第12話
「せんぱい、聞いてますか?」
美沙が怒りの感情を吐き出しながら、訊いてくる。
「どうでもいい」
自分でも驚くほど冷めた声が出た。
「あなたのことなんてどうでもいい。私が気にしているのは、はやてマンの絵だけよ」
「は? さっきはいらないって言ったじゃないですか」
「いるに決まっているでしょ。あなたから本音を引き出すための嘘よ。約束は守ってもらうから」
「守りますよ! 今はそれより、もみじが最低だって話を」
「信用できない。あなたは嘘つきだから」
「しつこいですね。それについては謝――」
「謝って済む話じゃないわ。私がどれだけ苦労させられたか、あなた知らないでしょ? わがまま過ぎるのよ。過去が不幸だからって何をしてもいいというわけではないわ。それに誰しもが、あなたに関心を持っていると思ったら大間違いよ。皆が皆、あなたを甘やかしてあなたの都合通りに動くと思わないで。私みたいな人間でさえ人を思い通りに動かすことは無理なんだから。実際、デートをしてあなたの関心を私に集めようとした。でも、無理だった。あなたは最後まで私を道具としてしか見なかったのよ。私の遠く向こうにいるもみじさんを見ていた。私と一緒にいるのに私を見ようとしなかった。そんなことが許せる? 人を舐めるのも大概にして。この際だから言っておくけど、私はあなたが嫌い、大嫌い。少しは私に関心を持ったらどうなの? なぜ私だけがあなたのことで悩まないといけないの、私がどれだけあなたのことで悩んでいたと思ってるの? あなたも私のことで悩むべきだわ、そうじゃないと不公平よ。とにかく嫌い、嫌いよ、大嫌い」
そこまで言い切り、はっと我に返る。何も考えずに喋っていた。
美沙は目を見開いていた。
脱力感に襲われる。視界が暗くなった。ここまで人前で取り乱すのは初めてだった。
死にたくなる。
失望されただろうか? 気持ち悪く思われただろうか?
それとも、ショックを受けた?
美沙から視線を逸らす。怖くて目が見れなかった。
金輪際、美沙との関係は断ち切られるだろう。絵の受け渡しの時くらいは話すかもしれないが、それ以降は互いに存在を無視して、廊下で会っても会釈すらしない間柄になる。卒業し、この数週間の出来事は幻のように消えてなくなるのだ。
なぜか、心にぽっかりと穴があいたような気持ちになった。
目の前の後輩を言い負かせば心が晴れやかになると思っていた。でも現実は違った。虚しさしか残らなかった。
私は踵を返そうとした。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
その時、制服の袖を掴まれた。
振り返る。
「待ってください」
美沙が真剣な表情で口を開いた。
「一つ訂正させてください。単なる道具だと思われていた。せんぱいはそうおっしゃいますが、そんなふうには考えていませんでした」
「いいのよ。今更そんな嘘をつかなくても」
「嘘じゃないです。デートだって、別に、楽しくなかったわけではありませんから」
嘘よ。
そう言いかけ、思い出す。はやてマンのSNSに、妹がデート前でウキウキしていると書き込まれていた。帰ってきたら落ち込んでいた、とも書かれてあった。
制服を掴まれたまま、睨み合いが続く。
その時、通知音が鳴った。美沙のスマホだ。
「見ないの?」
そう尋ねると、美沙は首を横に振った。
「友達が心配してメッセージを送ってくれたんでしょうね。今はそれより誤解を解くのが先決ですから」
「あくまで私に関心があったと言い張るつもりね」
「せんぱいのことは嫌いじゃないですよ。むしろ、好きでした。変な意味ではなく。だから、過去のことを話したんです。知ってほしかったから」
「たくさん嘘が入っていたじゃない」
「弱みをストレートに見せるのが苦手だったからです。それにせんぱいだったら、A子はわたしのことだって、見破ってくれるんじゃないかって……。流石に期待しすぎましたね。それに……」
美沙は頬をカッと赤く染めた。覚悟を決めた目をして言う。
「もみじへの想いを吹っ切るためにデートを決行したんですよ。馬鹿な考えでした。デートした日、話をしていて痛感しました。せんぱいこそ、わたしを道具としてしか見ていなかったわけですからね! 一方的に利用されていたのはわたしの方ですよ。だから関係を解消したんです!」
「は?」
なにを言っているのか理解できなかった。
「は? じゃないですよ! あの時も話しましたが、せんぱいの目当てはわたしではなく姉の描く絵だったんでしょ! 知っているんですからね! っていうか、さっきまで自分でそんな話をしていたじゃないですか!」
「……」
「少しは否定しろぉ!」
顔を真っ赤にして怒る。
知らなかった。そんなことを思っていたなんて……。
体から力が抜けた。乾いた笑いが漏れる。
私達は、いつの間にか手段と目的をごちゃ混ぜにして、自分を見失っていた。相手の気持ちを、まったく見ていなかったのだ。だから今、こんな状況に陥っている。
本当に馬鹿だ。
「なに笑っているんですか」
「笑ってない」
