4. 呪いと奇蹟と


「――シアラン王子は、呪われてるって話だ」


 ベルリア王家の呪われた世継ぎの話は、彼が生まれた頃から、広く世に膾炙かいしゃした噂だった。曰く、この世のものとは思われぬみにくい赤子として生まれてきた。曰く、母である王妃は、おのはらから生まれたものの、そのあまりの醜さに耐え切れず、衝撃で命を落としたと。二目と見られぬその姿を見た者は正気を失い、あるいは想像もしない不幸に見舞われる。ついに父王は、忌まわしい息子を人目に付かぬよう、王宮の奥へ幽閉したと……。


「なんだそれ。まるで怪談だな」


「よそ者はそう言うさ。だがな、実際、この二十年かそこら、シアラン王子の姿を見た者はほとんどいないって言うぜ。何かあるには違いねえよ」


 うそ寒そうに肩を竦め、男はもうこれきりだとばかりに口を閉ざした。青年はなおもいぶかしげな様子で何か言いかけたが、男が乗り気でないのに気付いたか、話の向きを変える。


「まあ、王子のことはわかったけど。でもこの様子じゃ、他の誰なら丸く収まるってことでもないみたいだな。傭兵まで雇って争おうってんなら」


「どこの領主どもも、今は血眼さ。いち早く勝ち馬に乗りてえからな」


 すでに王国南部のエルトワ公と、北東のモーブル伯は、シアラン王子の王位継承は認められないと宣言した。どちらも、祖を辿れば王家に連なる大貴族で、血筋の上では玉座を主張できる。彼らはそれぞれ味方を得るべく、国内の領主たちに呼びかけており、十分な兵力が集まれば、王都への進軍も辞さないだろう。傭兵たちにとっても絶好の稼ぎ場になる。


「王都へでもどこへでも、さっさと行っちまってほしいもんだ。あいつらがうろうろしてる間に、こっちは飢え死にしちまう」


 だがとりあえず、町の物乞いの男にとっては、王国の行方などより、今日明日の稼ぎの方がよほど重要だ。まあ、しばらくのところは、この青年の寄越した金でやっていけそうだが。


 油断なく周囲を警戒しながら、男は改めて、抱え込んでいた袋の中身をまさぐった。間違いない、確かな貨幣の感触……と同時に、何やら別の手触りもする。


「おう、なんだいこりゃあ……」


 引きずり出したそれを、男は日の光にさらした。彼には馴染みのない、つるりとした頼りない感触は、上等の紙だ。折り目正しい封筒を、深紅の蝋で封じている。


 ぼやけた視界の中で、その印章に気付いたとき、男は密かに息を呑んだ。


「…………」


 わずかな躊躇の後、男は急いでそれを握りつぶそうと決意した。無言で手に力をこめる。


「おっと」


 だがそれより一瞬早く、背後の青年がそれを止める。さすがスリの本分とでも言うべきか、次の瞬間には、封筒は青年の手に渡っていたが、男はそれを惜しいとは思わなかった。


「止めとけ、坊主、下手に触るんじゃねえ。とっとと燃やすか、ちぎって捨てるか、とにかく跡形もなく消した方がいい」


「これが何か知ってるのか?」


「知らんが、その封蝋の印は知っとる。ロードリー伯の……この辺り一帯の領主の家紋さ」


「領主? ってことは、さっきの連中は、ここの領主に雇われてるってことなのか」


「ああ、知らん知らん。俺は何にも知りたくねえ。悪いことは言わん、おまえもそんな危ねえもんは捨てちまえ」


 だが、青年は素知らぬ顔で、封書を眺めまわしている。長い指で、無造作に何度か表裏を返した後、封を破らないまま、そっと自分の荷物に滑り込ませた。


「そんな風に言うってことは、あまり評判のよくないお大尽なのか、そのロードリー伯ってのは」


「特段そういうわけじゃねえが……貴族なんて連中にかかわって、いいことはねえからよ」


「この辺りの領主ってことは、あの修道院も、ロードリー伯の普請か」


 あっちの、と青年の指し示す方角を見て、男はすぐにその意を察した。といっても、そもそもこの辺りで『修道院』と言われれば、意味する場所は一つしかない。文字通りの修道院はいくつかあるが、特別なものは一つだけだ。


