第8話 高利貸チャップマン


「きゃああああー‼」

「ひゃああああー‼」


 そりゃもう、二人そろって大絶叫したわ! あんなに驚いたのは生まれて此の方、初めての出来事だったから――私の人生を振り返ってみても、あの時の衝撃に勝るのは娘時代に肥桶に片足を突っ込んだ時と空襲位のものさね。

 私達姉妹の前に突如、現れた発条足ジャックはピョンピョンと小刻みに跳ねながら、「むむむ……お、幼子か……オ、が無い! 駄目だ‼」と云い放なち、物凄い跳躍力で跳び去ってしまった。

 余りの突然過ぎる恐怖体験に、私は不覚にも御漏らししてしまったわ……最後に御漏らしをしたのは六歳の時だったから、実に一年ぶりの此の屈辱に思わず涙が出たものよ。オマケに幾ら幼子とはいえ、胸が無いと云われたのにも自尊心を傷つけられたしね……姉の眼にも涙が滲んでいたわ――相当恐かった様で悲鳴は私より大きかったもの。そして告白する事は無かったけれど、きっと姉も二~三敵は漏らしていた筈よ、間違い無いわ。

 

 私達の悲鳴を聞きつけた母や近所の人達が、大慌てで駆け付けてくれてた時には既に遅し――発条足ジャックは屋根伝いに飛び去ってしまったの。

 近所の御兄ちゃん達が後を追いかけたり、警察に知らせに行ったり大騒ぎしたけれど、結局は逃げられてしまったわ。其れから私は御湿りしてしまった服を着替えさせて貰って、姉と二人で警察の事情聴取というのをしたわ。まあ私達は子供だから、大した事は聞かれなかったけれど、周りの大人達は誰も彼もが探偵気取りで推理し合っていたわね。


「発条足ジャックは何時も街の中心辺りの暗がりに現れる。大体、午後六時から九時頃が一番多いな。秋で日が短くなったとはいえ時刻は未だ、午後四時になったばかりだが、此処は中心地から少し離れた距離に在る……と云う事は……」


 其の場を取り仕切っていた初老の警察官が導き出した答えは――発条足ジャックの隠れ家は此の近辺に在り、我が家と其の近隣は発条足ジャックが街へ繰り出す為の通り道になるという事だったのよ。


「冗談じゃないわよ、御巡りさん! 何とかしてくださいな!」

「此処等に発条足ジャックの隠れ家が有るってんなら、とっとと捕まえてくれよ‼」

「之じゃぁ、おちおち夜道も歩けないわ!」


 周辺住民は大騒ぎで警官達に詰め寄ったが、帰って来た返事は情けないモノだったわ。此の近辺の警邏は頻回に行うが、直ぐに結果が出るとは思わないでくれと。

 でも其れも仕方無き事――何せ、当時のリヴァプールはロンドンに次ぐ人口密度と住宅数が有り、更に港湾都市というだけあって、方々から得体のしれない与太者が多く出入りする危険な街だったからねぇ……其れは現在でも余り変わらないけど……でも当時の治安の悪さは今より一段階上だったわよ。

 皆、不満や不安は有るけれどリヴァプールの脆弱な警察組織じゃあ、数多居るチンピラ達の中から発条足ジャックを見つけ出して逮捕するなぞ、不可能だと半ば諦めていたからねぇ――先の話でもした様に発条足ジャックは殺しはしないという、巷の噂を信じて事態が収まるのを、発条足ジャックが消えるのを待つしかなかったよのね。

 でも其れは我が家にとっては死活問題でもあったのよ。


「はあ……まいったなぁ……此の調子じゃあ、賃貸契約は難しいぞ」

「選りにも選って、此の近辺に発条足ジャックが居付いているなんて……」


 父と母は溜息を付いていたわ。何故なら我が家の隣――父の弟の持ち家を貸して家賃収入を得ようとしていた計画が御破算になろうとしていたから。

 父の弟――つまり私の叔父にあたるマット叔父さんは船乗りでね、一度航海にでると一~二年は帰って来れないの。今回の仕事も二年間は帰って来れなくてね……それで留守の間、誰かに貸して臨時収入が得られればと思っていた矢先に此の騒ぎでしょう……凹んでしまうのも無理ないわ。

 マット叔父さんは既婚者でローラという御嫁さんが居たのだけれど、之がとんだ阿婆擦れでね――マット叔父さんが航海に出ている間に男をつくって出ていっちゃったのよ! 唯、出て行くだけならまだしもアレは相当に酷い女でねぇ……叔父さん名義で結構な額の借金を作ってから逃げたのよ。寄港地で電報を受け取ったマット叔父さんは、大暴れして大変だったらしいわ。

