死神《ジョーカー》だったわたくしへ

たいらひろし

第一章 死神トゥース

第1話 死神トゥース

──あ、ありがとうございます! オレの言葉を信じてくれて。

──いいからさっさといってこいよ、荷物持ち。いずれにせよ、門番してるあのデカ犬は避けて通れねぇし、ここでドンパチやれば砦内の死神にも気づかれるだろうからな。だったら忍び足が得意なおまえがひとりで砦内部に侵入して、死神と話をつけるという話に賭けるのが、いまんとこ最善ってだけだろ。

──大丈夫ですよ、荷物持ちさん。ちゃんとあなたの骨は拾ってあげますから♥

──姐さん、ひどっ! ……ま、オレっちの作戦に間違いはないから大丈夫っすよ。戦わずして死神に勝つ、それができりゃ万々歳っしょ?

──……オレさまは納得いかん。納得いくはずないだろう。死神のこれまでの所業を考えてみろ。この少年が死神をサシで説得? お手々つないで仲良しこよしで大団円? そんなのあってたまるか。

──ま、ま、ま。剣士の旦那、ここはひとつオレっちに免じて穏便に……うまくいかなくっても、このいいだしっぺの荷物持ちが死ぬだけですし、ね? ダメで元々ってことで。

──……気に入らないな。貴様たちは、この少年が無力な存在だからと下に見ている。たしかに彼は我々と違い、死神討伐隊として正式に選ばれたわけではなく、荷物持ちとして名乗りを上げてくれたただの市民だ。だから、使い捨てのようにその生命を扱うのか?

──あ? なんだ剣士、おまえケンカ売ってんの?

──はぁい、ストップ、ストォォップ! 魔術士さんも、剣士さんも、ここで仲間割れしてどうするんですかぁ。ほら荷物持ちさん、早くいってらっしゃい! 死神にお土産を渡したら、ちゃんとわたしたちに知らせるんですよぉ♥

──わかりました、なるべくすぐに戻ります! みなさんも、その怪物に負けたりしないでくださいね!


 遠く離れた砦の門外からわずかにきこえてくるそんな言葉の応酬を、耳のいい死神トゥースはすべて把握していた。食卓の椅子についたまま、死神は小さくため息をつく。せめてテーブルのうえの豆料理を食べ終えるまで待ってもらいたいのだが、こちらへ駆け寄ってくるひとりの足音の速度から推察するに、それは期待できそうになかった。

 その部屋は石造りの床と壁に囲まれた広めの食堂だった。室内には死神が座るテーブルや椅子などのほか、古めかしい甲冑や剣などが壁際に整然と並べられている。天井にはめ込まれた鉄格子から射しこむ陽光のほか、燭台のうえで黄色い炎が揺れている。おそらく油か蝋を使っているのだろうその頼りない明かりが、この部屋が持つ独特の陰鬱な雰囲気を際立たせていた。部屋に入って正面奥にある巨大な暖炉には大きな釜が吊され、赤々とした炎を瞬かせている。釜の中身は豆スープらしい。

 世間から死神と呼ばれている女性は、その暖炉のまえに据えられている椅子に腰を掛けていた。外見年齢は40代半ばほどだろうか。顔立ちはそれなりに整っており、美しいといえる部類に分けられるのだろうが、それを帳消しにするくらい彼女のほほは痩け、目元は落ちくぼんでいる。身体も貧相なもので、彼女が纏っているぼろ布のようなローブでは隠しきれないほど痩せぎすな体格だった。また身につけている衣類のうち下着と思われるものはひとつもなく、彼女はその細い両脚をすべて晒している。あまりに頼りなく肉のない細すぎる太腿のあちこちに、刃物による古傷らしき痕跡が残っている。肌の色艶はひどく悪く、背中は曲がり、腰まで伸びた白髪はボサボサで手入れされておらず、なるほど、これはたしかに死神だと一見した人間に印象を抱かせるだろう。そんな彼女の表情には、どこか達観したような気配がまとわりついている。

 死神トゥースはテーブルの皿に注がれている豆のスープを口に運びながら、近づいてくる足音の主はどんな人間だろうと思いを馳せる。半年前にこの砦を活動の拠点にしてからというもの、今日までに勇者を名乗る集団が5回も彼女を襲撃してきた。そのすべてをトゥースは容赦なく皆殺しにしてきたのだが、戦いのたびに彼女の胸中には皮肉めいた感情が渦巻くのだった。