「何だ、罰当たりのスリの坊主は、次の稼ぎ場を探してるってわけか。そうとも、あそこがリドワース修道院――『奇蹟』の起こる聖地だ」


 その創建は五十年ほど前にさかのぼるというが、リドワース修道院に『奇蹟』めいたことが起きると噂になったのは、ここ数年のことだ。見たこともないような美しい薔薇が突如として咲き、荒れ狂う洪水も流れを変えて、修道院の敷地だけは避けたという。長く病み、もはや治る見込みはないと思われた者が、修道院の聖堂にもうでた途端に癒えたという例も、一つや二つではない。噂は口伝えに広がって、今では遠方からも巡礼する者が後を絶たない。


「もうちっとすりゃ、年に一度の祝祭がはじまる。巡礼が大勢来るし、門前には市が立って、皆、財布の紐が緩みがちなもんだ。おまえの仕事を邪魔するつもりはないがな、坊主、連中が俺に稼がせてくれる分は残しとけよ」


「奇蹟ね。あんたは信じてるのか? 実際に見たことは?」


「花は咲いてるね。水が入らなかったのも本当だ――ちょうど上流の瀬で、土砂崩れが起きたんだ。水の流れが変わっちまって、修道院は無事だったが、他の畑やら牧場やらは、ひどいことになったもんだ。病気が治って帰っていった奴も、何人か見たよ。だが……俺は行くたびに、あそこの聖堂で、どうか金貨を降らせてくださいって欠かさず祈ってるんだが、降ってきたことはまだねえな」


 だが、それは彼が奇蹟を信じていないということではない。もしかしたらこの先、そういうことも起きないとは限らないのだ。飯の種である以上、断然奇蹟を支持すると男が言うと、青年は笑った。


「あんたに主のお恵みを。まあ、俺が言っても、ほぼ効果ないんだけど。――じゃ、そろそろ行くか」


 青年は狭い通路に立ち上がると、軽く伸びをする。そのまま、無頓着な足取りでひょいと通りへ出たものだから、男はぎょっとして声を上げた。


「おい、あいつらに見つかったらどうするんだ。まだその辺でうろうろしてるぞ」


「構やしねえよ。連中だって、手を出していい奴と悪い奴と、見分けるくらいの分別はあるだろうさ」


 言いながら、青年は荷物に手を突っ込んだ。引っ張り出した上着を、しわか埃を払うように無造作に振るのを、男は呆気に取られて見つめてしまう。


 何の変哲もない黒の長衣だが、それが何なのかを知らない者は、この大陸にいない。立ち襟と、両袖の折り返しにのみついている浮文様の装飾は、波紋――天地を統べる福音の絶対神スワドの象徴だ。


「法衣って……坊主、おまえ」


 青年は金の鎖を首にかける。胸元にかかるのは聖印――三重円を十字が貫くその形は、過去、現在、未来を貫く神の法を表す、福音教会の位階の証だ。癖のない金の髪を、さっと撫でて結い直すと、青年は男を振り返り、唇の端を上げて笑った。


「あんた、さっきから言ってるじゃないか、俺のことを坊主だって。――もちろん、そうだとも。見ての通り、敬虔なる信仰の徒、我が主の忠順たるしもべさ」




 それから半刻後、ベルリア王国ロードリー伯領、リドワース修道院の門前に、一人の訪問者が現れる。


 聖職者の法衣を完璧に身につけた、若く美しい青年は、目を丸くして自分を見つめる門衛に、預言書に伝わる天使のような輝く笑顔を向けて告げたのだった。


「我が信仰の兄弟よ、唯一不変の主のお導きがあらんことを。――スハイラス教皇庁特任司祭、ミカ・エトワ・ジェレストと申します。リドワース修道院のアルヴァン院長に、お目通りをお願いいただけますか」











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