猟犬の影

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猟犬の影

 朝、空は淡い青色から橙色へと変わり、太陽が地平線から顔を出す。

 通学路には緑の葉っぱを持つ木々が立ち並ぶ、楽しく歩く生徒達元気に会話を交わしていた。

 清々しい一日が始まる朝、制服姿の少女が笑顔で登校する。

 少女は身長160cm程。

 20代女性の平均身長は157.5cmなので、10代女性としては高身長な部類だ。

 大人びているかと言えばそうではなく、幼さの残る顔立ちをしている。

 艶やかなセミロングの前髪をクロスヘアピンで留め、人形のような愛くるしい目と瞳。

 胸は標準なサイズだが、細身で無駄な贅肉が無いためよく映える身体をしていた。

 とても活発そうな印象を受ける少女だ。

 名前は一ノ瀬いちのせ小春こはるという。

 小春は鼻歌混じりに通学路を歩いており、傍から見ると何処か楽しみな事が待っているような雰囲気だ。

 通学路の途中にある坂道を登り終えると、一人の少年の姿を見つけた。

 少年は、同年代に比べれば背丈は低めで146cmだが、体格はかなりがっちりしている。

 髪型は、やんちゃんなツンツンヘア。

懐かない猫のような目つきをしており、表情の変化に乏しい。顔はイケメンというよりは愛嬌のある顔立ちをしており、どこか憎めない雰囲気がある。

 名前は加藤優真ゆうまという。

 小春は、優真の姿を見かけると、ぱぁっと明るい笑顔をして優真に向かって走っていった。

「おはよう」

 小春は優真の横まで行くと、元気良く挨拶をする。

 優真もそれに応えるように小さく頭を下げた。

「おう。おはよう」

 小春は嬉しそうに顔をにやけさせる。

 二人は住んでいる家も隣同士の幼馴染であり、小学校、中学校もずっと同じところに通い続けている。

 優真と顔を合わせて挨拶を交わせる事が、小春にとっては凄く嬉しいことだった。

 ずっと一緒にいられるという喜びは、恋愛感情より上の所にあると言ってもいいだろう。

 それだけ二人の仲の良さは深いものだ。

「家が隣同士なんだから一緒に出ればいいのに……」

 小春は唇を尖らせながら言う。

「俺は、俺で、朝からトレーニングをしてるんだ。女の支度に付き合ってたら時間がかかるだろ」

 優真は小春からの不満の眼差しを躱して、学校の方向に歩いていこうとする。

 すると、小春が優真に並び立つ。

 仕方なく優真も小春に歩幅を合わせるのだった。

 優真が小春の方をチラ見すると、彼女の左耳にイヤホンジャックがあるのが目に入った。

 コードはスカートのポケットに入っている。

「小春。何聞いてるんだ?」

 優真が小春の左耳のイヤホンを指さしながら聞く。

 すると、小春は嬉しそうな笑みを浮かべながら、ポケットから取り出したウォークマンを優真に見せる。

「ウォークマン? カセットテープなのか」

 優真は小春のウォークマンを見る。

 MP3プレーヤーやスマホ等のデジタルオーディオプレーヤーが主流となった時代からすれば、それは今時珍しいカセットテープ式だ。

「プレーヤーは、お父さんのだけどね。先日、音楽室の掃除をした時に出てきたものなの。卒業生が歌った流行歌や作曲したものとかが色々あったんだけど、とてもレトロでポップな曲調で聞いてて凄くいい気分になれるの」

 小春は思い出に浸るように語り続け、優真に訊く。

「このテープは自作のものらしいの。聞いてみる?」

 問われて、優真は興味を持った。

「まあな……」

 すると小春はイヤホンジャックを優真に渡す。

 優真はイヤホンを耳に入れた。

 流れてきた曲は、どこかせつないバラードだった。

 アコースティックギターの音色が奏でる美しい音色、と澄み渡るスキャットだけの歌声がなんともマッチしており、心をゆったりと穏やかにしてくれるような感覚を味わうことが出来た。