        ──ああ、なんてバカな連中でしょう。わたくしを殺せば、あなたたちもまとめて死んでしまうというのに。あなたも、あなたの大切なひとも、なんの関係もない大勢のひとも、みんなみんな。


 足音を殺して近づいてきていた気配が、食堂の扉の前で止まった。

 ああ、また始まるのか、とトゥースは少しうんざりした心境になった。せめてこの食堂を血や内臓で汚さないようにして勝たないとあとで掃除が面倒だし、死体を放置して蟲が湧くと衛生的にもよくない。だとしたら、この侵入者には屋外で自殺してもらうほうがいいかしら、と思ったりもする。

 と、食堂にノックの音が響いた。若い男性の声。

「あのっ、すみません! こちらに死神さんはいらっしゃいますかっ」

 は? と呆気に取られるトゥース。これまで彼女に殺しあいを挑んできた侵入者は、たいていこの扉を蹴破ってくるか、少なくともなんの断りもなしに入ってきたのだが、扉の向こうにいる人物は、なぜ不意打ちという好機を捨ててまでターゲットの在否など確認しているのか。

「……はぁ、おりますが」

「よかった! あの、入っても構いませんかっ?」

「…………。どうぞお入りください。扉は開いていますよ」

「はいっ失礼します」

 やたらと快活な声とともに扉を開き、食堂の冷たい空気に暖かな風を吹き込ませながら現れたのは、10代後半くらいの青年であった。栗色の髪と瞳を持つ、歪みやアンバランスさはないけれどハンサムというわけでもない目立たない顔立ちの男性で、ワルダー国民の平均よりやや背丈が高いほうのようだ。着用しているものといえばリネン製のチュニック一枚、下は木綿らしきズボンと、革製の靴を履いただけの平民そのものといった姿だ。一見したところ、腰にも背中にも、袖にすらも武器らしきものを携えておらず、緊張しているのかその両手を強く握りしめたままトゥースをじっと見つめている。背中にはかなり大きなバッグを背負っている。さきほどの連中の会話によると、どうやら彼はチーム内で荷物持ちを担当しているらしい。このなかにチームメイト全員のキャンプなどを賄えるだけの道具一式が入っているのだろうか。

 見たところなんの戦闘力もない青年は、砦の主の姿をみとめるなり、すぐさまにその場で片膝をつき、頭を垂れた。人間の王と対面したかのような態度を、青年は死神と呼ばれる女に向けてとったのである。

 空色の瞳を細めるトゥースに向かって、青年はうわずった声を発した。

「あ、あの、お久しぶりです! オレ、イスキっていいます。ずっとあなたに会いたくて、でもひとりじゃここまでこれなかったんで、討伐隊のひとたちに無理をいって荷物持ちとして仲間に加えてもらって、ここまできましたっ」

「はぁ……え、久しぶり? あなたとどこかでお会いしたことがありましたでしょうか……」

「はい。あ、あのときはまだ小さなガキだったから、わからないかもですね。オレがまだ8歳のころだったから、10年前か。あなたはそのころ、ゼンリョー王国のとある教会を訪れたことがあるはずです。孤児院も兼ねているホープスター教会という小さな建物なんですけど、覚えてませんか」

「……ええっと」

「教会の入り口を破壊したワイバーンを、あなたはあっけなく倒してみせた。あの怪物に食われるはずだったオレたちの生命を、あなたは救ってくれたんだ。ブルっちまってたオレは、なにもいわずに立ち去ったあなたに礼のひとつもいえなかった……だから、どうしても一言、生命の恩人であるあなたに、あのときはありがとうっていいたかったんだ」

「……ああ、思い出しました。たしかにそんなことがありましたっけ。食べられそうな野草か動物を探して野原をうろついていたとき、子供の悲鳴がきこえたから……」

 たしか春だった。10年前といえば彼女は根無し草として世界のあちこちを放浪していた。腹をすかせていたトゥースがスズメノエンドウやルッコラショなどの食べられそうな草を探していると、重い物体を破壊する音とともに子供たちの絶叫がきこえてきたのだ。見ると、二階建ての家ほどの体格を持つ、緑色の鱗で全身を覆った爬虫類型の魔物が、三角屋根の漆喰の建物の扉をぶち破っているところだった。子供たちの悲鳴は教会内部から響いていた。状況は一目瞭然だった。狭い入り口から身体をよじって建物内に侵入し、子供たちを食い殺そうとしていたワイバーンの背後から、トゥースは《動くな。心臓を止めろ》と命じたのである。ただそれだけで、魔物は微動だにしなくなり、そのまま絶命したのであった。全身を震わせて子供たちを抱きしめている修道女に一瞥をくれたあとトゥースは、なにもしないでその場を立ち去ったのだった。