 でも騒いだ処で如何にもならない。叔父さんが仕事を終えて帰って来れる迄、一年以上は掛かるから、其の間の借金返済の補填として家賃収入を考えていたのだけれど、此の文字通り降ってわいた発条足ジャック騒動で、借りてくれる人が現れるか如何かという状況となってしまってね……。

 しかも、あの女が御金を借りた相手、チャップマンという男は此の辺りでは評判の良くない質の悪い高利貸でね――貴族や警察とも裏で繋がってるって黒い噂も有る位で、かなり悪辣な商売をしているという専らの噂だったわ。でも私達家族は叔父さんの代理で御金を返却する立場だから、月々の返済が滞ったとしても法的には問題は無い筈だったのだけど……其処は悪徳商人、私達家族に理不尽なを付けて来たの。

 発条足ジャックが現れてから数日後――件のチャップマンが我が家に遣って来たわ……勿論、借金の取立てに……ガラの悪い手下を大勢引き連れてね。


「いやぁ、すみませんねチャップマンさん。例の発条足ジャック騒動の影響で弟の家の賃貸契約が結べませんので、代理返済は未だ無理ですよ」

「おや、其れは困りましたねぇ……此方も商売ですからねぇ、何かとなるモノでも頂けないと帰るに帰れませんよぉ……」

 

 馬鹿を云うな、之は弟夫婦の問題で自分の財産を彼方に払う義務は無いと云うも、チャップマンは借用書には父の名が連帯保証人に記載されていると、嫌らしい貌でとんでもない事を云い放つ――勿論、其れは偽造された書類よ、噓八百も良い処だわ!

 此の男、役人や貴族にを効かせているから滅多な事では捕まらないと高をくくっていて、こんな詐欺紛いの悪辣な取立てを平気でやっていたの。更に質の悪い事に此の男、とんでもない好色家でね……貸した相手の家に可愛い娘が居ると、あらゆる手段を使って借金の形に娘を攫って行く、色魔野郎だったのよ‼

 案の定、奴は借財の形に長女さんには我が家で家政婦として働いて貰おうと、嫌らしい貌でニヤニヤしながら巫山戯た事をぬかしたの。

 父が激高して奴の胸倉を掴もうとしたわ――でも其れよりも速く――姉がチャップマンの……。

 姉は普段は可愛くて大人しいけれど……怒ると、とても恐い人だったわ……。

 両手で股間を押えながら、もんどり打って倒れ込む奴に、聞くに堪えない様な罵詈雑言を浴びせ掛けながら何度も何度も蹴り続けていたわ。一体、何処であんな下品な言葉を覚えたのかしら? 同じ家で、同じ学校で育ったのに……不思議だわ……。

 

 最初、呆気に取られていたチャップマンの手下達が我に返り、姉を止めようと駆け出したと同時に父と母も娘に手は出させまいとして、取っ組み合いが始まった。

 姉はスカートのポケットから小型ナイフを取り出して応戦している。あんな物を何時も持っていたのにも驚いたわ。しかし矢張り多勢に無勢――父も母も姉も喧嘩慣れしたチンピラ達には敵う筈も無く、捕らえられたわ。私は姉を羽交い絞めにしていた傷面の大男の足に、「おねいちゃんを離せー!」と、嚙みついてみた。

 初めは「痛え!」と云って、たじろがせたけれど所詮は幼子の口筋力――大人の力の前には成す術無く、襟首を掴まれて吊るし上げられてしまったの……。

 父も母も姉もエリスを離せと、怒号を挙げているが傷面の大男は嫌らしい声で、「うぇへへへ……此の侭、地面に叩き付けてやろうかぁ~」と、笑っていた。

 雅に絶体絶命――私は恐くなって泣き出した――。


「ぶええええ~ん! おねいちゃ~ん‼」

「止めてー! エリスを離してー‼」


 姉の絶叫が響いた直後――ドゴン‼ ――と、物凄い音がしたの。

 ……何だろう? ……私は恐る恐る瞼を開くと、眼の前にが立っていた。

 いや、違う――柱と錯覚した其れは良く見ると、私を吊るし上げていた傷面の大男より更に背の高い大男だったのよ。其の眼の前の大男が、私を吊るしていた傷面の大男の顔面を拳で撃ち抜いていた。そして中空に放り出された私を、左掌で軽々と受け止めてくれた。


「取り込み中、すまねえが……此の借家の大家さんは誰だい?」


 余りにも突然の出来事に、彼の淡々とした態度に私達家族もチャップマンの手下達も言葉を失った。父が震える声で、何方様か尋ねると――「だから、此処を暫く借りたいと……ああ、名前か? ……えぇと……」と、此の場面に合っている様で合っていない返答をした。彼は何故か少し逡巡した後、此の修羅場の状況なぞ全く気にもしない様子で答える。



「ケムラーだ……クルト・ケムラー……宜しくな」

 




 




 

 

 

 

 

 

 

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