「自作なんだ。良い歌だな」

 優真は率直な感想を述べて、イヤホンを小春に返す。

 すると、小春はニコリと笑みを浮かべ今はテープの再生を止めた。

 優真も笑顔を見せ、二人は楽しそうに学校へと歩く。

 二人はしばらく歩き進めたところで他愛もない雑談をするが、学校に近づくに連れて生徒の数が増えてくると優真は、人目が気になり始めた。

 自分の背の低さは自覚しているが、知人や友人がいる。

 それは優真自身が好まない状況だ。なぜなら、小春と並んで歩くことで自分の背の低さが強調させられてしまうからだ。

 優真は毎日、牛乳と煮干しに加えの背が伸びると言うサプリを朝昼晩と欠かさず飲んでいた。

 だが、優真の身長は中々伸びる兆しが見られない。

 努力を怠ってはいないのだが、未だ子供のような身長なのだ。

 小春の隣を歩く度に、優真は自分の成長に自信が持てなくなるのだった。

「……俺、先に行くから」

 優真は、逃げるように小走りで学校へ向かっていく。

 小春は置いてけぼりにされたことに気付くが、致し方ないことと思い、再びイヤホンジャックを耳に入れて、テープを再生する。

 幼馴染の態度に少しばかり不満を抱きつつも、音楽に耳を傾ける。

 小春は、学校の最寄りの停留所を通り過ぎ校門へと向かう。

 朝の部活動のため、少数ではあるが生徒達が校庭や運動場で練習に励んでいた。

 時には強く指導する声が校舎まで聞こえている中、小春の足が突然止まった。片手で頭痛を覚えたように頭を押さえる。

 頭痛は徐々に大きくなっていく。

 痛みと不快感から思わずよろけそうになるが、なんとか持ち直す。

 その間も痛みは増すばかりであった。

 小春は、その苦痛に耐えながら学校へと向かっていた。一歩前に踏み出す毎に頭に走る痛みは強くなっていくばかりだ。

 最初は目的地である教室に着いてしまえばこの不快感から解放されるだろうと思っていたが、いくら歩いてもその考えを覆すようなことはなかった。

 まるで悪夢のような苦しみが続く。

 それ程までにこの症状は酷く、得体の知れない何かに苛まれていく。

 突然、部屋の照明が消えるように小春の視界が真っ暗になった。

 薄れゆく意識の中、誰かが何か言っているようにも気がしたが、はっきり聞き取ることが出来なかった。


 ◆


 小春が目を覚ました時に見たのは白い天井だった。

 辺りを見渡せば、そこにあるのは白いベッドや白を基調とした壁紙等といった内装で、ここが保健室であることが分かる。

 小春は自身がベッドの上に横になっていることを確認すると、傍らに少女が居ることに気づく。

 長い黒髪で、切れ長の目。

 背丈は高く、花のようにすらりとしモデルのような体型をしている。

 顔立ちは非常に整っており、可愛いというより美人という言葉が相応しいだろう。

 彼女の黒髪は、艶やかで真っ直ぐに伸びており、腰まで届いていた。

 肌は白く透明で、少し不思議なほどに無垢に見える。その白い肌には、ほのかに桃色が差しており、健康的な輝きを持つ。

 何より特徴的なのは瞳で、紫色の瞳は、幾重にも重なった色合いが奥深くに宿っていた。神秘的な光を湛えた瞳は、人を引き込むような魅力を持っており、まるで未知の世界を覗いているような錯覚さえ覚えた。