 白髪をかきあげてほほに右手を添えるトゥースにはお構いなしに、イスキと名乗った青年は彼女と出会えたことがよほど嬉しいのか、洪水のごとく喋りまくる。

「オレ、そのときわかったんですよ。あなたは死神なんていわれて世界中から怖がられてるけど、本当は優しいひとなんだって。でなきゃ、あの場面で子供だったオレたちを助けたりなんかしないはずだ」

 なにをいってるんだこいつ、という眼差しをイスキへ向けるトゥース。ああ、こんなおしゃべりにつきあっていたら、せっかくのスープが冷めてしまう……。

「……あの、食事をしながらでもかまわないでしょうか。今日はまだ、なにも食べていなくて」

「ああっすみません! オレ、ホントこういうことに気が利かなくて。どうぞ、オレのことはかまわずに、じゃんじゃん食べてくださいっ」

「……ふう。よろしければ、あなたもご一緒なさいますか? 豆のスープしかありませんが。客人を差し置いてひとりで食べるのもバツが悪いですし」

「いいんですか!? ぜひ!」

 毒気を抜かれるというのはこういうことか、とトゥースは心のなかで嘆息した。

 幸い、食堂の戸棚には予備の食器やスプーンがいくらでもある。トゥースはそのなかからなるべくホコリを被っていないものを選び、まだ湯気の立っている釜からスープを注いでテーブルのうえに乗せてやった。

 若者は、なんの躊躇もなく不安そうな様子もなく、スプーンを手に取るなり一口すすってみせた。もしかしてこっそり毒を入れられたかも、などと疑いもしないのだろうか。

「すげえ美味しいです。この細い蔓や豆はスズメノエンドウと、中麦ですか? それと……なにが入ってるんだろう、とろけるみたいに甘いけど、飲みやすいな」

「ハチミツです……美味しいといただけて嬉しいです。奴隷だったころから得意な料理のひとつなんですよ。ところであなた、討伐隊に入隊させてもらってここまできたとおっしゃっていましたよね。どうして討伐隊などというものが組織されたのか、ご存知ですよね」

「えっ……あ、ええ。一応は。っていうか、奴隷……?」

「わたくしは20年近く、世界のあちこちで、主にワルダー帝国の人々を殺して回りました。村をひとつ焼いたこともありますし、とある街の人口を半分にしたこともあります。この砦だってワルダー帝国の領土の一部だったものをわたくしが略奪したのです。そんなわたくしを抹殺すべく、ワルダー帝国が正式に組織したのが死神討伐隊……でしたかしら? 何度目かの襲撃で勇者を名乗る男性がそう語ってくれました。もっとも、彼はわたくしを騙し討ちしようとしたので、土に還っていただきましたが」

 豆のスープを飲み干した若者は、どこか楽しそうな口調で語る女性に問いただした。

「……本当なのか。あなたが、あちこちでひとを殺して回ってるって」

「ええ。有名な話でしょう?」

「ど、どうして、そんなことをするんだよ。なんか、理由でもあるんだろ。あなたが本当に死神だってんなら、どうして子供だったオレたちや、修道女は殺さなかったんだ」

 自然と敬語が消え失せているイスキの口調にも動揺を見せず、死神は訥々と応える。

「どうして、といわれましても……彼らから気持ち悪さを感じなかった、からかしら。わたくしね、この瞳で見据えた人物の心の色を覗き込む力を持っていますの。その人物に対して色という形で『美しい』とか『気持ち悪い』などの印象を直感的に受けるのです。わたくし、なるべく美しいものを手に掛けたくはないんです。あなたは小枝に止まってきれいな歌をさえずる小鳥を好んで殺そうとは思わないでしょう? けれど一方で、汚泥にまみれた死肉ネズミを見かけたら気分が悪いから始末しますわよね。それとおなじですわ。わたくしは、探しもののついでに、気持ち悪いと感じた人間を殺しているだけなのです」

