第28話 健斗のことを忘れたのは
その神社をいつ見つけたのかは覚えていない。どこかで遊ぶ途中の道で、山の中腹にある寂れた赤い鳥居がなんとなく印象にあったのだと思う。神社でお参りをすると願いを叶えてくれるのよ、顔を覚えていない母親がそう言ったような気がする。
俺は、その記憶しかない。なぜかその神社に行ってからの記憶がないのだ。
――助けて、ここから、早く――。
誰かが呼んでいる。
助けなきゃと歩き、駆け出した。助けなきゃ。早く早く早く。
「どうしたの悟くん?」
毎日喧嘩を続ける両親がまた仲良くなるため。
神様にお願いことをしよう。そういえばここに神社があったんだ。健斗にそういってついてきてもらった。たぶん、遊んでいる最中だったんだと思う。タンタンタンと石畳の階段を登る。境内まで歩いて来た俺は、どこからか聞こえる声を聞いた。持っていたサッカーボールを地面に落とし、拾ってくれた健斗が追いかけてくる。
健斗はなにが起きたのかも分からずに。
その時の俺には、健斗のことなど目に入っていなかった。声が呼ぶ。自分を呼ぶ。
耳にはその声しか入らず、目にはなにも見えない。
「待って、ねぇ、悟くん!」
服の裾を引っ張られても振り払って、足を止めることができない。
――取り憑かれたかのように。その表現がもっともだったろう。
「悟くん! どうしたのっ、ねぇ、僕の話を聞いて!」
その声に応えることもせず、ただ走る。
健斗は、はぁはぁと息を切らし、ようやく止まった俺を見てホッと安心したように笑った。恐怖に滲んだ顔と安心した顔。綺麗な顔が歪んでいて不安そうな目をしている。
「なにそれ?」
古くなった鳥居の奥。石造の祠の中心にそれはあった。
――声が聞こえるのだ。声が。
「悟くん、それはなに?」
「……助けなきゃ、ここから……ダシテ、あげなくちゃ」
「え?」
俺は石で作られた箱を開けた。
苔に塗れたそれを横にずらす。ズッと重い感触が手にかかる。指がぷちぷちと膨らんだ緑色の苔を潰す。手が汚れることも厭わない。
尖った石が手のひらに刺さって血が滲もうとも。
「助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ」
「悟くん、ねぇ……こわいよ……」
どうしてそうせねばいけないのか。
この声が何者かも分からない。けれど箱の中にいるものが自分に助けを求めている。か弱い声が自分の助けを。だから助ける。それだけだった。
――健斗の声を無視して。
いいやもう、健斗の声が聞こえなかったのだ。
「悟くん! ねぇ、ねぇってば!」
目を開けると真っ黒な部屋にいた。
自分の体がすっぽりと収まるくらいの部屋だ。手を伸ばして天井に手がつく。立つことはできるが座ることができない。
小さな部屋。呼吸が浅い。なにも見えない。
光はなにもない。
「ここ、どこ」
ドンドンと壁を叩く。ザラザラとした石が手に触れる。手が濡れた。ぬるっとした液体が手のひらに流れていく。ただよう鉄錆の匂いと生ぬるい液体が気持ち悪くて必死に拭った。
「ねぇ……どこ、どこ……出して、お願い、ここから出して!」
叩いても叩いても壁はびくともしない。
サッと血の気が引く。真っ暗な暗闇に閉じ込められている。永遠に続く恐怖。お母さんにもお父さんにももう会えないかも。
「出して、出して、お願い、早く出してよぉ!」
半狂乱になりながら壁を叩く。どうして自分がここにいるのかも、どうしてこんな目に遭うのかも分からない。ここがなんなのかさえ。
手足が冷たくなっていく。寒いのではない。息が苦しい。身体が冷えて固まっていくように、段々と足先から身体の芯を脅かされるように。冷たい。冷たい。冷たい。
身体が凍るように冷えていく。
「――……お願い。僕の大切な友達なの、お願いだから返して! 代わりに僕がなんでもするから」
外から声が聞こえる。
泣いた目を擦りながら声を聞く。
「お前の望み、僕が叶えてやるよ。僕の身体でよければ使えば良い! 代わりに悟は返して!」
それは健斗の声だった。くぐもっていてよく聞こえない。けれど確かに健斗の声。健斗はなにを見ているのだろう。外の様子は分からない。ただ、健斗は誰かと話しているのだと分かった。
声が震えている。健斗はあまり自己主張ができないほうだ。弱虫で理不尽な目に遭っても嫌だといえない根性なし。そんな彼が必死で足を踏ん張って見えないなにかと対峙している。
か弱い声を必死に振り絞って。
「僕が、お前の代わりをする。お前の役目を僕が引き受ける。嘘じゃない。嘘じゃない。だから、悟だけは返して! 悟だけは僕から奪い取らないで!」
あぁそうか。本当は俺が生贄になるはずだったんだ。
助けてと叫ぶ声を助けてしまった。それがなんなのかもわからないまま。俺がここに閉じ込められるはずだったんだ。永遠に近い時間を、誘われて開けてしまったパンドラの箱のために償う。俺があの声を無視していれば。そもそも声が聞こえなかったら。
「僕、――いや、悟は俺のヒーローなんだ。俺は悟に助けてもらった。だから今度は俺が絶対に助ける!」
――君が本当に私たちの願いを叶えてくれるの?
――ねぇ本当に?
――嘘じゃない?
――御主人様は叶えてくれると言ったのに。
――ボクたちを生き返らせてはくれないんだ。
――でも、それ以外の願いならなんどでも、って。
――嘘をついたらお前の魂を食いつぶして復讐を。
――役目を放棄して逃げたらお前の大切な人を潰していく。
――本当は彼が良かった。
――ボクらの声をなんでも聞いて、きっと叶えてくれる。
「なに……、えっ」
たくさんの声。漏れ出るように、いや溢れ出すように。
黒い靄が健斗の体にまとわりついて染み込んで消えていく。その小さな体を飲み込んでいく。健斗のしゃがれ声の叫びが耳を刺す。苦しそうな声に耐え切れなくなって耳を塞いだ。数えきれないほどの想いの塊。
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
「いやだいやだいやだっ! 怖い怖い怖いッ!」
――あははっ。
――只人には辛い罰を引き受けるなんてお人好し。
――そんなに大切なの?
「ごめん、健斗」
幼い自分を見下ろすかのような夢。封をして二度と思い返さないように封印した記憶。忘れたかったのか、俺は。健斗を身代わりにした罪を忘れてしまいたかった。
健斗があんなふうになったのは、――俺のせいだった。
俺はたぶん。
健斗のこともすべて忘れたかった。
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