木枯らし


 彼との馴れ初めの記憶は、いつだって甘く切なく私を刺激する。


 秋口だった。数年前のいつかの夕方。

 私は仕事帰り。多摩川沿いを考え事をしながら歩いていた。

 一体なにを考えていたのか、後になってしまうと思い出せないくらいの、凡そどうでもいいようなことだったのだけど、その時は周りが見えないほど深く考えていた。なので、前方から人が近付いて来たことには全く気付かなかったのだ。間合いが5歩くらいになってから、やっと意識を戻して顔を上げた。その途端に全ては起った。ほんの数秒感の間に、驚くべき速さで全ては起ったのだ。

 170センチ程の背格好に、柔らかくクルクルとパーマがかった首の後ろを這う髪。履き慣れたジーンズにティーシャツ、大きな皮のブーツを履き、ノースフェイスの黄色いリュックを背負っていた。50歳近いだろう顔は丁度いい感じに肉付き、ぽこっと愛らしく膨らんだ涙袋と大きくはない優しい眼差しが印象深い。

 恐らく私が気付かないうちから見つめていたであろう、その眼差しは、一瞬で私を捉えてしまったのだ。

 自分の貧相な胸から、不意に目眩がする程の熱い液体が溢れ出し、徐々に体を満たしていくのを感じた。


 この世界には、こんな人が存在したのか・・・


 ほんの一瞬の事だったのに瞬きを忘れて、目の横を通り過ぎていくその人を追った。目が離せなかった。恋なのかなんなのかわからないくらい強烈な感情だった。

 そんな出会いから間も無く、行きつけの店で彼と再会したことで、運命なんて安っちいものを感じてしまったのだろう。再会してから誘われるまでの間、恋の始まりを予感させるベタな展開に陶酔したりして、年甲斐もなく盛り上がってしまったのだ。けれど、その時にはわかっていたはずだった。

 彼には妻子がある。

 淡い思いは胸にしまっておこうと決心までした筈だった。その時までは、ちゃんと常識と良心に従って、それはそれ、これはこれと、自制できていたと思う。

 それなのに、彼への気持ちも時間も溜まる事なく豊かに流れ続けてしまったとしか思えない。

 その結果が・・・

 あれから数年。どういう成り行きでこんな事に?

 あのドルチェのように甘い記憶は、そんなに価値のあるものだったのだろうか?


「愛してる。君が必要なんだ」


 そんな薄っぺらいひと言で、薄っぺらの私の毎日は変わってしまった。


 私はパッとしない顔立ちで、身長ばっかりが取り柄の痩せぎす。胸もペタンコの、意見すらもマトモに言えないような嫌になるくらい気の弱い幸の薄い女。

 日々、売り上げノルマに追われながら、個人的には全く興味ない最新の携帯電話を瑞々しい果物みたいな若い女の子達に混じって、ひたすら必死こいてお勧めする。お勤め品として投げ売りされている野菜の如くぱっとしない四十路を歩き始めてしまった販売員だ。

 自分の売り場を統括しているエリアマネージャーに言われるまま、怒られるまま詰られるままに、覚えたばかりの知識を何とか駆使してお客を騙くらかすようにマニュアル通りの言葉を並べて、いかにも精一杯な親しげな笑みを二重にも三重にも貼付けて、終いにはお願いするような形になりながらも何とか契約を取る。勿論取れない日の方が多い。

 他の若い子達のようにそつなく、愛想良く図々しく抜け目なく、なんて出来る度量などないし、誰よりもノルマ達成率が悪い自分がお荷物になっている事実も、この仕事が自分に向いていないだろう真実もよく解ってはいるけれど、気付けばそんなひたすら充実も何にもない日々を凌ぎながらも随分長いこと働いている。

 でも、それが自分には適当なとこだろうと思っているし、勤務年数ばかりが長いからか切られることがなく、勤められることが充分恵まれていると思ったりしている。それ以上の、と、あまり望んだ事はない。

