第6話 ネドヴェト嬢とお呼びくださいませ
射し込む朝日の眩しさにアマーリエは自然に目を覚ました。
彼女は家族の誰よりも早いまだ、日が昇らないうちに目を覚ますのが常だった。
朝日が射し込んでくるまで寝ていたことがないアマーリエにとって、これはとても、新鮮な体験に思えた。
しっかりと睡眠をとったからか、彼女を襲った妙な頭痛はなくなっていた。
体調にも問題がないと判断したアマーリエは、学園の制服に着替えるとダイニングに向かうべく、廊下に出た。
折悪く、出くわしたのはメイドのベアータだった。
「エミーお嬢様! もう起きて、大丈夫なんですか?」
ベアータは淹れたばかりの紅茶のような髪と少し、日焼けしてる健康的な肌から、快活な印象を人に与える。
アマーリエがまだ小さい時分から、屋敷にいる古株のメイドだが年齢はまだ、二十五歳と若手に入る。
年齢の割に肝が据わっており、貫禄があるせいか、若く見える
アマーリエにとって、どこか口うるさいベアータは天敵のような存在であり、苦手としていた。
その理由の一つが、ベアータの方が自分よりも家族を知っているのではないかと思えることであった。
彼女ほど、ネドヴェト家の家族関係をしっかりと把握している人間は屋敷にいないと言ってもいい。
(あれ? おかしい)
アマーリエの頭に微かな疑問が浮かんでいた。
ベアータという人物が、『淑女への子守歌』に出てこなかった記憶があったのだ。
(おかしくない?)
ネドヴェト家の屋敷で働いてるメイドで名前が、出てくるのは一人だけだった。
ヨハナという名前でミリアムより、遥かに年上のおばあちゃんに近い年齢の人物である。
だが、不思議なことに現在の屋敷にヨハナというメイドはいない。
正確にはアマーリエが二歳になるまで、ヨハナはいた。
高齢であることを理由に引退し、ネドヴェト領にいる息子夫婦のところで余生を過ごしたのである。
ヨハナの代わりに採用されたのがベアータだった。
(どうなってるの? 小説と違う……)
考えれば考えるほど、堂々巡りのように答えが出ず、アマーリエの眉間に自然と皺が出る。
「お嬢様。本当に大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫。朝食をとったら、すぐに出たいの」
アマーリエが考え込んだまま、反応を見せないのをベアータは訝しく思った。
ベアータは出来るだけ、心配しているように見える表情を浮かべ、気遣うような言葉を投げかけた。
(ん? 心配そう? 何か、ベティが薄っすらと微笑んだように見えたのは気のせいかしら?)
ミリアムは既に日課となっている慈善活動をすべく、外出していた。
マルチナとユスティーナも登校しており、いなかった。
アマーリエ一人ぼっちの朝食である。
しかし、誰もいなくても特に寂しいと彼女は感じていなかった。
自分は一人だったからに違いないとアマーリエは合点した。
一人で空回りしていただけということを嫌でも理解せざるを得ないアマーリエの顔に影が差す。
(誰もいない会場で大道芸を披露してる道化だったということかしら?)
彼女は何をすれば、いいのかとようやく、理解した。
どう動けばいいのか。
夜のうちにメモを取り、考えておいたのが無駄にならなかったとアマーリエは胸を撫で下ろす。
登校に使う馬車もいつもと違うものだった。
マルチナとユスティーナと三人同乗して、登校していたからだ。
予備の馬車を用意してもらったアマーリエは、一人きりの馬車でこれまでにない経験を満喫していた。
常用の馬車に比べたら、やや狭い。
座席の座り心地も決して、よくはない。
だが、一人で使えるのがこれほどに嬉しいものと彼女は知らなかったのだ。
こんなにも広々としていて、静かなものなのだと新たな体験に感動してさえいた。
しかし、アマーリエの中で妙な違和感がある。
それは気のせいではないという確信も彼女にはあった。
ベアータ以外の使用人や馭者から、線を引いて一歩下がられたような感覚はどこか、おかしかったのだ。
よそよそしいというのではない奇妙な感覚だった。
まるで腫物を触るように遠巻きに見られている感じを受け、アマーリエは何とも気分が悪かった。
それは学園に着いてからも変わらなかった。
(髪の色が変わったせいかしら?)
何とか、自分を落ち着かせようとそう考えることにしたアマーリエだが、それも効果的とは言えない。
彼女の意思とは関係なく、変わっていた髪色である。
染めたのでもなければ、勝手に変わっていただけなのもあって、納得がいかない。
目立つ赤毛より、目立たない髪色になったと思うのにどうして、このような奇異な目で見られるのか、彼女には分からなかった。
教室に入っても誰一人、アマーリエには近づいてこない。
(あぁ、そうだわ。いつものあたしはもっと早くに登校していたし、自分の教室に行かないでロビーのところに行っていたからだ!)
