出迎えはご飯の香り

 定時退社した果奈はその足で次の仕事のために鬼嶋宅へ向かう。

 鬼嶋との待ち合わせはしない。役職付きの彼は会議だの何だのと当たり前のように残業していて、退社時刻が不規則なのだ。

 だというのに仕事を頼んでいるという義務感からなのか、いつも送迎のありなしを伝えてくれる。申し訳なさそうに告げられるものの、本音を言えば、二人で移動する方が色々な意味で危険なのでまったく気にしないでもらいたい。


(……ということを、鬼嶋課長が不快にならないように上手く伝えられればいいんだけど)


 残念ながらそういう能力には恵まれなかったと、値引きシールが貼られ始めた食材を前にため息を吐く。

 綾子の食事作りの仕事の日は、鬼嶋宅の最寄りのスーパーで使う食材や頼まれていたものを買っていくのが、すっかりルーティンになっている。

 それがいまにも怒り出しそうに見えたのだろうか、すぐ隣で乳製品を物色する母親にまとわりついていた園児服の子どもが、果奈から逃げるようにしてカートの陰に隠れたので、ますます落ち込んだ。


(ごめんな、顔が怖いのは生まれつきなんだ)


 コミュニケーション能力に恵まれず、ため息を吐くだけで幼子に逃げられる。岬の「空気悪くしてる」発言は、決して的外れではない。


(……って、だめだ、もう考えるんじゃない。疲れているとすぐ落ち込むものなんだから……)


 スーパーを出ると夜風が冷たい。コートの前を描き合わせながら鬼嶋宅のあるマンション、グレイシア東都を訪ねる。

 エレベーターに乗ったところで「到着しました」と綾子にメッセージを入れ、五〇三号室のインターホンを鳴らすと、少しもしないうちに『はーい、ちょっと待ってー』と応答があり、お腹の大きな綾子がドアを開けてくれる。


「いらっしゃい、果奈ちゃん」

「こんばんは、綾子さん。本日もよろしくお願いいたします」


 仕事とはいえ上司の家の上がり込む状況は、いまでもやっぱり不可解だ。誰に説明しても、鬼嶋の実姉の食事を作っているのだと信じてもらえそうにない。


(さて今日は何を作ろうか……、うん?)


 リビングに続く廊下で、果奈は、くん、と鼻を鳴らした。

 何だろう、胃袋を刺激するとても素敵な香りがするような。


「んふふふ、気が付いた?」


 訝しがる果奈に綾子が機嫌よく笑う。


「いい匂いでしょう? だって、今日は炊き込みご飯だもの!」

「た、炊き込みご飯……!?」


 なんと、それは素晴らしい。

 玄関にまで漂うこの香りは出汁と具材と米が作り出したものだったのだ。綾子に続いていそいそとリビングに向かい、胸いっぱいに豊潤な香りを吸い込んだ果奈だったが、はたと我に返り、見過ごせない事態が発生していることに気が付いた。


「綾子さん、料理なさったんですか? 具合は? 気分が悪くなっていませんか?」

「作るのは大丈夫。食べるのは控えめにした方がいいだろうけれどね」


 ふっふーん、と鼻歌を歌う綾子は自己申告に違わず調子が良さそうだ。

 果奈の仕事は、特定のもの、または誰かが作ったものでなければ受け付けない綾子のまかないだ。症状もその度合いも一定でないため、匂いを嗅ぐだけで体調を崩すこともあったという。

 そんなわけなので念のため、綾子にはリビングに移動してもらい、果奈は入れ替わりにキッチンに入って、夕食作りの進捗状況をざっと確認した。


(ふむ、炊き込みご飯はできている、と。なら主菜と汁物を作ればいいか)


 買ってきた食材を収納がてら冷蔵庫の中を確認していると、玄関ドアが開く音がした。少しして、とんとんとん、と静かな足音がして、コート姿の鬼嶋がリビングに顔を出す。


「ただいま。玄関にまでいい匂いがしているよ」

「お疲れ様です。綾子さんが炊き込みご飯を作ってくださっていました」

「えっ!? ぅぐっ」


 ぎょっとした鬼嶋に忍び寄った綾子が間髪入れずに蹴りを見舞う。


「何よ、文句ある?」

「お腹の子の情操が心配だから暴力行為は控えてほしい、心から」


 痛い、止めろ、と言っても聞く耳を持たない綾子なので言い方を工夫したらしい鬼嶋だが、この最強のお姉様には無意味だった。効力を発揮するどころか鬼嶋の抗議を嘲笑うように、ふふん、と誇らしげに笑った。


「この私が母親なんだから、どんな子でも優しい人間に育てるに決まっているでしょうが」


 負けましたと鬼嶋が両手を挙げた。果奈も(さすがです)と心の中で拍手を贈る。どんな性格の持ち主でも最低限の常識と思いやりを備えた人間に育て上げるに違いないと思わせるのが、九条綾子という人だった。


「それにしても、料理して大丈夫なの? 体調を悪くしたら岩田さんが気に病むでしょう」

「その果奈ちゃんがすでに参っているみたいだったからね」


 人と人でないもの、透き通った二つの目に見つめられて果奈はたじろいだ。

 特に綾子の獣の瞳孔は、彼女の美貌も相まって恐ろしいくらいに綺麗だった。家の中だと綾子はあやしである自分を隠さない。言動も自由で、きっとこうなるからこうしておけとか、先にやっておいたなど、彼女が知りようのないことをまるで見聞きしていたように告げる姿は、美しく神秘的で、少し恐ろしい。


(参っているって、どのことだ? 確かに今日仕事では色々あったけれど……)

「いま考えている心当たりではない・・・・方ね」


 ひくっと息を飲んだ。

 誰にも話していないことを指摘され、心を読んだとしか思えず、果奈の顔がいつも以上に強張ったのを見て取った鬼嶋が「ほら岩田さんの邪魔をしない」と綾子をリビングに追い払う。


「炊き込みご飯は決定として、他は何を作るの?」


 本分を思い出した果奈は、自身のレパートリーと冷蔵庫の食材から最適な組み合わせを導き出し、答えた。


「作り置きして残っていたポテトサラダを使ったコロッケと、豆腐とわかめの味噌汁にしようと思いますが、よろしいでしょうか?」

「いいね!」


 手伝えることがあったら呼んで、と告げた鬼嶋の爽やかな笑顔に未だ落ち着かない動悸を感じて、果奈は息を呑み下してから、速やかに調理作業に入った。

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