第7話 一回日のキスと二回目のうそ、三回日の真実

 秋になった。九月はもう秋だ。だから長袖のシャツを着る。

 新しい靴をおろした。黄色いバスケットシューズ。青色の星が、かいてある。

「でかけるの?」

「うん」

 リノはまだ出勤前で、朝からって顔をしている。それでも出かけるのだ。出かけると決めてしまったのだ。昨日、寝る前に。

「セツくん?」

 リノは靴と悪戦苦闘している俺のとなりに座って言った。半分は当たってるかな。

「うん、」

 セツは今日、午後出のはずだし。遠出もいいかもしれない。

「そう、私はいつもと一緒だから、夕ごはん、何にしようか」

「うーんと、じゃがいも」

「じゃがいも、ならまだ家にあるか。わかった。任せて」

 うん。俺はちょっと夕ごはんを期待した。

「いってらっしゃい」

 リノは俺に素早くキスをして言った。それがものすごく自然で、俺はまたうれしくなる。

「いってくるね」

 外に出ると、朝の涼しさがまだ残っていた。気持ちがいい。

 本屋に行くつもりだったのだ。電車で二つ駅を越した所にある大きな本屋。今から行ったら、きっと開店前で、出勤途中の人ごみがその前を流れているに違いない。それを眺めるのだ。俺の前を通り過ぎる人たちは、気づかない人と、気づいても見ない人と、うさんくさそうに俺のことを見る人の三種類に分かれる。でも結局、どいつも同じ事を考えてる。

 朝はまだ、車が多くないから、数時間座っていても平気だ。

 セツはそれを聞いたとき、恥ずかしくないの、と言った。皆が見ている前で座りこんで、恥ずかしくないの?

 でも、俺に言わせると、どうして恥ずかしいの? だ。誰に見せてるわけでもなく、誰かに見られるわけでもない。見られたくない人がいるわけではないのだ。どうしてそんな事、恥ずかしいと思うの?

 そう言ったらセツは、ちょっと寂しそうな目をして、どこかで会うかもしれない友人がいないって言い切れるのは寂しくない? と聞いてきた。友人に見られたくなかったのだな。でも、リノもセツもいるのにどうして寂しいんだろう、そう言ったら、セツは優しく頭をなでてくれた。

 電車は空いている方だった。ラッシュに逆行してるからだけど、すれ違うすし詰め状態の電車を見ていると、何となく、かなしい気持ちになった。

 都心へ向かっているはずの列車が、どこか遠い所へ皆を連れて行っているように見えた。乗っている人は、きっと仕事を理解しているのだろうけど、俺だけ何も知らされていないようだ。彼らはどこへ着いても、いつもどおりに歩き続けるに違いない。

 そして、きっと、誰も俺には気づかないのだ。

 そう思っていたら、重なって止まった向こう側の列車に乗った女の人と、目が合った。

 きっと、イヤな顔をする、そう思ったのに、発車の瞬間、女の人は笑っていた。

 ぜったい、ぜったい笑っていた。俺と目が合って、笑っていた。

 俺は何だか、涙が出そうになった。



「どうして、ウソついたの?」

 とケイは言った。

「うそ」

「だって、初めましてって言ったじゃん。初めてじゃないのに」

 ケイはブランコに腰掛けて言った。

「なんだか話し方も違うし、悪いと思ってつっこまなかったけど」

 タコスパーティーの後、俺はレンタル屋に行くつもりで家を出た。そしたら、すぐ近くで先に帰ったはずのケイが待ってたのだ。たぶん出てくると思った、とケイは言った。近くの公園まで無言で歩いて、その後の事だ。