 名前を、姫川玲奈れいなという。

「気がついた?」 

 玲奈は落ち着いた声で小春に声を掛けた。

「玲奈……。どうしてここに?」

 小春は不思議そうに問いかける。玲奈は彼女の顔を見て、安心したように一息ついた後、訊いた。

「覚えてない? 小春は昇降口で倒れたのよ」

 小春は彼女の言葉とその時の記憶から、自分が学校で倒れたことを思い出す。

 それを理解した瞬間、小春はどこか気まずそうな様子を見せながら上半身を起こした。

「玲奈が運んでくれたの?」

 小春が訊くと玲奈は首を横に振った。

「私は介抱しただけ。小春を運んだのは加藤君よ」

 玲奈の答えを聞くと、小春は優真の顔が浮かび嬉しく思う。

 それと同時に、罪悪感と自己嫌悪の念が襲いかかって来る。

 自分の不甲斐なさで周りに迷惑を掛けてしまったからだ。それがどうにも歯痒かったのだ。小春は、沈んだ表情を見せた

そんな心の変化を余所に、玲奈は言葉を続ける。

「先生は貧血じゃないかって言っていたけど、加藤君がすごく心配していたわよ」

 玲奈はクスリと笑う。

 それは小春が倒れた時に、優真が必死に呼びかけていた様子を知っているからだった。

「それにしても、どうして昇降口で倒れたの?」

 玲奈はもっともな疑問をぶつける。

「……酷い頭痛。それから夢を見たの」

 小春は伏し目がちに答えた。

 あの時、小春は不思議な空間にいた。

 空には銀河の帯が流れている。

 太陽が無いにもかかわらず、空は明るく水平線が見えるような不思議な空間だ。遠くの空に広がる不思議な光景が、自分が見ているものが夢だと気付かせてくれる。

 小春は水の中に漂うように、ゆったりと、その空間を漂う。

 心地よい気分だった。

 夢と分かっているのに、この状況が心地よくてもっとこのままでいたいと思ってしまう。

 そんなことを考えていると、小春は自分の背後に影が素早く過るのを感じた。

 影が差す感覚は空に広がる雲が太陽を遮った、そんな感覚だった。

 小春は後ろを振り向き影が過った方角を見てみるが、そこの影の正体は無い。

 何かがゆらゆらと空を泳いでいた。

 それは人の形をしていたが人ではなく、かと言って既存の生物には見えないような姿だった。

 人が仮面を着けることで美醜が分からなくなるように他に特徴はなく、人や動物等の個性が全く無いのだ。

 その異形な何かは人を喰う為の口だけの怪物でもなければ、肌寒さを感じさせる極寒の地に住まう獣でもない。

 名付けるのならば、形状の定まっていない概念そのものだろう。

 小春は自分で何を言っているのか、そんなよく分からないものが、水面から上昇していくように天高くへと上がっていく。

 すれ違う、その瞬間、小春は影の目を見た。

 水面に映った影のように、ゆらゆらとした気持ち悪さが心に沸き立つ。その瞳に宿る光は、憤怒や憎悪と言った類のものか。

 ふと目を覚ませばそこはベッドの上であり、玲奈が心配そうに小春を見つめていた。

 今でもあの光景は鮮明に思い出せる。

 とても夢とは思えないほどの記憶だ。

「……あれって一体何だったんだろう?」

 小春は、思い出すと背中に嫌な汗が滲んだ。

 玲奈は小春の様子を見ながら、その首にロープで絞めたような痕が残っていることに気が付いた。彼女の白い肌にはくっきりと、痣が残っているのだ。

 そこに保健室の扉が開く音がし、二人の視線がそちらに向くと、優真が居た。

 優真は手に、スポーツドリンクのペットボトルを1本持っていた。

「小春。気がついたのか」

 優真は小春を見て、ホッとした表情を見せた。

「優真……」

 小春の心を支配していたのは心配と安心が融合した感情であり、それに追随して謝罪の意思も高まっていく。

 自分のせいでこうなったことに対して優真に謝ろうとした。

 だが、それを遮るように優真は先に謝る。

「ごめん。俺が小春のことを一人にしなければ、すぐに守れたのに……」

 優真の声には、自分に対する怒りや苛立ちといった感情を孕んでいた。

「玲奈に聞いたよ。私を運んでくれたのは優真だって。ありがとう」

 優真をなだめるように、小春は優しく声を掛けた。

 そんな中、玲奈はベッドの横にあるサイドテーブルにあるウォークマンを見ていた。彼女は了解も得ずにウォークマンからカセットテープを取り出す。

 タイトルに『ホープメロディー』とあった。

「小春。これって……」

 玲奈は、小春にカセットテープを見せながら訊く。

「それは、音楽室にあった卒業生が作った思い出のカセットテープよ」

 小春が答えると、玲奈はどこか腑に落ちない様子でいた。

「何か良くないもの感じる」

 玲奈が呟くように言うと、優真が訊く。

「……良くないものって。ただの音楽だろ?」

 優真には、玲奈が何を言いたいのか分からなかった。


 ◆


 数日後。

 放課後の教室を優真と小春が、教室の掃除をしていた。

 二人が日直というのもあったが、他の生徒は試合やコンテストが近いということもあって、早く部活や自主練に行ってしまった。

「たった二人で、掃除だなんてさ。少しは手伝ってくれてもいいのよ」

 優真は、愚痴を溢すように言う。

 その声に反応したのは、小春だ。

「まあ良いじゃない。私と優真とだったら、気兼ねしなくても良いんだし」

