ReferenceError01:Heren is not defined

 彼女は、彼女以外に誰も居ないその場所で、悪逆な黒色に覆われていた。


 呆れ返るような気持ちで、己の運の無さを呪った。

 なぜなら、彼女にとっては飽きるほど見た光景だったから。闇に押し込められると、意識があろうがなかろうが、諦めてふたたび眠りにつくしかないこと。そうとよく知っていた。この空間の正体、ここにいる理由など、どうでも良かった。

 

 おどろおどろしい漆黒の色具合は気に食わなかった。家族が流した血に似ていて気分が悪い。全部壊してやりたい。しかし望みが叶わないことは察していたから、地面に座り込んで、膝を抱えて、泣いていた。



「……見たんでしょ?」


 両膝をかき抱く力が強くなる。後ろから誰かが近寄っていることは気付いていた。 誰なのか、も大体わかる。だから背を向けたままで喋りかけた。


「……見たよ」


 努めて感情を抑えている。同情や憫察といった表面的なものを避け、理解者を気取りたくない、というような意思を感じた。じり、とまた一歩を刻んで、近寄ってくる。


「近付かないで!」

 叫ぶと、はっきりと怯えが声に現れた。彼の足はぴたりと止まった。いちど息を吸ったまま、なにかを言おうとしたが、惑っている。言葉の行き場を失っていた。


「ヘレン、お前は……」


 先を聞きたくない。両耳を必死に塞ぎ、告げられる不都合を掻き消すように泣いた。





 ──ヘレンがのは200年前、3600年ごろ。

 世界大戦が終結した後に残ってしまった天候兵器SARPサープを処理できず、【塔】が建造された直後の時代。


 混乱もあったが、人々を守り導いたエルゼノア国軍当局に対しては、尊敬の念を抱いていた。生まれた家系が歴代軍人を経験してきた家柄という事もあり、ヘレンも当然といった流れで軍人を目指した。

 軍兵学校を出て、兵士として【塔】内の治安維持や外敵対処に奔走した。元来の性格が真面目なぶん、感情任せで暴力的な所はあったが、21歳の時には大尉に昇格。評価はされていた。


 何よりも大事にしていたものが家族だった。【塔】ができるまでは、濃霧スモグによってバタバタと人が死んでいた環境だったから、家族が生きているのは何より嬉しいことだった。軍人としての務めを終えた父、母。誰よりも優しく理解のある姉。それから猫が1匹。



 規律と強さを重んじる軍隊において、ヘレンは人格を偽る必要があった。軍紀と力に従い、上官に逆らうことのない人間として。

「おい、ヘレン。あっ大尉だったわ、悪いなぁ」

「……」

 ヘレンは返事こそしないが、敬礼する。軍人同士のこういった不躾な扱いも、上官なら多少我慢した。というのも、ヘレンという名前は軍人にしては可憐な響きがあって、こうして程度の低い揶揄いに遭うくらいは日常茶飯事だったからだ。


 換装身体の軍用種体ぐんようしゅの中にも性別があるが、前線に立つ人員が男性・後方支援が女性、というのが暗黙の了解だった。一般人と違い、軍内は完全な実力主義。換装身体の僅かな性能差も命取りだ。

 つまり戦闘人員はほとんどが男性の換装身体使いのみ。女に飢えた上官がつまらない遊びに興じるのも、同情する部分はあった。


「大尉、あの家が不穏分子の隠れ家だ。お前の隊が先行しろ」

「了解しました」

 中佐の命で先行する。治安維持と聞いているが、最近住宅への突入が多い。とはいえ逆らう理由もない。粛々と任務をこなしていく。





「おかえり、ヘレン。な~んか、不機嫌な顔してるわね?」

「ただいま姉さん。いやまた、リイチ中佐だよ。毎日飽きずによくやるよ」

 くたびれた様子でリビングに入ったヘレンに、姉のアノンが飲み物の入ったコップを差し出しながら労った。


「そんな苦労している妹ちゃんに、ひとつ贈り物があるよ~。私が仕事用で購入した三次視像プリセット、ヘレンに譲渡できるようにしてきたの」

「えっ? 仕事用なら譲渡不可じゃないの?」

「ううん、もう使い終わったから使途は自由だよ。思念通話で送っちゃうね」

 アノンは軍部所属だが、上層階と下層階の税務に関する仕事に就いている。軍戦闘員という職業柄、表立って女性らしいプリセットを所持できないでいるヘレンを気遣って、時折こうして衣服を送ってくれる。