「お前はリノの婚約者だ」

「でも、」

「だから、余計なこと考えないで、リノを幸せにすればいいんだ」

「だからって、秘密にする事ないだろ。そんなに仲がいいんなら、」

 リノは、

「リノはきっと、不安になる。俺は普通じゃないから、俺がケイと先に知り合ってたって知ったら、リノは幸せになる自信をなくす」

「そんなのおかしいよ。セリ……は、いつも正しい事言ってるようだけど、それはちょっとおかしいよ。リノちゃんがらみだから?」

 どうしよう。

 こんな事はじめてだ。見境なくすなんて、ああ、これは俺が、本心からリノの結婚を喜んでないから、こんな落し穴を作っちゃうんだ。

「……俺がいなくなれば、リノは幸せになれるのに、」

 俺がリノと離れたくないから、

「そんな事ないよ。リノちゃん、セリの事すごく大事にしてるみたいだし、やっぱり、セリがいたほうが幸せだよ」

 ケイの言葉は、半分、ケイ自身にいっているように聞こえた。

「俺、リノと離れたくないよ」

 なるべく、普通に言ったつもりだった。いや、言わないのが一番だ。どうして言ってしまったんだろう。

 ケイは、何か考えてる目をしてる。

 どうしよう。

 俺はさりげなく、ケイのとなりのブランコにこしかけた。

「リノちゃんは、」

 そしてケイの言葉を気にしていないように、少しブランコをこぐ。

「リノちゃんは、見合いの時、すぐに遠い目をして何か考えてたんだ」

「ふーん」

 俺はぐんぐんブランコをこぐ。気にしていないフリだ。

「でも、今はあの時、リノちゃんはセリの事を考えてたんじゃないかって思うんだ」

 どうして? 俺はブランコを止めた。

「んー、何となく、あの時のリノちゃんの目とセリの目が、似てる気がするんだ。お互いを強く思ってる目」

 リノは好きだけど、それはほとんど姉妹だからだよ。言ってしまおうか、いや、もしかしたら、逆に疑われるかもしれない。

「何を守ってるのかな、リノちゃんも、セリも」

 ケイはブランコをこぎだす。特に深い意味はないのだろうけど、ケイの言った言葉が俺に突き刺さる。

 何を守ってるの?

 俺は、リノを守ってる。リノは何を守ってるの?

「……リノを幸せにしてよ……」

 俺は、ぐんぐんブランコをこいでいるケイをおいて、歩きだした。

 背後の音で、ケイがブランコをおりたのがわかった。




 イヤな奴に出くわしてしまった。

 本の搬入に忙しそうな本屋を通り過ぎて、最近見つけた遊歩道に向かう途中だった。

「セリ?」

 ケイは、こんな朝早くからどうしたのって顔をしてる。そうか、こっちに行くとケイのマンションに近づいているのだな。なんて事だ、リノに秘密はないようにしなきゃならないのに、どんどん秘密が増えてくる。

「どうしたの、こんな時間から」

 散歩。

「わざわざ電車に乗って?」

 ケイは明らかに楽しんでる。うるさいなぁ。自分こそ、何だよ。

「僕? 散歩」

 何て奴。俺はケイをおいて歩きだす。ケイはついてくる。会社、行けよ。

「僕の仕事は自宅勤務なの。技師だからね」

 じゃ、仕事しろよ。

「するよ。散歩の後にね」

 ケイには余裕がある。俺は走りだす。走って適当な角をまがって、座り込む。

 涙が出た。

 よくわからない涙だ。泣いているのだろうか、いやそうじゃない、涙が流れているのだ。哀しいのか、悔しいのか、うれしいのか何もわからない。俺はこんなんじゃないはずだ。

 静かな住宅街はまるで、誰も住んでいないようだ。道路に出ている人もいない。俺一人だ。

 俺は一人になるのか、リノがケイと結婚したら、一人であの部屋で暮らすのか。リノが幸せになるために、しょうがない事なのだ。俺はリノに何もしてあげられないのだから。でも、絶対に言える事は、決してリノを愛するのをやめたわけではない、どこにいても、リノだけ愛してる。

 俺はこんなに簡単なのに、どうして簡単にいかないのだろう。

 リノが寝たフリをしてた俺のまぶたに、キスをした時から、俺はリノが好きだったんだ。俺はそれがどういう意味かを知っていた。それに、同性でそういうのは、フツウじゃないって事も。

 でも目を開けて、リノを見たとき、本当に心の底から、キスしてほしいと思ったのだ。だから俺は腕をのばしたし、これが人を愛するって事なのかと思った。

 あれからずっと変わらない。変わっていないはずだ。

 曲がり角からケイが見ていた。ケイはゆっくりと近づいてきて、俺のとなりに座る。

 何も言わない。俺も、何も言わない。

 頭の中には、海が寝ていた。青くて、果てしない海。目をつぶって、自分の呼吸を聞いていると、耳に貝をあてている時のように、静かな波音が聞こえてきた。

 どこの海だろう。

 リノと行った海でも、セツと行った海でもない気がする。雲の多い青空と、機械的に繰り返す波。海と空と波と、眼前には、それだけしかない。そして、俺のかたわらには、誰もいないのだ。一人っきりで見る海。

 そうだ、これはマグリットの絵だ。ピレネーの城。

 あの海を一人で見ている。青空なのに暗く感じるのは、きっと城を戴いた巨大な岩が、空に浮いているからだ。

 涙が出た。

 俺の上には岩が浮いていて、俺は天を見ることができない。

 今の俺だ。何かが目の前で、俺の行く手を阻んでる。

 俺は、どこに行くのだ。

「わかった事がある」

 ケイはこの道のずっと先、T字路の壁の向こうを見るような目で言った。

「何が、」

 ケイは少し悩んだような顔をした。言っていいのか悪いのか、考えてるんだな。

「言えよ」

 俺はケイを急かす。でも本当は聞きたくない。

 ケイはゆっくり俺を見る。うそ、言わないで、

「セリはリノちゃんを愛してる」

――― !