「笑ってるでしょ。情緒不安定すぎて引きます。ドン引きです」
美沙がむすっとした顔で言う。
ふいに思い出されるのは、ぷにゅるり三十一話のエピソードだった。
メイデンとマリンちゃんが、主人公を巡って喧嘩する回だ。
私はマリンちゃんのことを脳裏に浮かべながら、腹に力を込め、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、皆が思っているような人間じゃない。弱さを持った人間よ」
美沙が目を見開く。何を言っているのか、と困惑しているようだった。
私は構わず続けた。
「だから、あなたが必要なの。したたかで、計算高くて、誰よりも人を愛そうと努力しているあなたが。……あなたを裏切るなんて、私にはできない。あなたのことが好き、大好き。あの人と同じくらい、好き。そのことに気づけたの。だから、あなたと仲直りがしたい」
美沙は顔を強張らせた。どう反応すべきか迷っているようだった。
私は頬の熱さを誤魔化しながら言った。
「ぷにゅるり三十一話、マリンちゃんの名台詞よ」
「わかってますけど!」
美沙が前のめりになる。なぜ今なのか、と突っ込んでくる。
「ちょっと状況が似ていると思ったのよ。あなたも一応、全巻読んでるんでしょ」
「確かに読んでますけど……。流石に急すぎませんかね……。正直、めちゃくちゃ引きました。ドン引きです」
真顔を崩して、うへぇ、という顔を浮かべる。
「せんぱいのオタクな部分、皆には見せられませんね。こんなの受け入れてくれる人、まずいないでしょうから」
「見せるつもりなんて最初からないわ。あなた以外には死んでも見せない」
「ほんと良かったですね、わたしが理解ある後輩で。世界にわたし一人だけですよ? せんぱいのオタク趣味や捻くれている部分を許容してあげられるの。もっと感謝してほしいですよ」
余計なお世話だ、と言い掛け、別の言葉を口にする。
「それはお互い様でしょ。美沙も十分捻くれているじゃない。あなたに付き合えるのなんて、私くらいよ。もっと感謝してもいいんじゃない?」
「それは……」
一瞬口ごもり、美沙は溜息をついた。それから、雪解けを感じさせる笑みを浮かべた。
「確かに、それは否定できませんね。姫子せんぱいの前でしかこんな自分、絶対に曝け出せませんから」
もはやお互いに、言うべきことはなかった。
なぜこの後輩を嫌いになったのか。それは私と似ていたからだ。人に関心を持とうとせず実体のないものを嫌い、そのくせ何かを好きになったら、なりふり構わずあらゆるものを使って、それを手にしようとする。おまけに捻くれているから、本音をなかなか口にしない。考えれば考えるほど、私そっくりで嫌になった。
でも、違うところもある。それが嬉しかった。
私が手に入れたかったのは絵だけではなかったのかもしれない。それはもっと抽象的で、それこそ幽霊に近いものだったのではないか。今更ながらそう思う。
「せんぱい?」
小首を傾げて見つめてくる。
自分が何を掴もうとしていたのか。今すぐ言語化するのは難しかった。もみじだったら、それを幽霊と呼ぶだろう。でも私には、しっくりこなかった。私なりの言葉を見つけたい。
「美沙」
名前を呼ぶ。
「もう少しだけ、関係を続けるべきじゃないかしら」
「は? どうしてです?」
怪訝そうな顔をされる。
「互いにほしいものがまだ手に入っていないからよ」
「わたしはもう、手に入れたいものなんてないですよ……」
拗ねた子供のように言う。
私は首を振った。
「そんなことないでしょ。私と付き合っていれば、凄いものが手に入るかもしれない。それを逃すなんて馬鹿よ」
「え? なんですそれ?」
「世界一美人な先輩と友達になれる権利」
美沙はきょとんとした。何を言われたのか理解できなかったらしい。
少しして、はっ、と大きく口を開けた。笑みをこぼす。
「なんですかそれ、最高じゃないですか。めっちゃ人に自慢できそうですね」
「そうでしょ」
「ではせんぱいの方は、世界一かわいい後輩と友達になれる権利を手にするわけですね」
「それはあまりいらないけれど」
「なんでだよ!」
見つめ合い、くすくすと笑い合う。
この後輩と一緒にいたら、いずれ、ほしいものに名前をつけられるかもしれない。そんな気がした。
ふいに通知音が鳴る。
美沙がスマホを取り出して画面を見る。わおっ、と声を上げ、こちらに画面を向けてきた。はやてマンからのメッセージだった。文面を目で追う。
……え? 嘘?
心に熱いものがこみ上げてきた。
ぷにゅるりアニメ化決定、というメッセージが書かれてあったのだ。公式アニメサイトのスクショまで貼ってある。
「やっ……」
声が掠れ、目に涙が滲んだ。
美沙が小首を傾げる。
私は、両手を前に突き出した。
「やったー!」
美沙に抱き着く。
「ちょっ、離れろ」
じたばたと抵抗されるが、ぎゅっと腕に力を込めた。
この高揚が収まるまで、あと何秒かかるだろう。
一生、この気分を味わい続けたいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます