第32話 新たな理想像

 ユズナは顔をバシャバシャ洗っている。その背後から見下ろしている水本絵梨花。その表情から笑顔は消えている。


 ――数日前にさかのぼる。


 学校から帰宅中のユウタはコンビニでラテとパンを購入した。自動ドアが開いて、歩道を歩き出した瞬間、背後を振り返る。

「今日はいないのか」

 すーっと息を吸って、ため息をつく。


          *


 帰宅後、ユウタは水槽すいそうと向かい合っていた。

「餌やり、ありがとうね」

 母親から声をかけられたが、ただ「うん」と相槌あいずちを返すだけだ。


 水槽のガラスは半透過して、ユウタの浮かない表情を浮かび上がらせている。メダカを観察していると、ゆっくりと落ちるえさを食べるのに必死なメダカや、追うメダカと追われるメダカがいることに気がつく。この逃げ場のない世界で追われ続けるのはどんな気持ちなのだろう。

(嫌な気持ちのはずだ……なのにおれは)


 ユウタは葛藤かっとうを抱いている。今の自分は水本絵梨花に追われる日々を送っている。以前は恐怖しかなかったが、今は彼女をどこかで待っている自分がいる気がする。


(これが彼女の策略なのだろう)


 完璧な理想の女性であるがゆえに、心が揺さぶられ、自分が自分ではなくなっていく。てのひらに乗せられて、転がされて、変わっていくのが嫌だ。夢のように感じていた推し活の日々は、実は彼女によって飼育されていたのだ。


(このままでは身も心も奪われる)


          *


 その晩、ユウタは珍しくパソコンの作業をしていた。


『理想アイドル解体新書』


 隠しフォルダから起動して浮かび上がるタイトル。

「これを再び、見ることになるとはな」

(恐らく水本絵梨花はこれを手に入れて模倣した)


 ビジュアルから性格などの設定、ストーリーに至るまで全ての項目が水本絵梨花と一致していく。同時に、沼崎恵梨香から水本絵梨花に変わるまでの過程を想像すると畏怖いふを覚えながらも感心する。


「大したもんだよ、全く」

 そのPDFファイルを眺めていた彼は、新規ファイルを作成している。そこに入力されたのは「理想アイドル解体新書 NEXT」の文字。


(推し活をやめることはできない。だが、推しの対象を変えることはできるかもしれない)

「本来ならやりたくないさ」

(仮に新たな理想のアイドルが生まれても現実には存在しない)

「……意味がないと言うのならその通りだ」

 カチャカチャとキーボードを打ち込んでいく。


 目を閉じてイメージを浮かべる。

「今、おれは無の中にいる」

 宇宙空間のような黒い場所に一人だけだ。寂しい。悲しい。

「ここからだ」

 どこからか足音が聞こえる。誰だ?

「私よ」

 現れたのは水本絵梨花だ。

「くそっ」

 目を閉じたまま、もう一度無に戻る。

「今度はどうだ」

 足音がまた聞こえる。その方向に振り返る。

「愛してるわ」

 またも、笑顔の水本絵梨花。

「ダメだ」

 あまりにも意識の中に彼女が強く残っている。

 待つんじゃない。自分から動く。

(動く? どこに、誰がいる)

 声が聞こえた気がした。


「ずっと、近くにいるよ」


 足元に草が生えていく。それらは草原となり、湖が生まれ、光り輝く太陽が照り返す。真っ白な光にユウタは手をかざした。暗闇がみるみる消えていく。


「これから君に会いにいく」


 目が開いてキーボードを打ち始めた。イメージが具現化ぐげんかされていく。概念が分岐して蜘蛛くもの糸のように張り巡らされていく。さらにモデリングソフトによって超高速で3Dモデルが造形されていく。ユウタの手の動きは止まらない。最後の仕上げとして作曲ソフトで彼はBGMまで作り始めた。


 ――完成した……。もう一人の理想像。


 テーマソングが鳴り響く中で、キャラクターモデルは生命を宿らせたように溌剌はつらつと踊っている。ショートの青色の髪型は新世代を感じさせる。


 その姿を見てユウタはつぶやいた。

「ユズナに似ているな」


 ずっと側にいて、近過ぎて気が付かなかった。

 誰よりも大事な存在であるのと同時に、昔から一緒にいて恋愛感情を意識したことはなかった人。


 全てを見ていたのは水本絵梨花だ。

 家の近くに駐車しているセダンの車内は雨音が鳴り響いている。タブレットの画面はユウタの顔と3Dモデルが拡大されている。

 高鳴る心臓の音。

 背後からリリは身を乗り出して耳元でささやく。

「最強のライバル出現ね」

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