「リノちゃんはセリを愛してる。本当は、僕の入る隙間なんか、ない」

 ああ、どうしよう、俺のせいだ。リノ……

「……ごめん……リノ…………」

「セリが悪いんじゃないよ。二人をずっと見てきてそう思ったんだ。完璧すぎてた。二人の関係が」

 リノが嫌われる、どうしよう。

「そんな顔しないで……誰にも言わないよ。本当に、リノちゃんとは、このままやっていく」

「何で!」

 おどろいた。どういうつもりなんだ。

「何でって、やっぱり別れてほしかった? セリはそう見えなかったから」

「ちがう、いいよ、リノとは別れないで。でも、」

「二人がその……レズってわかっていながら別れないか? 僕もよくわからないんだ。何となく、リノちゃんもセリも、傷つけたくない」

 ケイは本当にそう思ってる。目を見ればわかる。

「リノちゃんもいい娘だし、急いで結論出す必要もないしね」

 そう言って立ち上がる。俺はすわったままケイを見上げる。

 こいつはリノを、好きになりはじめてるのかもしれない。

 リノの事を……?



 鍵を拾った。

 ピアノの鍵のような、古い形のやつだ。

 俺は手の中でそれをもてあそんでいる。ケイはお茶を運んでくる。

「セリは紅茶、好きなんだよね」

 ケイはけっこう家事が好きなんだな。ずいぶん前にケイの部屋に来た時も、自分でエプロンをつけてパスタを作ってくれた。ホワイトソースのかかったチーズラビオリ。

 ケイはお盆からカップを二つおろし、一つを俺の方に見せた。

「こっち?」

 縁に紺色のラインが入ってて、正面に同じ色の小さな星がついた、至ってシンプルな奴だ。すごくかわいい。俺は一目で気に入った。

「うん」

 もうひとつは、クリーム色に茶色で英語が書いてある。へたくそな筆記体だ。午後のお茶の時間。そう書いてある。

「フォートナム&メイスンだよ。ロイヤルブレンド。セリはミルクだよね」

 うん。俺は頷いて、手に持っていた鍵を机に置いた。

「午後のお茶の時間」

「え? ああ、これ?」

 ケイは自分のカップを指さした。ケイのカップはスリムで背が高い。同じデザインのカップがないのは、ケイの趣味なのか、ただ割ってしまったのか。

 でもたぶん、そういう趣味なのだろう。本棚の隣の、食器棚らしき木目のきれいな棚(ガラス戸が着いたアメリカ風の食器棚だろうけど、きれいな装丁の本がほとんどを占めていた)には、色々なデザインのカップが並んでいる。

「はい」

 ケイはミルクピッチャーと砂糖を俺の方に置いた。砂糖はごつごつした石みたいに固まったヤツだ。ミルクだけ入れた紅茶を、この砂糖をかじりながら飲むのが好きなのだ。

 温かい紅茶がうれしい。

 九月は秋の顔をしてまだむし暑い日もあるけど、それでも知らないうちに、涼しくなってくる。初めてケイと会ってから、半年近くたつのだ。

 リノがケイと見合いをしてから、三人で会ったり、セツも入れて夏に四人で花火したこともあるけど、二人だけで会ったのは今日を入れて二回だけだ。いや、タコスを食べに来た帰りも入れると三回。

 俺はケイと会うたびに、リノに秘密を作ってしまう。これはとてもいけない。いけないことだ。リノには全てを話せる人間でいなくては。でなきゃ、俺は何のとりえもなくなってしまう。リノに愛される部分を持たなくては。ケイ以上に。

