第37話 滲んだ瞳は誰のもの

 



 雨が降っている。

 いくつもの細い水の滴が床を叩いて跳ね上がる。


 冷たくて、服が肌にぴたりとくつき気持ちが悪い。サラサラと振り続ける雨の中で、1人の男が寄ってくる。


 何を言っているのかは聞き取れ無い。

 ただ、なんとなく見たことのある男の人の顔が目の前に現れた。


 そうだ、そうだ。

 これはディオだ。

 しかしディオじゃない。

 ディオに似ているんだ。


 顔は黒くはないし、瞳はアーモンド型ではない。声ももっと低くて背も高い。

 きっと違う人だ。

 でも似ている。


 差し出された手を取ると、幸福な気持ちが心にポッと浮かび上がった。


 その人の手は暖かくて、じんわりとその熱が体全体に流れ込んでくるような、そんな気さえした。


 ディオによく似た男性の差し出した手の上に乗った手は、私のものよりも随分と細く、汚れていた。これは私の手ではない……?

 

 瞬きをすると、今度は違う場所に立っていた。



 暗くて、寒い。

 思考も上手く回らない。

 気を抜くと何も考えられなくなるほどぼんやりとするので、この状況を考えることにした。


 これは私ではない? 

 誰かの記憶?

 自分の思った通りに動かない体は、何処かへ向かっているようだ。


 徐々に体が凍るよう冷たくなっていく。

 寒い。

 足は痛い気もする。

 手も痺れている。

 良くない状態なのに、進む足は止められない。

 視界は狭く、暗く、耳は何も聞こえない。


 視界が途切れた瞬間、唇が動いた。


「タスケテ」


 私の声ではない、酷くノイズの混じった悲しい声。


◆◆



 寒くて体が痛い。

 背中を打ち付けたのか、ジンジンと鈍い痛みが走る。


 寒さと痛みにこれは夢の続きかと思ったけれど、自分の思ったように動く体にそうではないと脳が覚醒していく。


 目を開けば、石造りの天井が見えた。


「う、ん…? ここは……?」


 どこだ?


 目が覚めたら硬い地面の上に寝転んでいた。


 視線を徐々に下げれば、どうやら保存食などが積まれた倉庫のような場所のようだ。


 クラクラして気持ちが悪い。

 

「あれ? 私、なんで? どこ、ここ。頭イタ……」

 変な夢を見たのはこの環境で眠ってしまっていたせいなのかもしれない。床も石造りで固くて冷たい。体の節々も痛くて仕方がない。


 混乱していた頭が段々とクリアになって、ようやく思い出してきた。


 そうだった。


 ピンポンと店のベルが鳴り、ディオが宣言通り店に来たのかと思い扉を開けた。


 それから、それから?

 そこから全く覚えていないが、意識がなくなる前に突然甘い匂いが鼻と口いっぱいに広がったので、何か魔法の類が関係しているのだろうか。

 記憶を辿ってもそのような魔法は頭の中には存在しなかった。


「とにかく、ここかどこだか確認しなくちゃ」


 おそらくこの部屋の出口だろう扉をそっと押してみると、キィと音を立てて開いた。

 

 そろりと顔を出してみると、長い廊下がずっと続いていて、小さな灯りが壁にくっつきゆらゆらと光っている。

 随分と不気味で、まるでお化け屋敷に迷い込んだみたいだった。

 今にも魔物かお化けが出てきそうだ。


 そこで、ハッと今日の昼間にメグが言っていたことを思い出す。『最近この国の人間が誘拐されているというのを耳にいたしましたの。ですので念のためですわ』、そう言っていたのでは無かったか。


 ゆ、誘拐……?

 まさかペットの魔物の餌に、とかじゃないでしょうね……? ありえる。

 何考えてんだかわからない類の金持ちならごまんと居る。ありえる。


「ままままさかね、いやいやいや、うん、よし……、とにかくここを出なくちゃね」


 嫌な予想を掻き消すように、部屋から飛び出し、灯りを頼りに歩くことにした。

 長い長い廊下の先には、螺旋状になった長い階段が上へと繋がっている。

 どうやら先ほどまで私がいたのは地下だったようだ。人が1人通れるかといった石造りの階段を登っていく。

 

————お願いだから誰かと会いませんように!


 息を殺すようにして静かに、しかし素早く階段を駆け上ってゆく。ようやく目の前に扉が現れた。


 薄らと外の光が漏れており、時折ゆらりと光が遮られる。それはそこに人がいる事が窺える。


 ボソボソと低い声が響くのが耳に入り、ハッと息を呑む。

 バクバクと指先にまで心臓の音が聞こえてきそうで、扉の向こうに聞こえていないか心配になる程だ。

 勇気を振り絞って扉にそっと手を添え、扉の光が漏れている、扉の隙間を覗き込んだ。



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