 例えば、随分長い間、男性との付き合いがないから誰かを欲しているとか。もちろん、いい人がいて縁があればとは思うけど、積極的に合コンに参加したり、紹介して欲しいってアピールしたり、特に誰かと進展しようと思わないくらいには、なにも望んではいない。お一人様が長くて、このまま孤独死予備軍になりそうでも、なんだか、そんな人生が自分には分相応だと思えてしまう。

 特定のなにかへの執着も特になく、あまりに個性がなさ過ぎて、誰かがいいと言えば、特にどうでもいいから流されて同意したりするような優柔不断さだけが取り柄にすら見えてくるくらいの、私。だった。ずっと。それ以外の人生なんて望みもしなかった。それなのに、

 彼が関わってくるようになってからの私は・・・


「俺は、君と一緒にいたいんだ」


 喧嘩をした時には、必ずそんな事を言うのはきっと彼の本心。彼の本音。そう信じたい。信じたかった。

「一緒って・・・どのくらいの一緒?」私は意味の無い問いをしてしまう。

「? どのくらいって?」

「毎日一緒にいる一緒? ずっと一緒にいる一緒? 一緒に遊んだりするような一緒? 偶然一緒の電車に乗ったとかの一緒? 誰とでも一緒に寝るんだねとかの一緒?」

 一瞬の間。そして、間抜けなくらい呆れたトーンにずり落ちた声。

「あぁ、そういう事か。わかんない」

「なに、それ」私は苛立ち、それがもう隠せない。

「仕方ないだろう。こんな状況なんだから。文句ばっか言うなよ」

「誰が、そうしてんの?」

 我慢できない自分勝手になってしまう不満。なにがどうなっても自分勝手な独り相撲にしかならない不満。言う資格等どこにも誰にも無いはずなのに、言わざる負えない無意味な問答。

 不毛な言葉のやり取り。

 間。それも随分と長い間。最近ずっとそう。

「・・・俺、だろうなぁ」

「文句ってなに? どういう気持ちでそんなこと言ってる?」

 わかっていても止まらない、自制のおかしくなった私。

「文句だろ。グズグズグズグズうるせーよ。セックスしてやってんだから黙っとけよ」

 その言い草に、呆れ果てて言葉も出ない。なんて自己中男。こんな男に付き纏っている自分が嫌になる。こんな男と寝ている自分が心底惨めになる。

 彼は不倫とは思っていないと言うが、どこからどう見ても不倫。言ってる事も、やってる事も喧嘩の内容も、返してくる男の台詞も純度100%の不倫だ。1ミリもずれることなくピッタリと嵌っている。

 全ては無駄なのだ。

 交わす言葉も。喧嘩も。話し合いも。泣いても。笑っても。無駄。無駄。無駄よ。

 こんなにも自分が誰かに必死になるなんて。男の事で喚いたり怒ったり、そんなみっともない事をする日が来るなんて。私みたいな薄っぺらい淡白女が、嫉妬、とか。

 別れたほうがいい。

 そんなこと、とっくに自覚済みだ。いつの間にか、あの人の存在がとてつもなく重い。ある日突然、全てを放り出していきなり消えるのが、私の望みになっている。そうしたらあの人は、どうするかな。動揺? まさか。バカげた未練。彼はきっと、何事もなかったように普通の生活に戻って行くのだろう。時々、懐かしく思い出すだけで。そして、また物寂しくなって、他の女を求めるのかもしれない。関係ない。そう思えるようになりたかった。どこまでも、愚かな私。他人の幸せを蝕む蛆虫みたいな汚い女。でも、別れを切り出すのは私でありたい。そんな意味のない意地だけを頼りに、まだ生きている。