 小春は、どこか嬉しそうに答える。

 その嬉しそうな笑みを見て、優真もまんざらではない気分になるのだった。

 教室の掃除が終わる頃、夕日が教室に差し込んでいた。窓から見える光景は、夕焼けに照らされたことで、どこか紅葉した木々が赤く色づき始めた、秋を感じさせるものだった。

 二人が掃除道具を戻した時、教室に玲奈の姿があった。

「玲奈。まだ学校にいたんだ」

 優真は玲奈の姿を見て、意外そうに言う。

 優等生である彼女は、部活をせずともすぐに帰宅するものだと勝手に思い込んでいたからだ。

 実際、放課後に校内で見かけても、何人かの生徒と談笑している姿くらいしかない。そんな彼女がこの教室にいるというのはとても珍しいことだと感じたのだ。

 驚く二人をよそに、玲奈はカセットテープを手に言う。

「このカセットテープについて調べが終わったの」

 玲奈は優真にカセットテープを見せる。

 それを見て小春は頭に頭痛が走ったが、すぐにそれは治まる。

 しかし、小春に、どこかいつもとは違う様子であることは見て取れた。そんな違和感を覚えた優真だったが、それ以上に違和感を抱いている人物が居た。

 それは玲奈だ。

 彼女の瞳は深く影を落としており、不安に満ち溢れている様子だった。まるで何かに取り憑かれたかのようだ。

「このカセットテープの音楽を作った生徒だけど、その人は卒業前に亡くなっているわ。名前は藤島真実まみ

 玲奈は二人にカセットテープの内容を説明し始めた。

「藤島さんは、卒業の一月前にこの曲を作曲しているの。卒業文集に、作曲のことが書かれているところを読んだけど、彼女は夢で見た怪物の鳴き声からインスピレーションを受けたそうよ」

 玲奈が説明を終えると、優真は怪訝そうにカセットテープに視線を移す。彼は、藤島真実という人物の残した曲が、あまりにも不気味で怪奇的なものだったということを感じ取っていた。

「怪物の鳴き声って。まるで、『悪魔のトリル』だな」

 優真の発言に、玲奈は感心した様子を浮かべる。


【悪魔のトリル】

 ジュゼッペ・タルティーニ(1692~1770年)は、イタリアのバロック音楽の作曲家・バイオリニスト。

 200曲以上の作品を生み出し、ストラディバリ作のバイオリンの最初のオーナーだったとされている人物。

 因みに、アントニオ・ストラディバリは、1600年代後期から1700年代初頭にかけて、北イタリアの都市クレモナにいたバイオリン職人。名器中の名器と言われるバイオリンで、存在が確認されているストラディバリウスはおよそ600本とされる。

 タルティーニは21歳のとき、ある夢を見た。

 それはタルティーニが悪魔と契約を交わし、魂を引き渡すことで悪魔がバイオリンで美しいソナタを弾くというもの。

 タルティーニは夢から覚めると、大急ぎで悪魔が奏でたメロディーを書き取った。こうして出来上がったのがバイオリンソナタ・ト短調『悪魔のトリル』。

 死後250年近くが経過しても、人々の記憶に名前と代表曲が残っているのは、悪魔との契約のお陰と囁かれる。


 小春は口元に手を当て熟慮じゅくりょする。

「言われてみると、私がこのテープを聞いている時に怪物の鳴き声をイメージさせるようなフレーズが随所に入っていたわ」

 小春は玲奈のカセットテープを見て、聞いていた時のことを思い出していた。怪物の鳴き声かと言われると、彼女にははっきりと思い出せないが、不気味なイメージがあったのは確かだった。

 その話を聞いていた玲奈は深刻な表情をする。

「二人は、クトゥルフ神話を知ってる? HハワードPフィリップス・ラヴクラフトによって創作された異形の神々ついて書かれた小説なの」

 玲奈が二人に訊くと、二人とも聞いたことがあるのか、はっきりと答えた。

「俺は詳しくは知らないけど、名前だけなら聞いたことがある」

「ごめん。私は全然」

 優真は知っていたものの、オカルトに疎い小春は聞いたことがないのか首を傾げていた。

 そんな二人の様子を見た玲奈は、クトゥルフ神話について説明をする。

「物語には《旧支配者》と呼ばれる太古の地球を支配していた邪神達が存在した。けれど星辰の位置が狂ってしまった為に姿を消したの。

 でも、滅んだ訳じゃなくて、この世界とは異なる世界で深い眠りについていると言った方が正しいわ。《旧支配者》は精神的な活動を「夢引き」という行為で人間に接触し、その為に狂気に陥ってしまうことが多いの」

 玲奈は説明をするが、それに優真が待ったを掛けた。クトゥルフ神話に出てくる邪神はあまりにも空想的すぎるという点だ。精神に影響を与える存在など現実にいるはずもなく、お伽噺や都市伝説の類だと思っており、イメージが湧かなかったのだ。

「待てよ。その邪神とやらが、小春に夢で接触して来たって言うのかよ……」

 優真は信じられないような表情を浮かべるが、玲奈の表情を見て何かを感じとっていた。

 そんな優真に同意するように小春も答える。

 夢という限定的な場所という条件を考えても、非現実的だと思わざるを得ないのだ。

「興味深いのはラヴクラフトがひっそりと作品を発表していた時、当時の世界各国では奇怪な事件が頻発し始めた事。あたかも小説が現実の形を取り始めたかのように。彼の作品には予言めいた部分が指摘されていることから、クトゥルフ神話の実在を指摘されているの。

