第7話

 土曜の十一時半。私は駅前のスターバックスの前で足を止めた。黙って人混みを眺める。今日は快晴で雲一つなかった。

 スマホを取り出そうかと思ったところで、「姫子せんぱい!」と声を掛けられた。そちらを向くと、美沙が駆け寄ってくるところだった。

 気合の入ったコーディネートをしていた。普段はつけていないチョーカーをつけている。そういえば私服を見るのは初めてだ。

 まあ、自分の清楚で綺麗目な私服と比べたら、大したことはないのだが。

 私の前で立ち止まると、どやっとした顔を浮かべた。


「早いですね。楽しみで待ちきれませんでしたか?」

「そうね」

「うわ、凄い棒読み……。わたしは楽しみでしたよ。なんせ今日は、姫子せんぱいがデートプランを考え、わたしをエスコートしてくれると聞いていたので。期待で胸がどきどきです」

「……強要されたんだけど」

「こまかいことはどうだっていいじゃないですか。とにかく行きましょう!」

「腕を引っ張らないで」


 二人で街を歩く。

 イタリアンの店に入った。予約は取ってあったので、すんなりとテーブル席に案内してもらえた。注文を終え、美沙がきょろきょろと店内を見回す。


「お洒落ですね。せんぱい、以前にデートで来たことがあるんですか?」

「ないわ。ネットで見つけたの」

「へえ……。もしかしてせんぱいってデートするの、これが初めてなんじゃないですかぁ?」


 煽るような顔を向けてくる。


「そうよ」


 真顔で返した。美沙は、むっと眉を顰めた。納得いっていない様子だ。なによ、と訊く。


「いえ……。見栄くらいは張るかなと」

「デート経験が豊富なのは自慢にならないと思うけど」

「周りの女子にマウントを取られるかも、って考えたりしないんですか。そういうのって割とあるじゃないですか」

「私にマウントを? ふっ……」


 つい笑ってしまう。


「私にマウントを取れる女子なんていないと思うけど」

「うわ……凄い自信。さすがナルせんぱい」

「変なあだ名をつけないで」


 二人分のスパゲティが運ばれてくる。評判通りの美味しさだった。美沙も満足そうに目を細め、フォークを動かしている。

 会計を済ませ、アミューズメントパークに足を運んだ。ボーリング場で一時間潰し(美沙は想像以上にボールコントロールが下手だった)、そのあとは映画館に移動した。時間を潰すことを目的に選びましたね、と図星を突かれたが、ほかに行くところもなかったので、二人でヒューマン系の映画を観た。まずまずの出来で、アミューズメントパークを後にしながら感想を言い合った。


「面白かったですけど、恋愛パートは余計でしたね。ベタなものを見せられて不快な気分です」


 美沙が苦い顔をして言う。私としては、登場人物が抱き合い喜ぶシーンに辟易とさせられた。もう少し上品な演出はできなかったのか。そう文句をつけたくなる。自分だったら、目的のものが手に入った如きで、あそこまで下品なはしゃぎ方はしないだろう。もっとクールに喜ぶ。

 美沙が恋愛描写に対しての文句を言い続ける。それが止まったタイミングで疑問をぶつけた。


「相変わらず恋愛が嫌いなのね。どうして?」


 言ってから「あれ?」と思う。私は何を口走っているのか。これまで他人の価値観に興味を持ち、掘り下げようと思ったことなどなかったのに。

 美沙も私と同じ疑問を持ったのか、小首を傾げて見つめてくる。私は慌てて言い添えた。


「あなたは自分と仲良くしろって強要してきているでしょ。それと恋愛嫌いの理由に何かしら関係があるんじゃないかと思ったのよ。その辺はどうなの?」

「強要って……人聞きが悪いなぁ。お互い得をする提案をしただけなのに」


 美沙が膨れる。それから、うーん、と自分の顎に人差し指の先を当てた。


「最初に理由は話さないって言いましたけど……気が変わりました」


 二人で公園のベンチに腰掛ける。遊具で子供達が遊んでいるのを横目に、美沙が口を開く。


「理由を話す前に昨日のことを訊きたいんですけど」

「なんのこと?」

「もみじとの会話ですよ」

「ああ、大した話はしてないわ」


 もはや嘘をつく必要もないので、ざっくりと内容を説明した。美沙の弱みを握ろうとして接触したという部分は、もちろん省かせてもらった。

 話を聞き終えると、美沙は眉を顰めた。


「幽霊ですか。もみじらしいキモイ言い回しですね……」

「どういう意味なの?」

「メタファー、隠喩ですよ。幽霊って実体のないものですよね。恋愛感情をそこに当てはめたんでしょう。わたしが先輩に恋愛感情を持っているのに、それを認めようとしないことを皮肉りたかったんでしょうね」

「へえ」


 遠回しな言い方をしていたわけか。


「面倒でしょ? 心底くだらないです。あえてもみじの言葉に乗っからせてもらいますが――わたしの世界には幽霊は存在しません。もちろん、せんぱいに恋愛感情なんてありませんから」

