鬼嶋輝の秘密1

 線路沿いをしばらく歩くと踏切が見える少し広い道に出る。街灯の数が増え、飲み屋やパン屋などの店が並び、車通りが多いのでずいぶん明るい。

 その広い道を進むと、店前に駐輪中の自転車が溢れるスーパーが見えてきた。


「必要な食材を教えてくれる?」

「はい。スープの材料は……」


 食材を挙げていくと、あるものの名前を聞いて鬼嶋はちょっと不思議そうな顔をしながら「全部揃っているよ」と教えてくれた。鬼嶋は冷蔵庫の中身も如才ないようだ。


「それじゃあ私は牛乳を取りに行ってくるから、他にほしいものがないか見ておいて」


 買い物カゴを持った鬼嶋はそう言うと奥へ向かったので、一人になった果奈はこれ幸いと売り場の探検を始めることにした。


 自炊が趣味だからか、スーパーの商品を眺めて回るのは好きだ。旬の食材が出回っていることに気付くと嬉しくなるし、特売とお買い得と値引シールの商品は絶対に確認するし、業務用と思しき量と値段の手が出せない食材も面白くて、じっくり見てしまう。

 そこでお買い得商品の値札を眺めた果奈は、思わず心の中で歓声を上げた。


(安い!)


 果奈が利用しているスーパーよりも安い商品が目に付く。特に農家の直売所コーナーは魅力的だった。傷もあるが、とにかく量が多くて安いのだ。


(うわっ、生マグロがこの値段! サーモンも脂が乗ってて美味しそう。ここは海鮮丼か、いやまず漬けておくべきか。ああっ、特売の合挽肉が……買ってくれと私に囁きかける……!)


 鮮魚売り場もなかなかの品揃えだが精肉売り場も魅力的だ。時間が時間なのですでに値引きシールが貼られていて、あちこちから『お買い得だよー』『食べてほしいなー』と声が聞こえてくる。


「何かいいものでもあった? これ?」

「っ、課長」


 にゅっと伸びてきた手が長くてびっくりした。その上掴んだブロック肉を買い物カゴに入れようとするのでもっと驚いた。


「見てただけ、見ていただけですから!」

「そうなの? 買わなくてもいい?」

「はい。紛らわしくて申し訳ありません」


 だがその後レジに行くまでにも「お菓子いる?」だの「飲み物は?」だのと言われ、遠からず押し切られる予感がした果奈は「ちょっと失礼します」とスマホに連絡が来たことを装って逃げるようにサッカー台の方に回った。


(お菓子は、ジュースは、っておじいちゃんおばあちゃんみたいなことを言う……)


 時間ができたのを幸いと、会計を待つ間、妊婦の食事の注意事項を調べたり、レシピを検索したり電子書籍のレシピ本を見たりしておく。スープを作ることは確定だとしても、もう一品欲しいと思ったからだ。

 そこへ会計を済ませた鬼嶋がやってきた。


「お待たせ。本当に何も買わなくて大丈夫だった?」

「はい。冷蔵庫を拝見して、スープの他にもう一品、同居人の方が召し上がれそうなものを作ります」

「頼もしいなあ。岩田さんに頼んで本当によかったよ」


 頼もしい。


(鬼嶋課長にそう言われるのは、かなり嬉しい)


 男だったらよかったのに、並の男より堂々としている、なんてことはよく言われるけれど、鬼嶋の言葉にはそうした意味合いは含まれていないから、きっと素直に嬉しいと思えるのだろう。


 スーパーを出ると、店前の狭い道でカゴ台車を移動させている店員がいた。店舗の裏に行くつもりなのだろうが、歩道はがたがたしており、道を塞ぐ自転車や通行人に気を配るせいで進むのに難儀している。面倒だが一つ一つ運んでいく方が早そうだ。


(会社で時々使うけど結構重いんだよな、これ。畳むと動かしにくいし)