 換装身体の使用のため、大抵は幼い頃に適合手術を受ける。四肢と最低限必要な筋肉以外を削ぎ、上半身と頭部を『素体』として換装身体の支柱にする。肉体の方は各社メーカーの特殊な培養液で保管する。年齢に応じて肉体側も育っていき、いつでも生身に戻ることができる。

 軍職になるからには、男性軍用種体を扱えなければいけない。だがヘレンは、女性として生きたい、という思いが強かった。家族は理解を示してくれ、プライベートでは自然体でいることを好んだ。ヘレンは愛する家族を護り、良い暮らしをさせたい一心で軍に従事していた。




 休暇日には家族で出かける。厳しい軍での生活を一時忘れられて、仲のいい姉とも会話が弾み、ついつい気が緩んでしまう。そんな時に限って最も会いたくない相手に出会ってしまう。


「あいつは……」

 上官のリイチ中佐が、驚いた顔でこちらを見ていた。ヘレンはしまった、と思っていた。家族とともにいるうち、知らず知らず家の中と同じように、女らしい口調になっていたからだ。


 だが意外にも、中佐は次に顔を合わせても、話題に上げようとする様子はなかった。それが不気味で、ヘレンは顔色を何度も伺ってしまう。リイチ中佐は上機嫌に嗤ってみせるだけだった。





 ヘレンの心配をよそに時は過ぎてゆく。その日は家族全員そろって、アノンの誕生日祝いのために準備を進めていた。ヘレンは姉に教わりながら、慣れない料理に悪戦苦闘していた。


「あはは! 我が妹は本当に不器用だねえ」

「うっ、姉さんに言われると結構悔しい」

「何よ、私は意外と器用よ? 仕事も恋も絶賛並走中なんだから」

「恋!? えっ、なにそれ聞いてない」

「実はさぁ……」


 とびっきりの悪戯をする前の子供のような、無邪気な笑みを向けてくるアノン。ヘレンは嬉しそうな姉が次に口にする言葉を、胸を高鳴らせて待っていた。


 だがそのとき、突然聞き慣れた軍靴の音が聞こえたことで、背筋が凍った。


 居間の扉が蹴破られて、何十もの銃口が差し込まれて乱射された。心の拠り所だった家の中が、大好きな家族の身体までもが弾けて、吹き飛ぶ。燃料切れみたいにしてぱたんと倒れる。どす黒い血染みが床に広がっていく。自分自身も例外でなく、あれだけ鍛えていたというのに何ひとつ抵抗できなかった。


「やあ、大尉。お邪魔するよ……」


 憎たらしい声の主が誰なのか、顔を見なくても分かった。床に転がった自分の目の前に、穴だらけになった猫の遺体があって、涙が溢れたときに意識が無くなった。





 次の目を覚ました時、ヘレンは自分が狭い箱の中にぎゅうぎゅうに詰められているのを感じた。


 軍用種体の換装身体が剥がされ、わざわざ生身に戻されていた。仰向けになっていて、額のすぐ真上に蓋がされている。まるで棺桶に入っているようだ。銃で損傷したはずの傷は塞がっている。代わりに身体に直接配管が繋がれ、訳の分からない液体が行き来している。最悪の気分だ。


 自分を閉じ込めていた蓋ががこり、と取り外された。ヘレンは身じろぎひとつ取れないままだったが、外した人間の方がこちらを覗き込んだので、誰なのかは分かった。軍用種体の換装身体を着ている。


「やあ、大尉。まさか君が、軍部に反旗を翻すとはねえ……」


 リイチ中佐が同情的にこちらを見た。ヘレンの中で、近日こなしていた任務の内容と繋がった。繋がってしまって寒気がした。上官の指示に従い、民間人を装った不穏分子の確保のために住居を制圧したことが何度もある。容疑者は軍上層部か、連合政府の研究機関に引き渡していた。

 つまり自分も、自分自身も同じことをしていたのだ。何の変哲もない家族を襲って破壊して、このようなことに。


「──~~!!! っ!!!!」

 叫ぼうとしたが声は出ない。肉体に何か薬でも打たれているのか。


「うん、順調だね。閉じるよ」

 横から研究種体の者が乗り出してくる。まるで人間を相手にしている風がなく、淡々とそう言った。


 再び蓋が閉じられていく。ヘレンは恐怖で、声なき声で喚いた。目の前が暗くなるのに合わせて意識も遠くなる。まだ何も知っていない。家族がどうなったのか、姉がどうなったのかさえ。悔しかったが何もできなかった。無力感と絶望のなか、暗闇に囚われていく。


「また来世でね。ヘレン



 ─ ─ ─ざざざ……ざざ……

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