりなんでしょう? あなたも、身代わりよ。とても代役が務まる器じゃないけれどね。
真理子は、ここが自分の家の寝室だということを忘れることにした。
店を出る時、マスターに誘われて、ついてきた部屋。そう、あの時間だから、ブティック・ホテルの類だろう。それでも構わなかった。二人きりになれるなら。やっと、愛し合えるなら。
目は閉じていた。耳をふさぐわけにはいかなかったから、夫の息遣いは聞かないようにした。きっとマスターは、こんなに下品じゃない。
手っ取り早く済ませようとするかのような身勝手なセックスだった。
マスターは、ずっと私とこうなりたかったから、余裕がないの……。そう思うと、少し気持ちが盛り上がった。
(私もよ。ずっとこうしたかったの……。いいの。マスターの好きにして……)自分の妄想に、自分でおぼれた。マスターの手を探して、指を絡めた。
長く、切ない吐息を吐いた。
マスターの店に行くようになって、もう、何年こんな生活が続いているだろう。
相変わらず、牛肉と牛蒡の柳川風とマグロの山かけを眺めながら、真理子はそう考えていた。
(もう、寝よう。マグロは冷蔵庫に入れておいた方がいいかな。いや、そうしたら、あの人は気付かない。ちゃんと夕食の準備はしてあったって見えなきゃいけないし……)そう考えながら、必要なのかと疑問になった。
夫も、もう、女と会ってくるのにいちいち理由をつけたりしなくなった。
この時間で帰らないときは、大抵女だ。
真理子も本当ならマスターに会っている筈だった。今日は、なぜか店が開いていなかった。臨時休業なんて、珍しい。
駅前では、浴衣の女の子を何人も見かけた。花火大会なのだと初めて気付いた。夫は女と花火でも見に行ったのだろうかと思った。自分もマスターに会いたかった。帰ってきて、一人で夫のために用意した夕食を見ているのは虚しかった。
(旦那のエサなんて、痛んだって、知ったことじゃないわ)
随分、毎日手の込んだエサを作っていた。本当にどうでも良いと思えればいいのに。
真理子はせっかく念入りにしたメイクを落としに洗面所に行った。
鏡を見ながら、思った。
最近、せっかくマスターに会いに行っても、あの女がいて、あまり楽しくない。私が行く頃には、あの女は帰るけれど、あの女が帰るのを、残念そうに見送るマスターも気に入らない。だいたいあの女を見つめるマスターの目はおかしい。あの女は、いつも開店前に来てるし。
自分が初めてあの店に行った時のことを思い出した。マスターは開店前なのに、店に入れてくれた。一緒に並んでラーメンを食べた。特別な思い出だった。
(私は、常識のある女だから、あれ以降は、ちゃんと開店時間になってから行っているけど、あの女は、味をしめて、いつも開店前に行っているのだろうか。マスターを自分のもののように思っているのだろうか)
若いから何をしても許されると思っている連中って、ホント嫌。
もう、妄想なのか、リアルなのか、自分でもよくわからなくなっていた。
私も、今度、早い時間にマスターを訪ねてみようかな。私たち、もうそろそろ、一線越えてもいいんじゃない? マスター。
(今夜は会えなかったわね。今夜じゃなくてよかったのかもしれない)真理子は、自分の手を見つめながら思った。
牛蒡になんてしなければよかった。牛蒡は、出来上がりが地味なわりには手間がかかる。包丁の背で皮を削ぎ、笹がきにして、酢水にさらす。アクが強いせいで、手がカサカサしていた。
(こんな手じゃ、マスターに触れない)
今夜は、夏はさぼりがちになるハンドクリームを入念につけて、つるつるの手を取り戻さなければ。
もう、待ってばかりはいない。私からマスターを誘おう。
月曜、夫の帰りは早いかもしれない。でも、知ったことではない。もうどうなったっていい。マスターさえいてくれたら……
栞の存在が、真理子の妄想に拍車をかけていた。
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