坂の上の古民家
美琴
第1話 帰省
結城が住んでいた生家の明るい縁側から見えたのは、真っ青な田んぼだった。
その田んぼを縁取るように、新幹線の高架が見える。
そこを走る長野新幹線に乗って、長い連休になると実家に帰省した。東京から2時間くらいだったが、両親と祖父、そしてお盆の時期には二人の兄弟や親戚も仲間入りし、大賑わいの数日を過ごす。
今回もいつも通り、新幹線とローカル線を乗り継いで、結城は実家に向かっていた。心地よく揺れるディーゼル車両から、ぼんやりと明かりの少ない窓の外の景色を見ていると移動の疲れが出てきたのか、うとうとと眠たくなっている。長野駅では空いている座席が無いくらい混みあう車内も、次第に空いてきて、結城と数人の乗客を残すだけになった。
車内アナウンスが目的地の駅を告げる。ドアの開閉ボタンを押して、自分でドアを開ける作業もすごく久しぶりで新鮮だった。
人気の無い無人駅に降り立つと、柔らかい秋の空気と草の匂いが結城を歓迎してくれる。その瞬間から、東京は、もう、結城にとって遥か遠い、非日常になっていた。
この静かなホームに足を降ろした瞬間から、結城はどうしようもないくらいこの柔らかい空気を肺いっぱいに吸い込みながら歩きたい衝動に駆られる。買ったばかりのダブルギアのスーツケースを転がしながら、ひっそりと静まり返ったホームを一人で歩く。
少し高めになっているホームからは集落の様子が一望出来た。
山間に折り重なる様に瓦屋根の日本家屋と、洋風の家が並んでいる。奥にそびえ立つ森には濃厚な霧が立ち込めていた。細い曲がりくねった民家の小道には、綺麗に手入れをされた名も分からぬ季節の花が、通行人の目を喜ばせてくれている。
大学時代は、長い夏休みの殆どを実家で過ごすことも有った。東京に比べれば暑さもしのぎやすく、午後になり山から下りてくる風を頬に感じると、思わず立ち止まって深呼吸をしたものだ。昼間は、開け放たれた縁側の大きな窓から吹き込む風を感じながら居間の畳でごろごろする。毎日、縁側で母が切ってくれる西瓜にかぶりつき、夕飯は大好物のコロッケと、採れたて野菜の田舎料理をお腹いっぱい食べる。東京の喧噪から逃れられる2カ月間を、結城は心待ちにしていた。
だけど、今回の帰省はいつもと違った。
片道切符だった。
数週間後には一旦東京へ戻らなくてはいけないのは分かっていたが、今回はどうしても片道切符が買いたかった。結城は大切にその切符を財布にしまい込んで、逃げるように東京駅のホームから新幹線に乗り込んでいた。
やっと東京を離れることが出来たという安堵感と、これからどうしようか、という底しれぬ不安が脳の中で慌ただしくせめぎ合っている。
スーツケースの持ち手を放し、両腕を横に広げ、大きく息を吸い込む。
目も閉じた。ゆっくりと口から息を吐いていくと、そこから今日の疲れと不安がすぅっと小川の様に流れ出ていく感覚があった。
ホームの階段を下りて、薄暗くなった人気のないロータリーをぐるりと見渡す。
木造の小さな無人駅舎の先の民家に、一台の車がハザードを炊いて停車していた。
「よっ。おかえり。」
後方から、懐かしい声がして振り返る。
兄の樹だ。
街灯も少なく薄暗い駅のロータリーでも、彼の表情はいつも通り柔らかく朗らかだった。車の鍵がついたキーホルダーを指に入れてぶんぶんと振り回している
「ただいま。お迎え、ありがと。」
「おう。久しぶり、結城。なーんだ、けっこう元気そうじゃないか。」
「まあね。この草の匂いを吸い込んでたら何かほっとしてきたんだよ。」
樹は首を傾げながら頷いて、鼻をくんくんと動かしている。
「草の匂い。。。か。。。やばい。ずっとこういう田舎に住んでいると何も分からねぇ。」
白い整った歯を見せてにこりと笑う。
「ま、とりあえず乗って。母さん、飯食わずにお前の帰り待っているんだよ。」
「そんなことだろうと思った。」
樹の運転するトヨタシエンタの助手席に乗り込む。車を買い替えたのは大分前だったはずなのに、まだ新車の匂いがしていた。