「何、こわい顔してんの?」

「え?」

「すごい顔してたよ。今」

 ケイは砂糖もミルクも入れてない紅茶を飲みながら言った。喜んだ顔をしてる。何が楽しいんだ。

「俺、ケイの事きらいなんだ」

「はいはい。リノちゃん取っちゃうから?」

「リノはお前なんかに取られないよ」

 俺も自分のカップに口をつける。もうちょっと、ミルクをいれよう。

「それじゃ紅茶味のミルクだよ」

 いいの。俺、こうでもしないと牛乳飲めないんだから。

「好き嫌いが多いなあ、よくそれで毎日ごはん食べてるよね」

 あっ。

「ケイ今、リノが結婚したら、俺どうなるんだろって思っただろ」

 ケイはすまなそうな顔をする。結塘することに対してじゃなくって、そんな事を考えたことに対してだ。

「どうにでもなる。そんな事、心配すんなよ」

 本当は、どうなるかわからない。でもそんな事、言えないし、言う必要もない。

 リノの結婚がリノのためなら、俺は全然だいじょうぶなのだ。

 ただちょっと、心が痛むのは、それは、

 それは、よくわからないけど、きっと何でもないのだ。

「さっきの……話だけど、」

 ケイはカップを見ながら言った。さっきの話。ああ、リノと俺の事か。

「本当に、そのことでリノちゃんを変な風に見たりしないから」

「あたりまえだ」

 あたりまえだ。そう思いながら、ケイがそう思ってくれるのが、つらい気がした。

「僕はただの、カモフラージュなんだね。きっと」

「落ち込んでんの?」

「ちょっとは傷つくよ。結局、僕が必要だったわけじゃないんだ」

「そうじゃないよ」

 ケイの考えは、ちょっと違う。そうじゃなくって、リノはもう少し、何か考えてると思う。

 でも、どうやってケイに説明していいのか、俺にはわからない。

「でもいいんだ、本当に。リノちゃんも、セリも傷つけたくない。これは僕の本当の気持ちだよ」

「うん」

「それに、変な風に見ようと思っても、何か、これも変な言い方なんだけど、想像つかないんだ。二人があんまり自然すぎて」

 変な言い方。変な風っていうのは、同性でセックスするってことだよな。でも毎日そんな事してるわけじゃないし、第一、俺は他人の体温がきらいだから、リノは俺のいやがる事をわざわざしたりしないのだ。セックスなんかしなくても、愛してることに変わりはない。

「俺にはセツもいるしな」

 そういえばそうだ。自分で言うまで忘れてた。

「ねえ、リノちゃんがいるのに、何でセツくんと付き合うの?」

「別に、何となく」

「リノちゃんはどう言ってるの?」

 リノはたぶん、俺がセツと付き合ってることを両親に言ってるはずだ。最初はきっと、そんな意味でセツのことを勧めたんだ。俺は別に、リノがいれば何にもいらないし、ただ映画とか、音楽とかの話ができるヤツだから、何も考えてなかった。そんなもんなんだ。

「うーん、わかんない」

 うまく言葉にできない。リノの事、そんな打算的な言い方するのはいやだ。

「じゃ、セリは男性がイヤってわけじゃないんだ」

 そうか。そう言われてみればそうだな。

「でも、リノみたく愛せない」

 俺はひろってきた鍵を手に取る。古いかぎは手にしっくりとなじんで、見た目より重いところがいい。

「リノちゃんも、男性と付き合ったことある?」

「あるよ。高校の時に」

 クリスマスをすっぽかしたヤツ。俺は年中行事をわりとこなすほうだから、そんな風に嫌われることはない。ハズだ。

「セリと付き合いだしたのは、」

「もっとあと」

 俺が高2の時に夏からヨーロッパに行ってて、帰ってきたらリノが家に入り浸るようになった。その冬休みに、初めてリノとキスをした。

「セリは、リノちゃんとセツくん以外に、付き合った人、いる?」

 ケイは自分のカップを回しながら言った。考えながら、一言ずつ言った。俺の事聞いてどうすんだよ。ちくしょう、ためしてるな。

「いない」

「誰も?」

「いない。リノとセツ以外にいない」

 ふうん、とケイは自分のカップに口をつけた。ケイはそれだけの答えで納得したようだった。

「いないよ。他に大事な人間なんて」

 そうだな、リノとセツと、ケイ以外に友達らしい人間もいない。

 セツがいうように、俺の世界には、この三人しかいないのだ。

 それがせまいのかどうか、俺にはわからない。でも、他の人間は他の人間で、俺は俺なのだ。そう思ってきた。だから俺なのだ。ずっとそうだったから、ずっとそのつもりだった。

 でも、それじゃいけないのだろうか。

 それを変えるのは、俺を変えることだ。でも俺は、変わってしまった自分を、リノに愛してもらえる自信がない。俺は変われないのではなく、変えられないのだ。

 何て小さいんだろう。

 ケイが何か言ったようだった。俺は目を閉じてみた。ケイの手が、頭に降れた。優しくなでる。ケイの手は大きかった。

 俺は、何かを思い出しそうになった。

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