もう一人の被害者

 笑顔のはずなのに薄っぺらくて、ここが分岐点だと本能が告げていた。間違えたら、赤字でゲームオーバーとか降ってくるんだろう。実際はもっと痛いんだろうな。もげるほど首を横に振れば、男はゆっくりと頷いた。

 一つに束ねられた俺の腕を持って、床から引き揚げられる。キングサイズのベッドに座らされると、男は腕の紐に触れた。俺、さっきベッドから落ちたのか。

「おじさんも君と同じだよ。気づいたらここにいたんだ」

「誘拐……されたってこと?」

「夜にね歩いていたんだ。気づいたらここに放り込まれていた。……はい、出来た」

 気づけば、腕が自由になっていた。背骨がみしみしと音を立てる。結構な時間眠らされていたらしい。

「犯人は……?」

「ここにはいないよ」

「俺たち、どうなるの?」

「どうだろうね。あの人、時々しかここに来ないんだよ」

 犯人が来ないということは、命の危険はないということだ。最悪の事態だけは免れられたようで、ひとまず息をついた。でも、どうして俺を誘拐したのだろうか。俺自身に目的がないとしたら身代金目当てみたいな? まさか、人生でこんなことを考えることになるとは、事実は小説より奇なりなんてよく言ったものだ。

「あの人はね、ここから出ようとしなければ危害を加えないから」

 裏返せば、逃げようとしたら危害を加えられるというのか。パッと見ただけでは、カメラなどはないが、どこかで監視されているのだろう。

「ここから出られないってこと? それとも出られるけど出たらヤバイってこと?」

「僕も捕まってから一応、いろいろ試したけど無理だったね」

 立ち上がって、辺りを見渡した。一人暮らし程度のワンルーム。窓にはスモークが貼ってあって、明るさは分かるけど何も見えないし、鍵らしい部分は焼けて溶けている。ドアはオートロックなのか、内側からは開けられないらしい。まさに、監禁用の檻みたいだ。携帯も荷物も全部取られたらしく、外と連絡を取る手段はなかった。

「気は済んだかな? 彼に頼まれているんだ。君にここでの生活を教えてやってくれって。そうだ。制服、窮屈だよね。サイズは分からないけど、ジャージーとかあるから勝手に使って。シャワーはあっちにあるよ。キッチンはここね。そういえば、もうそろそろ夕飯とか」

「ごめん。待って。おじさんさ、大丈夫なの?」

「何が?」

「何って……。何でそんな普通にしてられんの?」

 ほうれい線を緩く動かした男は、説明を続けた。目下の死を免れただけという事実に、空っぽの胃が締め付けられた。

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