シエンタは閑散とした駅前通りをあっという間に通り抜けた。夕方だというのに車の少ない国道を疾走し、まもなく山道を登り始める。街灯の数が段々と減っていき、樹はライトをハイビームに切り替えた。ライトに照らされて目の前に映し出されるのは、鬱蒼とした樹木だけだ。高性能のスピーカーから流れてくる洋楽が耳に心地よかった。
「なぁ、結城。今回はゆっくり出来るの?」
樹は視線をフロントガラスに向けたまま穏やかな声で聞く。
彼は母からどれだけ事情を聞いているだろうか。ざわついた気分になるが、ひとまず、「しばらくはいるつもりだよ。」と、短く答えた。実の兄なのだ。いずれは全て分かることだろう。
社会人になってからは、お盆やGWにせいぜい二泊する程度でいつも新幹線に飛び乗っていた。
道がまっすぐになったタイミングで、樹がちらりと結城を見る。
「良かった。久しぶりに飲みに行ける?いつも話すタイミング殆ど無いからさ。」
「うん。たまにはいいよな。こうやって実家でゆっくり出来るのも。」
お互いが顔を合わせないで前を向いている、という車の中での会話はとても心地がいい。
しばらくお互いの近況についてゆっくり話し合った。樹の子供がもう三歳になりそろそろ幼稚園にあがること。奥さんも仕事を続けたいのでこれからの子育てに不安を感じていること。どの話も結城にとっては遠い未知の世界で、自分には永遠にそんな事を語る日は来ないのでは無いか、と感じる。樹がしばらく話したのち、おそらく自分の打つ相槌が微妙だったのだろうか、彼は話を切り替えた。
「なぁ、結城。雄三おじさんの古民家と畑のこと、覚えている?」
珍しく樹が畑の話を始めた。彼から、「古民家」という言葉を聞くのは初めてだった気がする。
「古民家と。。。畑?」
「うん。叔父さんがデイサービスに移動してからさ、あの古民家と彼の土地、持て余していてさ、耕作放棄地になってだろう?両親もあそこまでは手が回らないから、今は貸農園として運営しているんだ。」
そういえば、そんな話を去年のお盆に帰省した時に聞いた気がした。ここで様々な話は、東京に帰ると3日で蒸発して消えてしまう。この長閑な里山での暮らしと、新幹線1時間という架け橋で着く東京での激務はあまりに温度差が有り過ぎて、脳内に置いておけるスペースが無いのだ。
「そんな話、そういえばあったねぇ。兄さん、畑でもやるようになったの?」
兄さんの家族が住む町までは車で1時間くらい離れているはずだ。
「いや、僕はやらないけど。。。。あの畑さ、結構人気なんだよ。大半が定年退職した世代だけど、若い人たちも結構入ってくるんだ。ロケーション最高じゃん?南アルプスが一望出来るし、周囲に古民家とか神社多いから。」
「。。。そうだね。。。まぁ。。。何も無い所だけど、市街地に住んでいる人にとってはそれがいいんだよね。」
しばらく間が開いたあと、樹が言葉を継ぐ。
「なんかね、古民家も持て余してるけど、畑も区画余っているみたいだよ。」
樹は視線を前方に向けたまま、口元だけ少しあげている。相変わらず甘いマスクの綺麗な目鼻立ちだ。きっと母から聞くように頼まれたのだろう。
どうせやることも無いのだ。畑仕事でもしたら、と提案するのは道理が通っている気がした。
「。。。へぇ。。。そうなんだ。。。確かにいい所だよね。。
ひとまず、適当な相槌を打ってごまかす。
樹は、もう一度ちらりと助手席の結城を見ると、緩やかにハンドルを切って山道のカーブを曲がった。ほどなくして山道を出ると、視界が一気に広がった。満月が稲刈りを終えたばかりの田園を照らしている。その先の暗闇の中に、ポツポツと民家の灯りが浮かび上がる。目黒区の自宅マンションを出発、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、2時間半が経っていた。半年振りに帰省する集落の灯りは、以前より少なくなっていた気がした。
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