第40話 不足

 陽香さんが僕から離れる決断をした、翌日の放課後。


 陽香さんは、宣言した通り実家に一時滞在することにしたようで、夜になっても部屋に戻ってくる気配はない。


 元々、陽香さんとLINEの類いは交換していない。


 お隣さんとして付き合うにあたり、一度連絡先の交換を提案したことがあったのだが、「教師と生徒だから」という理由でプライベートな連絡先の交換を許してくれなかったのだ。


 だから陽香さんと直接顔を合わせない限り、交流も自然と途絶えることになる。


 その日の夕食は妙に味気なかった。


 隣の部屋から人の気配がしなくなったというだけで、空虚な気持ちはいっそう増した。


 それでも普段通りの自分を保てるように、ルーチンを崩すことなく、夕食後に勉強をしたあとシャワーを浴びて寝る準備をし、ベッドへと向かう。


 その途中、衣類を押し込んでいるタンスの前で足が止まった。

 タンスの最下段には、陽香さんから返してもらったルームウェアが収められている。


 僕は、そこから陽香さんの抜け殻を引っ張り出し、ベッドに潜り込んで抱いて寝た。ライナスの毛布がごとく、すごく落ち着く。陽香さんが使っている洗剤の匂いに面影を感じて一瞬だけ寂しさが和らぐのだけれど、その反動のような空虚さに襲われ、ベッドからルームウェアを投げ捨ててふて寝した。


 ほんの少し前までは、こんな抜け殻みたいなものじゃなくて陽香さんと抱き合うようにして眠っていられたのに。


 寝ぼけた陽香さんがベッドに入り込んできたせいで起きたトラブルだったけれど、あの頃の僕は、その後も楽しい日々が続くと信じて疑っていなかったんだ。


 ★


 その日、僕は腹立たしい気持ちのまま、授業を受けていた。


 誰かが憎たらしいわけじゃない。

 せっかくの決断が、何の良い影響も及ぼさなかったことへの悔しさのせいだ。


 陽香さんは実家へ戻り、僕との隣人生活を終えた。

 それなのに、噂は過熱する一方で、収束する気配がなかった。


 学校内では、僕と陽香さんがただならぬ関係である疑惑が消えず、廊下を歩くたびに妙な視線を感じて居心地が悪い。


 今のところは、教職員の間で話が上って問題視されることもないようだ。

 年頃の高校生が夢現で咲かせた恋愛話の一つとして考えてくれているみたいだけれど、それだっていつ状況が変わるかわからない。


 陽香さんが担当する現代文の授業中。

 ある意味今が、一番心が休まる時間かもしれない。


 女帝な陽香さんを知っているクラスメイトにとって、噂はあまりに荒唐無稽なものなのだから。


「じゃあ次のページを……河井くん、読んでくれるかしら?」


 陽香さんが僕を指名する。


 その瞬間、クラスメイトの意識がこちらに向いてくるのを感じた。

 いかに噂が真実から遠かろうが、みんな興味がないわけではないのだろう。


 まあいいけどね、これでみんな僕の顔と名前を一致させてくれるようになったかな? とか余裕を装いながら、陽香さんに言われた箇所を読み上げた。


 陽香さんが指名し、僕が読む。


 そんな些細な共同作業に密かに感動した僕は、ここ最近不足に次ぐ不足でカラッカラに乾いている陽香さん成分をほんの少しだけ補給できたような気がするのだった。

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