「知ってる」


 美沙は苦虫を嚙み潰したような顔で続けた。


「もみじとはこの高校で初めて知り合ったんですが、最初から、そりが合わないと感じてました。何かにつけ恋愛話に持っていこうとするタイプでしたからね。友達にもそういうタイプはいますが、彼女らは我慢できるんですよ。わかりやすいですから。でも、あいつは恋愛を哲学的なものだと捉えているふしがあって、色々と理屈をこねて語ろうとするから気に入らなかったんですよ。恋愛なんて、しょせんはセックスの延長線上にあるものでしかないじゃないですか。性欲ありきで、美しくもなければ、崇高でもありません」


 ベンチの近くを歩いていたサラリーマンと思われる男性が、一瞬こちらにぎょっとした顔を向け、気まずそうに去っていった。


「もみじはわたしに対して、『恋愛の素晴らしさを知らない可哀想な人』だと言いました。だから、過去のことを語ってやったんですよ。わたしが恋愛嫌いになったきっかけを」


 美沙は溜息をつき、ゆったりとした口調で語り始めた。

 中学一年の時、美沙のクラスにいじめられている女子――A子がいた。彼女は引っ込み思案で友達が少なく、家が貧乏だったため、いじめの標的とされていたらしい。

 A子は毎日、地獄のような日々を送っていた。

 しかし、そんな彼女に転機が訪れる。

 恋人ができたのだ。

 恋人は違うクラスの女子で、体育会系の人気者だった。

 A子の学校内での地位は上がり、いじめっ子たちから手を出されなくなった。

 A子は初めて学校というものに希望を見出せた。毎日が楽しかったと話していたという。


「でも、幸せは長続きしませんでした」


 彼女が急に別れ話を切り出して、二人の関係はあっさりと終わった。A子は悲しんだ。しかし、それだけで事は終わらなかった。

 A子のセクシャルな写真が流失したのだ。事態は大きくなり、大人が介入した。そこで、とんでもない事実が発覚した。


「いじめの首謀者の女子とA子の彼女はグルだったんですよ。彼女は最初からA子を傷つける目的で嘘の関係を結び、恋人を演じていました」


 冷静に語ろうとしているようだが、ベンチに置かれた美沙の手は握りしめられ、小刻みに震えていた。


「彼女に悪意はなかったそうですよ。親友に頼まれたから仕方なく付き合い、えっちな写真を要求して、手に入れた写真をそのまま転送しただけ。そう語っていたらしいです。単なる遊びだと思っていたんでしょうね」

「興味深い話だけど、それがあなたの恋愛嫌いとどう関係するの?」


 私が訊くと、美沙は笑った。


「やっぱりせんぱいって冷めてますよね。こんな胸糞悪い話を聞いても平然としてるんですから」

「胸糞悪い話なんて、そこら中に転がっている」

「確かにそうですね。でも、これは、わたしにも関係ある話だったんで、他人事として割り切ることはできませんでした」


 美沙とA子は小学校の頃に交流があった。だから、いじめの現場を目にして歯がゆく思っていたらしい。恋人ができ、A子がいじめられなくなってから、声を掛けて再び仲良くなった。見て見ぬふりをしてごめんと謝ったら、A子は笑って許してくれたという。それからというもの、毎日のようにA子と雑談を楽しんだ。ほとんどが恋愛絡みの話だった。美沙は当時、恋愛話を訊くのが好きで、いろいろと相談に乗ってあげたそうだ。その時のA子の嬉しそうな表情を、今でも忘れられないという。


「A子は恋人だと思っていた人に裏切られ、心を病み、死にました」

「死んだの?」


 美沙は頷いた。


「……もう生き返ることはありません」


 美沙が遠い目をして言う。ここではないどこかを見ているようだった。

 子供達のはしゃいだ声が聞こえる。そちらに目をやると、立ちながらブランコに乗っている少年達がいた。


「恋愛感情なんてものに縋ったから、A子は死んだ。いえ、殺されたんです――」


 美沙が虚空を見つめながら続ける。


「気づいてあげていれば、A子は死ななかった。わたしも同罪です。そもそも、最初の時点で助けてあげるべきでした。わたしは保身に走ったんです」


 沈黙が落ちる。

 私は何も言わなかった。黙ったまま空を見つめる。太陽が沈みかけていた。

 陽気さを纏った少女の意外な一面を知り、衝撃を受け、言うべき言葉が見つからず、困惑している――美沙の目には、私がそう映っているかもしれない。


 もしそうなのだとしたら、とんだ節穴だ。

 私はただ単に、「なんだそんなことか」と呆れ、何も言う気になれなくなっていたのだ。

 自分は美沙という少女を過大評価していたらしい。私を操ろうとするくらいだ、きっと一筋縄ではいかないだろうと警戒していた。しかし、なんてことはない。目の前の不幸に心を痛め、自分だったらその不幸を食い止められたかもしれないと自分の能力を過信し、過去を後悔する、どこにでもいる普通の女子高生でしかなかったのだ。

 美沙はA子の亡霊を探すように虚空に視線を彷徨わせている。

 この件を知ったことで、自分は有利な立場になれたことを確信する。寄り添い、共感を示せば、懐柔することは容易いだろう。チャンスだった。

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