そして、ようやくのように気付いた。
アマーリエは自分から、周囲との間に壁を作っていたのだということに……。
しかし、気付いたとはいえ、居心地がいいとは言えない状況だった。
(あたしは珍獣扱いなのかしら)
遠巻きに見られている感覚を胸に抱いたまま一人、アマーリエは静かに授業の準備をすることにした。
そうでもして、気を紛らわせていなければ、居心地の悪さにいたたまれない。
するとそこへやって来たのがロベルト第二王子だった。
「エミー。なぜ、来なかったんだ?」
しかし、『
ポボルスキー宰相の三男ユリアン。
ベルガー第一騎士団長の次男ミラン。
ジェプカ侍従長の五男サムエル。
家を継ぐことが出来ない彼らはアマーリエと同じスペアに過ぎない。
奇しくもロベルトの周囲にはそういう人物が
アマーリエは彼らと自分の違いは何かと暫し、考えて、一つの答えを出していた。
それはロベルトの役に立つか、立たないか。
そこに尽きるのではないかと考えたのだ。
後者に位置づけられる自分が愛されるはずがない、とアマーリエの中で諦めが付く答えだった。
「ロベルト第二王子殿下。あたしのことはネドヴェト嬢とお呼びくださいませ」
腰を折り、深々と頭を下げる礼儀作法に則った綺麗な所作に取り付く島もないアマーリエの一言はロベルトに衝撃を与えるのに十分だった。
ロベルトは鳩が豆鉄砲を食ったように複雑な
(どうしたのかしら? 怒っている? 焦っている?)
ロベルトがなぜ、そんな
(何でそんな
不思議で仕方がないアマーリエは、動くに動けず固まってしまった。
「エミー? 一体、何を言っているんだ? 君と僕は幼馴染で……」
「あたしがあまりにも分別がなくて、浅慮であったせいでこれまで殿下に失礼なことを申し上げて、すみませんでした」
アマーリエも侯爵家の娘であり、一流の教育を受けた
ちゃんとしようとすれば、彼女にも出来る。
愛されたいと思うばかりに無駄な努力をしていただけに過ぎなかった。
もう、そんなことをしないと決めたアマーリエの自己防衛の手段が、完璧すぎる受け答えだった。
「殿下。どうされました?」
ロベルトの顔は血の色を失い、青褪めている。
調子がよくないのだろうかと少しだけ、ロベルトのことを心配になったアマーリエだが、それ以上に彼女の心を占めていたのは大きな疑問だった。
ロベルトがどうして、そういう状態になったのか見当がつかなかったからだ。
(それではまるであたしのことを気にかけているみたいじゃないですか。そんなはずがないですよね?)
自分が付きまとわないことでせいせいしたに違いないと思い込んでいるアマーリエにとって、ロベルトの言動は理解しがたいものだった。
「それにその髪はどうしたんだ?」
「朝、目が覚めたら、知らないうちにこうなっていただけです。特に何の問題もございません」
アマーリエは決して、嘘は言ってなかった。
彼女が染めた訳ではない。
女神にお祈りをしただけで勝手になっていただけというのがアマーリエの言い分である。
彼女はそのことで咎められたり、遠巻きに見られると思ってすらいなかった。
「君にそういう喋り方をされるとなぜか、悲しいな」
「そうでしょうか? あたしも十二歳です。侯爵家の令嬢として、淑女として正さないといけないと思い立ったんです」
「そ、そうか。すまない。邪魔をしたな」
ロベルトはまるで遠くを見つめるような不思議な視線をアマーリエに向ける。
悲しみと切なさが入り混じった
実際、見つめ合う格好になったアマーリエの心臓はドキッと意図せぬ動悸に震えていた。
手段としては間違っていたにせよ、恋をしていた相手なのだから、気にならないはずがなかった。
(でも、あたしはもう間違えない。勘違いしないんだから)
ふとアマーリエが拒絶するように視線を逸らすとロベルトはよろよろと覚束ない足取りで教室を出ていった。
(全く、何だったのかしら?)
授業を始める前にどっと疲れたアマーリエだった。
そして、その日の授業は全て、終わった。
アマーリエにとっては勉強がこんなに有意義なものだと感じられた貴重な一日でもあった。
これまではどこか、授業に集中が出来ずにいた。
そのせいでつまらないと勘違いしていだけで勉強するのも悪くない。
そう思うことが出来るようになった自分はきっと大人に近づいたのだとも……。
アマーリエは帰り支度を済ませると、さっさと教室を出ていくことにした。
クラスメイトは何かを聞きたそうな顔をしている。
だが、アマーリエは自分から、話しかけるのは至極、おかしな話だと思えたのだ。
「ねぇ、みんな聞いて!」と以前のアマーリエであれば、、明るい調子でそうまくし立てていたに違いない。
そんな愚かな真似はもうしないと彼女は決めた。
(愛が欲しくて、明るく振る舞ってたエミーはもういないんですよ? だから、放っておいて)
そんなアマーリエの考えが見える訳ではないのに誰一人、話しかけなかったのは話しかけてはいけない空気を彼女自身が強く出していたに過ぎないのだが、アマーリエは結局、その程度で自分のことなど気にかけていないからだと勘違いしていた。
(これで分かったかしら? エミー。愛を求めても無駄なのよ)
『求めよ、さらば与えられん』の与えられんは貰えないということに他ならない。
ならば、もうそのような真似はするものか。
アマーリエの導き出した結論は何とも物悲しいものになった。
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