「お客様、先にどうぞ!」


 後ろに続いて歩いていたところにそう声をかけられ、店員の気遣いをありがたく思いながら会釈しあって追い抜いた、そのときだった。


「ぎゃはは」

「うわ、危ねえ!」


 前方から自転車で走ってきた高校生たちが速度を落とさないまま両側に分かれる形で走り抜け、あろうことか一瞬何かを引っ掛けた。


 がしゃっ、と不穏な音に果奈が振り向いたとき、重ねられていたカゴ台車がばらばらになってこちらに向かって倒れようとしていた。


(これはまずい)


 だが咄嗟に動けるはずがない。

 かろうじて頭を庇いながら身体を捻った果奈は、次の瞬間、凄まじい勢いで後ろに引かれたかと思うと、逆に伸びた手が倒れくるカゴ台車を鷲掴みにしたのを見た。


 ばきんッ! と砕ける音。


(ばきん?)


 足下に降り注ぐ、金属片。

 何が折れた? と目を上げた果奈は呼吸を忘れた。




 カゴ台車を鷲掴んだ鬼嶋が、その右手で、金属のフレームをばきばきに折っていたのだから。




「か、か、か……っ!?」

「無事だね?」


 にこりと笑った鬼嶋が果奈の腕を掴んでいた左手を離す。どうやら瞬間的に左手で果奈を引き、右手でカゴ台車を掴んだらしい。


「い、色々と無事じゃないですよね!? とっ、とりあえず止血!? 最寄りの病院は……!」

「大丈夫、落ち着いて。無傷だから」

「すっすみません! 大丈夫ですか!?」


 事態を知った店員が血相を変えて駆けつけてくるが「いやいや」と鬼嶋は手を振った。

 少し錆で汚れている、けれど傷ひとつない、まっさらな右手で。


「こちらこそ申し訳ありません。倒れてきたのをとっさに掴んで壊してしまいました。申し訳ないのですが急ぎますので、後ほどこちらにご連絡いただけますか? 弁償させてもらいますから」


「あ、あの、えっと……」とどうしたらいいかわからないでいる若い店員に、鬼嶋は走り書きした名前と携帯電話番号のメモを渡して、ゆっくりと言う。


「上司に台車が壊れたことを報告するときに、どんな状況だったのか説明して、壊したから弁償すると言っている人間が『ここに電話をください』と言っていたことを伝えてください。……できそうですか?」


 鬼嶋の仕事力が垣間見えるわかりやすい指示に、店員は涙目になりながら何度も頷く。


「よろしくお願いします」とにっこり笑った鬼嶋に背中に手をかざされ、行こうかと促された果奈は、未だ青い顔と忙しない鼓動を鞄を抱えて押さえつけるようにしながら、よろよろと歩き出した。


(金属製のフレームを壊せる力って、つまり……)


 思い出される噂の数々や疑問が、次々に気付きへと変わっていく。


 秋の宵の肌寒さがやけに染みる。住宅街に入っていくと、途端に人の気配が少なくなった。電灯と家々の明かりに照らされる道は徐々に夜に包まれていこうとしていた。


 黄昏時。――逢魔が時とも言われる時間。


 ふっ、と背後で笑うような吐息が聞こえた。


「……聞かないんだね?」


 そこにいるのが鬼嶋だとわかっていてもどきりと心臓が鳴る。

 だが質問の意図はわかったので、大きくはっきりと頷いた。


「言いたくないことを無理やり聞き出してはいけないと、学校教育で習いました」


 身の安全、名誉を傷付け、差別に繋がるものだからと言われたことを、そのときの衝撃とともによく覚えている。『それ』は羨ましがってはいけないことなのだと理解した瞬間だったからだ。


「聞いてほしいって言ったら、聞いてくれる?」


 果奈は足を止めた。

 振り返ると、同じく足を止めた鬼嶋が、薄闇に光る目でこちらを見ている。


「はい」


 それをじっと見つめ返して、答えた。


「――ありがとう」


 その瞬間のどこか泣きそうな顔は見間違いだったのか。



「私は、人間じゃない。――『あやし』なんだ」



 果奈の目に映る鬼嶋は、彼らしい悪戯っぽい笑顔で予想通りの答えを口にして「みんなには内緒にしてね」と囁いた。

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