 日曜日なのにどんよりとした天気も手伝ってお客もまばらな時間帯だった。

 外で呼び込みをしてこいと言われ私を含めた何人かが薄いジャンパーを羽織って嫌々店頭に立つ。

 冷たい木枯らしが吹き付ける通りを肩を竦めて足早に通り過ぎる人々に、大きく出そうとすると変に甲高くなってしまう声で必死に呼びかける。道行く人は、誰も立ち止まらない。

 あまりの寒さに、若い子達は勝手に時間制で交替をし始める。

 ここ数週間、彼からの連絡は途切れている。どんなにメールを送っても、着信を残しても留守電を入れても、返信も折り返しもなく梨の礫だ。こんなことは初めてだった。嫉妬と不安と心細さに掻き乱され、けれど、なるべくしてこうなったような気もしていて、私の情緒はグチャグチャだ。もしかして、これって別れ・・?

 考えたくなくて、自分が選ばれなかったのだと、直視したくなくて、私は気付かない振りに必死になる。

「最新機種が出ましたー!この機会に是非いかがですかー!只今なら、お得なキャンペーン実施中でーす!」

 そんなか細い私の声を掻き消すようにして、北風が強く吹き付けてくる。

 口から押し出された言葉は、汚い色をした薄っぺらの枯葉のように瞬時にバラバラに引き千切られて軽く吹き飛んでいく。私の吐く息も白く凍らせて粉々に吹き飛ばしていくようだ。ここにあるのかすら怪しい私を、磨り減らして存在自体を消そうとでもするように、木枯らしはその手を緩めることはない。


    い    らっ 

  しゃ    い

            ま   

       せ ー・・


 私は必死に叫ぶ。目の前を通っている人々に向かって大声を張り上げる。

 だのに、口を出た瞬間から粉々になって飛んで行ってしまう。

 なにも残らない。今の私そのもの。いくら苦悩しても悲しんでも何も残らない。人道的な道から外れている歪んだ私の声等この世界には必要ないものだと否定でもされているような錯覚。

 誰かを苦しめている私という存在は、声すらも残らないくらいに引き千切られても当然なのだと、轟音のように耳元に吹き付けてくる木枯らしが怒鳴っている。

 私は、切り捨てられたわけじゃ、ない。


   い 

  か   が  

        で   す

           か  ぁ ー・・


 気付くと店頭に残っているのは、私1人になっていた。他の子達はとっくに店内に戻っている。

 傾き始めた日に、街並はどんよりと染まっていく。

 濃くなった影を纏って行き過ぎる人の群れに、彼を見たような気がした。それも、若い女と一緒だ。抱き合う時に私に向ける慈悲に満ちた優しい眼差しを若い女に向けている彼の姿を。あの眼差しは、私だけのもののはず。なのに。なんで? どうして? もう彼は、どこにも見えない。私は彼を探せない。

 私は誰にも届く筈がない、すぐに吹き飛ばされてしまう声ならぬ声を絞り出し続けるしかない。

 そんな事わかっている。誰よりも誰よりも自分が卑しい女だということなんて。わかっている。わかっているんです。わからなければどんなに楽か。どんなに、どんなに!

 私は堪らなくなって目を瞑る。

 私を揺さぶる風は止まない。冷たくなった手で耳を塞ぐ。薄暗闇の中、目眩がしてくる。未来も救いもない終わりだけがあることを続けている枯葉のような私を、木枯らしはとうに知っていて、だから、お前はここにいるべきではないと私の言葉共搔っ攫っていこうとする。

 それなら、このまま凍り付いて分解されて粉微塵になった醜い私をどこかに飛ばしてよ。

 どうか、このまま私を、どこかに飛ばして!

 こんな私なんて、もう、いらない!

 意地汚い私の存在ごと、この世界から消滅させて下さい!・・・お願いします!

 意地悪な木枯らしは答えない。答える訳がない。

 こんな価値すらも捨てた私が、どんなに願っても叶わないのはわかっている。私は観念しなければいけない。

 私は、彼に捨てられたのだ。

 木枯らしは、ただひたすら、私の存在を否定するように、吹き付けるだけ。

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