色付く心

 木々の葉を鳴らす風が、かすかに割れ響く音楽を連れてくる。防災無線から流れる時報だった。薄黄色の日差しが、秋の公園に黄金色のフィルターをかけていく。


「そろそろ帰ろうか」

「はい」


 駅に近い公園の入り口を目指して歩き出す。

 夕方のこのチャイム代わりの音楽を聴くと、家に帰らなければ、と思ってしまう。まだ明るいのに、と思いながら諦めて家路に着くのは、昔もいまも変わらない。


「……人に優しくするって、難しいですね」

「さっきの人の話?」


 鬼嶋の問いに、果奈は足元に目を落とすと、肯定か否定か判別がつかない曖昧な動きで軽く頭を揺らした。


「子どもの頃、母に言われたことがあるんです」



 ——あんたは顔が可愛いわけじゃないんだから、人に好かれるよう、真面目で優しい人間になりなさい。



 不器量だということは誰に言われずとも昔から知っていた。同時に、当時の年齢ではストーリーをちゃんと理解できないドラマやアニメや漫画で『人は見た目じゃなくて心だ』というメッセージが色々な表現で発せられていたから、そういうものなのだとすぐ納得したのだ。


「小学校では『真面目でいい子』だと評価されていて、担任に言われて問題が解けずにいるクラスメートを教えたり、雑用をしたりしていました。そのうち、自分から何かできることはないか聞いて、よく手助けしている子たちが困っていないか様子を窺って、先生方もクラスメートも『優しい』『いつも助かっている』と言ってくれていたんです」



 くすくす。くすくすくす。

 少女たちの笑い声。果奈に聞こえるように発せられた言葉。

 ——何あれ。必死じゃん。



「それを『必死だ』と笑われたとき」



 ずん、と胸が重くなる。

 そのときのことを忘れられないから。




「好かれようとして必死だった自分の浅ましさに気付かされて、……恥ずかしかった」




 そして卑しい自分を消すことができないからだ。


 果奈とクラスメートの女子たちの諍いは、後々俯瞰して見てみれば嫉妬が原因だろうと想像できる。恐らく目立ちすぎたのだ。歴代の担任や、音楽や家庭科など担任でない教師に話しかけられたり、他の子が下校する時間に手伝いを頼まれていると、何故果奈だけが、と感じる。贔屓されている、ずるいと思うだろう。大人でも飲み込めないそれらを子どもに我慢しろというのは無理な話だ。


 誰が悪いというわけでもない。起こるべくして起こり、果奈はそれを恥じて、悔いた。


「だからもう、好かれようとしない、好かれたいと思わないと決めました」


 愛想を振りまかないのは、それが理由だ。


『無愛想クイーン』と呼ばれて愛想を求められないことは心安くて、とても平和で、けれども少しだけ、申し訳ない。思いやりに欠ける身勝手な選択だとわかっていてそうしているのだ。だから果奈に向けられる誰かの気持ちが、純粋なものでも、打算や悪意を含んだものであっても、無下にできるはずがない、その資格がない。


「途端に周りからは愛想がないと言われるようになりましたが、優しくして尽くして、それが報われなくて嫌な思いをするより、自分のさもしさを思い知らされるよりも、ずっといいと思います」


 だって、誰も嫌いになりたくない。

 誰一人として。私自身すらも。



「ですから私は、鬼嶋課長を、とても優しい、勇気のある方だと思います」



 私とは、全然違う。


 突然の昔語りを、それも決して楽しくはない話を鬼嶋がどんな顔をして聞いていたのか確かめることができないまま、そっと息を吐く。ああ本当に今日は手袋でなくマフラーを持ってくるべきだった。恥を晒した自分を、鬼嶋と目が合ったとしてもどんな表情を浮かべればいいのかわからないでいる顔を隠せたのに。


「岩田さん」


 呼ばれたからには答えなければならない。


「はい」と言って果奈が顔を上げた、そこに優しい手触りのマフラーが降ってきた。


「寒そうだから、使って」


 そんなことはないのに有無を言わさぬ声だった。はい、と答えながら立ち止まってもたもたとマフラーを首に巻く果奈に「あのね」と鬼嶋が言う。


「水掛け論になるから黙って聞いてほしいんだけれど、俺は、君のことをとても優しい人だと思っているんだ」


 手を止めた果奈が反論を試みようとすると「聞いて」とまた強い声で鬼嶋が言った。


「本心を出さないことが気遣いで優しさなんだと君は言ってくれた。そして君は自分を、気遣いができない、俺みたいにはできないって言う。でもね」


 言葉を切った鬼嶋が少し笑う。



「俺をそうやって励ましてくれる君が、優しい人じゃないわけないでしょう?」



 は、と息を飲んだ果奈は、けれど小さく首を振った。でも鬼嶋は見えないふりをして、果奈が上手く巻けなかったマフラーから不格好に飛び出した髪を掬い上げるようにして整えていく。


「君がみんなに好かれたら嬉しいけれど、そのために辛い思いをするくらいならいまのままでいいんじゃないかな。わざわざ好かれようとしなくても君を好きになる人はいる。断言できるよ、俺は」


 はい、と掠れた声で答えた。それは本当に鬼嶋の言う通りだった。


 顔が可愛いわけじゃないと言った母も、しばらく生活をともにした祖母も、不器用な果奈を慈しんでくれた。長い付き合いになってきた麻衣子が果奈を友達だと言ってくれるのもそうだろう。後輩の今田がアイスクリームや冷スイーツの話題を振ってくるのは果奈を嫌っているわけではないからだと思う。無愛想だとも堅苦しいとも言わない綾子もそのままの果奈を受け止めてくれている。


 だったら、この人は?


 揺れる目を上げた果奈は鬼嶋の微笑みを見る。


「断言、できるよ」




 ——だって、俺が、そうだから。




「…………」


 無愛想で、顔が怖くて、声が低くて。

 面白味がない性格で。周囲を顧みない、思いやりに欠ける人間で。


 けれどこのとき、果奈のいままでとこれからは報われたのだと思う。

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