第二話 幽霊船

 ここは奴隷貿易船。奥の子供たちはもう寝ている。私と同じように海賊に連れ去られ、この船の奴隷商人に売り渡された。

 地中海では奴隷貿易は禁止されているから、市場というのはアゾレス辺りなのだろうか。確かあそこには、ブリタニア貴族相手の奴隷市場があったはず。


 そして私は記憶を辿る。


 ――そう、私はあの日舞踏会でリシャールに「船を操舵そうだしたい」とおねだりした。急なわがままだったけど、翌日彼は小型バルシャ船を手配して、沖に出てから私に舵を任せてくれた。


 そして私の操舵する船は、海賊船に衝突した……。


 リシャールはそのとき、もう船上にいなかった。衝突の衝撃はすごかったし、そのときに海に放り出されてしまったのかもしれない。私のせいで……。

 どうにか、無事であって欲しい。私は信じてる。彼は生き延びて、きっとお父様に報告してくれたはず。そうなれば……私がさらわれたとあっては、イスパニアの無敵艦隊だって黙っちゃいないわ。

 もうすぐ救出に来るはず――と考えて、あれからもう一年なのよね……。


 衝突した海賊船にいた赤髭の男。ターバンこそ巻いていたけど、顔立ちはアラブ人のようには見えなかった。とにかくあいつが私を、奴隷商人に売り飛ばしたのだ。そして現在に至る、と……。


「――マリア聞いてるかい? まぁ明日売られちまえば、もうこんなことしなくて済むさ。まぁここ以上に、ひどい目に合うかもしれないけどね。ひっひひ」


 あのときのことを回想していると、おばさんはそう言って笑った。


「ねぇおばさん、私をこの船に売った赤髭の男のこと知ってる?」

「あぁ? ハイレディンのことかい?」

「ハイレディン?」

「あぁ、あれはかなりやばい奴だよ。船乗りなら、知らないやつはいないだろうさ」


 私は知らない……まぁ、船乗りじゃないしね。


「バルバロス・ハイレディン。アルジェの海賊。通称赤髭。地中海で奴を見たら、もう諦めるしかないね。イスパニアの無敵艦隊でさえ捕らえられず、散々被害を出してるって話だ」

「そんな危険な男なのね……もしかしたらリシャールは……」

「なんだ、男かい? 諦めな。赤髭は営利目的の誘拐しかしない。奴隷として売れる女子供しかね。男は残念だけど、相手が悪かったね」


 おばさんは私の気持ちを汲み取ってくれたのか、最後は言葉を濁した。でも赤髭の船で、リシャールの姿は見かけなかった。きっと逃げ切ったに違いない。


「って、マリア! あんたのせいで、つい話し込んじまったじゃないか! ほら、早く終わらせな。今日みたいな、月のない夜は出るんだからさ」

「出るって、何が?」


 急に強張った顔で言うおばさんに、私は床を掃きながら聞いた。


「幽霊船だよ!」

「ブウゥゥゥッ」


 吹き出してしまった。このおばさん、真顔で幽霊船なんて。いくら教養がないと言っても、そんな迷信を真顔で言われても、ねぇ。


「笑いごとじゃないよ! ここいらアゾレス諸島と言えば、幽霊船のメッカさね。ったく、つくづく生意気な小娘だね!」


 おばさんは相変わらず真剣だが、これ以上相手すると本当に笑ってしまいそうなので、無視して掃除を続けた。まぁ、確かにここはそう言った、色物の話が多いことでは有名だけど、さすがにねぇ。

 自分で言うのもなんだが、私は公女としてありとあらゆる学問を学ばされた。とても博識なのだ。そのおかげであらゆる迷信やおとぎ話など、信じるに値しないと分かってしまっているのだ。


「あ、そうそう。明日はお別れなんだ。あんたにこれを返しておかないとね」


 おばさんは不意にそう言うと、ポケットからネックレスを出して私に渡した。


「これは……?」

「宝石は抜き取られちまったけど、きっとあんたの大事なものだろ? それだけはあたしがなんとか、くすねることが出来たからさ」


 これは私の婚約が決まったとき、お父様から贈られたネックレスだった。本来ルビーが埋め込まれていたところは、ぽっかりと抜けている。でも私にとって、確かに大事な思い出のものだった。


「おばさん……ありがとう……」


 おばさんの気遣いに私は感激し、溢れそうになる涙をこらえながらお礼を言った。思えば母を病で亡くした私にとって、この一年間はおばさんがまさに、母親のような存在だった――すぐに箒で頭を叩くのを除けば……。


「何があっても、諦めずに生きるんだよ。いつかきっと、報われるときが来るからさ」


 そう言い残すと、おばさんは別の部屋に行ったようだ。おばさんの言葉を噛みしめながら引き続き床を掃き、明日の最後の食事になるだろう、カラカラに乾いた豆を袋に入れて床に就く。


「とても人間の食べ物とは思えないけど。なんだかんだ、これでこの船最後の食事になるのね」


 結局最後まで、一度でも美味しいと思えた食事はなかった。それでも最後となれば、私も少しは感傷的になる。

 あれ?

 しんみりしながらこの一年を振り返るも、仕事ばかりでちっともいいものはなかった。話し相手だって、このすぐ箒で叩くおばさんくらいしかいない。

 一緒に奴隷として売られる子供たちは懐いてはくれている。だけど、スラブ人であろうこの子たちとは言葉が通じない。いまいちコミュニケーションがうまくいかないのよね。

 はぁ、ブリタニアに売られるのかぁ。でも相手は貴族。お父様の名前を出せばきっと――それとも、ノルマンディー公の名前を出したほうがいいかしら? でも、ブリタニアとフランクは情勢が危ないし……。




 なんともまとまらない考えの中、眠りに就こうとしたまさにそのとき「ドドドドドド」と、甲板のほうから騒がしい音が響いた。

 眠気よりも好奇心が勝った私は、急いで甲板に出る。

 奴隷貿易船と言っても、女子供しか乗せていないので警備は緩いのだ。海に逃げ場はないしね。

 そしてすぐ、マストの下に立つおばさんを見つける。


「ねぇおばさん、なんか騒がしかったけど、どうかした?」

「あんた、あれが見えないのかい……」


 目を丸くして言うおばさんが指した方向を見ると、そこにはうっすらと船影があった。


「船? あれがどうかしたの?」

「どうしかしたじゃないよ……幽霊船だよ……」


 震えながらおばさんは言う。どんどん近付くその船は、ボロボロの帆に折れたマスト、木片の剥がれた船体。噂話で聞く幽霊船そのものだった。


「――まさか、漂流してる難破船でしょ……」


 もちろん私は信じない。信じないけど……それと恐怖は別物よ!

 私も震えながら言うと、更に近付くその船に、今度は人影ひとかげも見えたのだ。船員たちもうろたえて、右往左往している。


「ほら、マリア。急いで逃げな!」


 逃げると言っても、海の上なんですけど……。おばさんも動揺しているし、これは隠れろってことだろう。子供たちも心配なので、私はおばさんの手を引いて船倉に向かった。


 はぁ……私、無事でいられるのかしら――。


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