 そして、作品を生み出したキーとなるのが悪夢だったのよ」

 玲奈の《悪夢》言葉に、小春は身体を震わせた。自分が見たものは、夢は夢でも悪夢というべきものだからだ。

 玲奈は続ける。

「クトゥルフ神話には邪神だけでなく、その眷属とも言える様々な神話生物と呼ばれる化け物も存在しているわ。テープの楽曲を作った藤島さんは、その類と遭遇して、その音色からイメージを得たのよ。

 事実、藤島さんは卒業後間もなくして街中で死んでいるわ。表通りから一本外れた道で獣にでも襲われたかのような無惨な姿でね。当時は、街中に降りてきた熊の仕業とされているけ、私は神話生物の仕業と思うわ」

 玲奈がそう言った時、二人の背筋がゾッとする感覚に襲われた。

 優真と小春の顔は曇る。

 信じていた訳ではなかったが、それでもこんな話を聞けばそうなってしまうだろう。事実、小春の首には夢を見ただけにも関わらず、ロープで絞められたような痕があるのだ。これがオカルトの類なら非現実的な出来事だが、現実にあるのなら怖ろしい話だと感じていたのだ。

 怪物に襲われるという話を聞いただけで、小春は肩を震わせていた。そんな彼女に、玲奈が寄り添った。

「これでも私は魔術の知識を持っているの。だから、なにか役に立てることはあると思うわ」

 玲奈は二人に微笑むのだった。


 ◆


 翌日の夜、玲奈は小春の家に居た。

 小春の両親は仕事の関係で家を不在にしており、今は玲奈と二人きりだ。

 本来なら女子同士のパジャマパーティーに沸き立つところではあったが、今の小春にはそんな余裕はなかった。

 玲奈はそんな小春を気遣いながら、ハーブティーを用意する。

 こんな時でも取り乱さずに行動ができるのが玲奈という少女なのだろう。

 やがて茶葉の香ばしい香りが部屋中に広がる。心を落ち着かせる効果があるのか、ハーブティーの香りが小春の心に変化を与える。不安がっていた心は少し落ち着きを取り戻すのだった。

「加藤君の家って、隣だったのね」

 玲奈は二階ある小春の部屋から真向かいが、優真の部屋があるのを初めて知った。二人が幼馴染というのは聞いていたが、こんなにも近しい立地にあったことには驚いていた。

「子供の時からずっと一緒に居たんだけどね。ちょっと前まで、屋根伝いで遊びに行っていたのに、中学になって遠くなった感じがしちゃうな」

 小春はどこか寂しさを感じさせる様子で言った。

「大人になるっていうのは、そういうものなのかもしれないわね」

 玲奈が言うと、小春はハーブティーを飲む。

 ハーブの香りや温かさが、心を解きほぐすようでいて、不思議な安心感がある。

 小春は落ち着きを取り戻すと、玲奈に向き直る。彼女はしっかりとした目で玲奈を見るのだった。

「私、本当に化け物に狙われてるのかなぁ……」

 小春は先日の出来事を思い返しながら、不安気に呟く。

「大丈夫よ。私が守るから」

 玲奈が小春の手を握りながら言うと、彼女の表情が明るくなる。

「少し、外を見てくるわ。すぐに戻るから」

 そう言って玲奈は部屋を後にすると、家の外に出た。それから彼女は、持参していたガラスの小瓶から灰緑色の粉を手に出すと、それを撒き始めた。

 不思議なことに月明かりに照らされた灰緑色の粉末が宙に舞えば、まるで自ら意思を持っているかのようにフワフワと漂う。

 そんな幻想的な風景を一人の少年が見ていた。

 優真だ。

「姫川。それは何なんだ」

 玲奈の動作の意図するところが読めず、優真は思わず首を傾げた。

 そんな優真に玲奈はにっこりと笑って答えた。

「魔術による結界。要するにバリアーのようなものを作っているのよ」

 そんな存在を当然のように話す玲奈に優真は啞然とする。

 《紫の魔女》の異名を持つ玲奈だが、本当に魔術を会得しているとは思ってもみなかったのだ。それと同時に優真は自分の無力さを痛感する。彼は、自分と小春の身を守れるように突き、蹴り、投げ、締め、極めまでを含んだ武道・空道を学んだ。その結果、少しは腕を上げたつもりでいた。

 だが、魔術を会得している玲奈に比べてしまえば、自分はまだまだなのだと思い知らされる。

 怪異に襲われている小春を守ることすらできない。

 それが、無性に腹立たしく感じた。

 そんな優真の様子を不思議そうに見ながら、玲奈は続けた。

「そんなことないわ。勇気は立派な力よ。小春から聞いているわよ。なぜ、加藤君が空道という武道を志したのか」

 玲奈は、優真が小春を守る為に空道を学んだことを、小春から聞いていた。優真が強くなろうとしていたのは、隣に居る幼馴染の為だ。彼は守るべき者の為に強くなろうとしているのだ。

 そんな姿を評価しないハズがなかった。

 優真の気持ちを理解しているからこそ、玲奈ははっきりと彼に言った。

「『稲生物怪録いのうもののけろく』というものを知ってる?」

 突然、玲奈が優真に訊く。その言葉の意味は分からないが、話の流れからすると、怪異についての話なのだろうと推察した。


【『稲生物怪録』】

 江戸時代中期の三次を舞台とした、稲生平太郎と人間をおどかしにやってきた魔王たちとの不思議な体験を綴った物語。

 妖物だけでなく現在も存在する場所や、主人公の平太郎をはじめ当時の三次に実在した人物が登場する。

 寛延2年(1749年)、江戸中期の広島藩・三次みよしに稲生平太郎(16歳)という武士がいた。

 平太郎は仲間と共に肝試しをすると、七月一日から三十日にかけて昼夜問わず様々な妖物が平太郎の家に出るようになった。

 登場する妖物の群を抜く多彩さとその奇抜な生態については、「個人の想像力の域を超絶した化物たちの饗宴」絶讃される。

 また、事件の起きた年月日や場所、関係する人物が、きわめて具体的に特定され、まるで夏休みの日記帳さながら、七月の一日から三十日まで日付を追って、各日の出来事や関係者の出入りなどが逐一記されている

 只ならぬ具体性はひとえに、怪異を実際に体験したものとも言われる。

 『稲生物怪録』の中で、平太郎は妖物の脅かしに耐え抜き、最後に妖物の頭である魔王が現れた。

 だが、魔王による脅しに平太郎の勇気は、ついには魔王を降参させる。


「魔王を……」

 玲奈が語った話は、とても力強い言葉であり、優真が今までに感じたことのない希望を彼に与えるには十分だった。

「怪異は勇気を恐れるの。そして、勇気ある者は怪異に勝つことができるわ」

 玲奈は自信を持って言う。

 そんな彼女が言うなら間違いはないと優真は思ったのだ。

 その時だ。

 優真は小春の叫びを聞いた気がした。

 それは悲鳴や叫びではなく、人が発する念のようなものであった。

「小春が助けを呼んでる」

 優真の言葉に玲奈は焦る。

 小春の家では玲奈の撒いた粉が不思議な光を放っていた。まるで蛍のような小さな光が周囲をふわふわと舞う。その様子はまるで雪のようにも思えたが、そんな美しい光景に反して得体の知れない不気味さが覆っている。

「結界は破られていないのに」

 玲奈は、慌てて小春の部屋を見上げると二人は家の中へと入り、小春の部屋を目指した。

「小春!」

 優真が部屋のドアを勢いよく開けると、吐き気を催す腐臭がし、そこには首に赤みがかったロープの様なものを巻き付かせて苦しんでいる小春の姿があった。

 ロープの元は、部屋の隅から来ており、そこにはガスのような気体が充満している。

 玲奈は咄嗟に小瓶を手に持つ中、優真は果敢にも小春の首を締め上げている赤いロープを掴んで自分の方へと引く。そうすることで小春の首を締めていたロープの張力が緩んだ。

「姫川、小春の救助を!」

 優真が叫ぶと、玲奈は小春の手を引きロープから助け出す。

 小春がうずくまって咳き込む。

 玲奈は小春の身を案じながら、優真を見た。彼は小春の首を締め上げていたロープに対し追い求めるように前へと手を伸ばしてロープを掴むと手前へと手繰り寄せる。

「随分とヌルヌルしてるじゃねえか。正体を見せやがれ」

 優真は、手前に手繰り寄せたロープを離すまいと掴んだまま言った。

 彼は手に違和感を覚えていた。粘液のように纏わりつく感触と共に悪臭が漂っているのだ。

 その違和感の先には何があるのか想像がつかない中、ガスの奥から四つん這いの影がゆっくりと姿を現す。

 それは四足の怪物だった。

 その体幹と皮膚は恐竜を連想させるが、その異質な形態は生物学的な則法を無視したかのようだ。

 鼻の潰れた顔はブルドックに爬虫類の皮膚を貼り付けたような醜悪なものだった。爬虫類を思わせるおぞましい顔面には充血したように赤く染った眼が光る。顔の左右にはひれが変化したような角が生えており、黒光りをする鉤爪が生えた前脚は歪で太く筋肉質なものは大型の猫科動物に思わせた。

 唇のない口には大小不揃いの歯が生えており、青い膿のような粘液を滴らせ悪臭を放っていた。怪物の体長並みに長い舌は蛇のように曲がりくねり、黒ずんだ歯茎と真っ赤な口腔を見せつけるように蠢いていた。

 そして、優真がロープと思って掴んでいたのは、怪物の舌だった。

 怪物は、まるで野獣のように興奮し、唾液をまき散らしながら唸る。

 その異形な姿は見る者に恐怖を与え、その存在を畏怖させるには十分すぎる迫力があった。

 怪物は目の前の餌に反応しているかのように見えたが、捕食者の目は優真ではなく小春に向けられていた。

「《ティンダロスの猟犬》……」

 玲奈は目の前の怪物が何であるかを見抜いた。


【ティンダロスの猟犬】

 地球上の建物の部屋の隅から突然姿を表す四足の怪物。

 出現するときは鋭角から煙が吹き出し、悪臭とともに頭から徐々に実体化する。この臭いは凝縮された不浄の匂いそのもので、近づいただけでも鼻をつままなければ行動もままならないほどに酷い。

 彼らは遠い遠い時間の「角」に住んでおり、時間の角と関係あるため部屋の隅などの鋭い角度のあるところから実体化する。

 常に飢え、非常に執念深い性格。人間が一度でも接触すると、猟犬はその人間をどこまでも追いかけて来る。彼らは空腹および他の生物が持つ、自分達が持たない「何か」を追い求め、時空を超えて犠牲者を追いかける。

 猟犬の舌は栄養摂取の為の器官で、尖った舌の先を犠牲者に刺し、生命のエッセンスを吸い取る。


 猟犬の舌先が、優真の右肩に刺さると、傷口から血液を吸い取られていく。

 あまりの痛みに優真は声を上げそうになるが、何とか声を抑え込むと共に、舌を握る手に更なる握力を加えた。

 すると猟犬の舌を使った吸血が止まり、猟犬はそのことに気づく。

「窓を開けてくれ。こいつを庭に叩き出してやる」

 優真の要求に玲奈は従い、部屋の窓を開ける。

 次の瞬間、優真は猟犬の腹に身体を潜り込ませつつ、片足を腹に当て巴投げの要領で猟犬を窓から外へと放り投げた。

 猟犬は投げ飛ばされると、一度瓦に落ち、それから庭へと叩きつけられた。

 間髪を入れずに優真は、窓から飛び出し庭へと降り立つ。猫のような俊敏さを持つ身軽な動きで着地する。

 その時には、猟犬はすでに身を起こしており、優真のことを睨んでいた。

 猟犬が唸り声を上げる。

 優真はバックステップをして距離を取ったのは、猟犬の舌がムチのように伸びたからだ。

 地が土煙となって爆ぜたのは、猟犬の舌による攻撃だ。

 地面を抉る勢いで放たれた舌は、優真の頬を掠めて風圧によって傷を付ける。

 さらに猟犬が舌を地面に刺して高く跳ぶ。そこから前足にある鉤爪で、優真を引き裂こうとする。

 だが、優真は果敢にも前へと進み出る。

 左軸足を回転させると共に、膝関節を伸展。右脚を外側へと蹴り上げ、空中で無防備になっている猟犬の左胸へと上段回し蹴りを叩き込む。勢いのついた一撃は猟犬の体幹にダメージを与えたようだ。

 猟犬は、庭の地面に叩きつけられながらも宙で身を捩って受け身をとる。

 優真の猛攻はまだ止まらない。蹴り飛ばした時からの次の動きは、前進だった。優真は、地を転がる猟犬に追い付くと頭を腕で抱え込み前転をする勢いで地面へと叩きつける。

 相撲やレスリングでいう《首投げ》だ。

 全身のバネを使って相手を勢い良く地面に叩き付ける投げ技。

 この技は空道でも取り入れられており、優真は、相手が怪物ということもあって、普通なら手心を加えるところを骨折させるつもりで投げつけた。対人用の技であるため、怪物にどこまで通用するか分からないが、それに匹敵するぐらいのダメージを受けてもおかしくない。

 しかし、ティンダロスの猟犬という異形な存在であるが故にそれさえも難しいようだ。

 猟犬に対し、優真は一度距離を取る。

「凄い。神話生物相手に……」

 玲奈は優真の戦いぶりに、驚きを隠せなかった。

 けれど、決定打には至っていない。勇気だけでは、怪物を倒すことはできないのだ。

「優真……」

 小春は、優真の名前を呼びながら祈ることしかできなかった。

 けれど、その祈りは届くことになる。

 何故なら、今の優真は自分だけの戦いをしている訳ではないからだ。彼がこの場で気を確かに保っていられるのは一重に小春を守りたいという、勇気が与えたからだ。

 そこに玲奈が優真の側に並び立つ。

 玲奈は小春の部屋から飛び出して、優真の援護に駆けつけたのだ。彼女の手には灰緑粉の入った小瓶を手にしており、すぐにでも投げられる状態だ。

 優真は、玲奈の持つ小瓶に目を向けると、それが彼女の言っていた結界の粉だと分かった。

「加藤君、私との連携よ。威力は保証するわ」

 玲奈は、そう言って優真と息を合わせ、灰緑色の粉・スレイマンの塵を掌に流し取る。


【スレイマンの塵】

 この粉を作るには少なくとも2000年以上経っているエジプトのミイラから作られた粉が必要とされる。その粉に、乳香という香料と硫黄と硝石によって作る。

 これは別の平面から来た異生物に効果があるとされる。


 優真は玲奈の差し出したスレイマンの塵に掌を重ね合わせた。

 彼の拳に光が宿る。

 その緑色の光は、優真の身体を薄く包み込んだ。

 次の瞬間、優真は跳躍した。

 猟犬に突進すると同時に優真の右腕がまるでバネのように伸縮し、その勢いを利用して拳を放つと、光を纏った拳は猟犬の眉間に命中する。

 強烈な一撃を喰らった猟犬は倒れこみながら唸り声を上げる。

効いている証拠だった。

 猟犬は舌を優真の首に巻き付かせると、彼の首を締め上げる。

 そこに玲奈は手に持っていたスレイマンの塵を、猟犬の顔面に放つ。

 すると、スレイマンの塵を浴びた猟犬の顔が、ただれたように皮膚がボロボロと剥がれ落ちていった。

 突然の痛みに驚いた猟犬は舌の拘束を思わず緩めてしまう。

 優真は、その隙に間合いを詰めると、猟犬の下顎を拳で打ち上げた。その一撃は猟犬の舌を強制的に噛みちぎらせる。

 さらに、左フックで猟犬の側頭部を殴りつける。そのまま回転の勢いを殺さず、身体を一回転させた後ろ蹴りを再び猟犬の顔面に当てる。

 猟犬の脚から骨が消失したように、関節が折れる。

 優真の攻撃が、深刻なダメージを与えた証拠だ。

「離れて!」

 玲奈の呼びかけに優真は、察して後ろに跳ぶ。

 それを見た玲奈は、右手にスレイマンの塵を持ち呪文を口にする。

「古の力よ、闇の座に居を構えし者よ、我が心に応じよ。 塵より生じ、神聖な乳香と浄化の硫黄によって、これを打ち払え」

 玲奈の呪文と共に掌から灰緑色の光が放たれ、猟犬を直撃する。

 猟犬の体は炎に包まれ、その凄まじい叫び声が夜空に響き渡る。 灰緑色の炎が燃え盛り、夜空を焦がす。

 しばらく暴れた猟犬だが、やがて抵抗は徐々に弱まり最後には動かなくなった。

 炎に包まれた猟犬は全身から光る煙が激しく散る中、苦しそうに身悶えながら叫ぶ。

 その体はやがて淡く光ると虚空に掻き消えていった。

 優真は、猟犬が消えたことを確認すると地面にへたり込んだ。

 玲奈が優真の元に駆け寄ろうとすると、それよりも先に優真の元に小春が飛びついていた。

「優真!」

 優真は、彼女の身体を受け止めながら抱き締める。

 すると、小春の体の震えが伝わる。

 優真の視線は玲奈の方に向くと、彼女は苦笑しながら手を振った。

 どうやら心配ないという意味だろう。

 優真も釣られて頬を緩めるが、すぐに表情を引き締めて彼女に言った。それは短い言葉だが確かな意思を感じさせるものだった。

「俺は小春を守るために強くなったんだ」

 優真がそう言うと、小春は優真を強く抱き締める。

 二人の存在だけが淡く光を放っていた。まるで命の輝きのようでもある。

 そんな二人を見守る玲奈の表情はとても穏やかで、尊いものを見るように穏やかな笑顔を見せていた。

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