「……探しものって?」

「ききたいですか? ふふふ、ありがとうございます、わたくしにそこまで興味を持っていただけてとても嬉しいですわ。では、お教えしましょう。どこからお話したものかしら……そう、一番最初の記憶からね。わたくしが母親からかけてもらった最初の言葉は『おまえなんか生まれてこなければよかった』でしたわ。わたくしの母親は奴隷で、その娘であるわたくしも生まれてから15歳くらいまでずっと奴隷として過ごしてきました。あなたはわたくしが敬語だけを使うことを不思議に思っていらっしゃるようですが、これは奴隷時代のクセなのです。『おまえよりも下の生き物など存在しないからだれに対しても敬語を使え』と厳命されてきましたので」

 傷だらけの過去を語る彼女の声音には、どことなく楽しげな気配が滲んでいた。

 死神は語った。主人の気まぐれで殴られ、蹴られ、唾を吐かれたこと。汚物を頭にかけられたり、指を折られたりもしたこと。「笑顔がたらない」と言いがかりをつけられ水を張った桶に頭を押し込まれたこと。食事は残飯に薄い塩スープをかけたものばかりで、家畜の餌用の干からびたクズ野菜を食べて生き延びていたこと。寒さを凌ぐ毛布や衣類もなく、裸同然の姿で馬小屋を寝床にしていたこと。右肩には奴隷ナンバーの『023』という焼きごての数字がまだ残っていること。彼女が初潮を迎え、女性らしい体つきになってからが本当の地獄であったこと。戯れで犬の相手をさせられ「おまえには似合いの相手だな」と主人から嘲笑されたこと。「これ以上の奴隷ゴミは必要ないから」と主人の恋人から散々に腹を蹴られ、子供を産めない身体にされたこと。「おまえには飽きた」と所有権を手放され、オオガミ狩りの生き餌として使用されるために魔獣の森へと向かわされたこと。奴隷輸送用の馬車が崖から落ちて自分以外の人間が即死し、自分も瀕死の重傷を負ったこと。たまたま通りがかったハニィ・スカイハイツという伝説の魔女の娘に生命を救われ、そのまま魔女に弟子入りしたこと。どうしても奴隷主人たちに対する憎悪を抑えきれずに故郷の街を半壊させ、魔女から破門を申し渡されたこと。ひとりで世界をさまよい、気持ち悪いと感じる人間を踏み潰していくうちに、いつしか死神と呼ばれる存在になっていたこと。

「わたくしの探しものとは、奴隷時代の主です。主の妻にはすでに復讐を済ませましたが、あの男は戦場を転々としているらしく、居所の情報を掴んだときにはいつも雲隠れされていて……本当はわたくし自身の手で八つ裂きにするなり、散々に苦しめてから自害させるなりしてやりたいのですけれどね。とうとう、今日まで見つけることができませんでした。まあ、あの街の連中にも手をくだせただけ、少しは溜飲が下がりましたけれどね。ほんの少し手を伸ばせばわたくしを救えたはずなのに、つまらなさそうな視線を向けるだけでわたくしを空気みたいに無視したり、主と一緒にわたくしを嘲笑ったあいつらを。誰も彼もヘドロみたいな心の色をしていて……」

 死神と呼ばれる女性は、さきほどからイスキが顔をうつむかせて嗚咽を噛み殺していることに気づいていた。彼は骨折しそうなほど拳を握りしめて、頬に透明な雫を伝わらせて「ひどい……あんまりだ」と呻いていた。トゥースはそれを馬鹿にすることもなく静かに見守っていた。

 イスキは自分のほほを軽く叩くと、死神の空色の瞳を正面から見据えた。

「……すみません、無様な顔を見せてしまって。そうか、どうしてあなたに対してあんな印象を抱いたのか、わかった気がする」

「?」

「オレたちをワイバーンから救ってくれたあのとき、あなたはオレたちを静かに見下ろして、顔をくしゃっと歪めて『どうしてわたくしは……』って呟いたんだ。それが、オレにはあなたが『助けてくれ』っていっているように見えたんです。あのときは理由がわかんなかったんですけど、いまなら……覚えていませんか」


     ──どうしてわたくしは……。

     ──どうしてあなたたちは……。


「…………。ふ、ふふふ。助けてくれ、ですか。面白いことをおっしゃるのですね、こんな殺人鬼相手に。それであなたは、わたくしをどうなさりたいのですか。わたくしとしましては、あなたにここに長居していただきたくないのですけれど」

「ど、どうしたいって……オレはただ、あなたをほっとけないって思ってここへきただけで……」

「わたくしは、もう人間として長くいられませんの。ひとを呪い続けてきた代償で、この身体はまもなく醜い魔物に変貌してしまうのです。それこそ、たとえ聖女であっても解呪できないほどの根深い穢れがわたくしに染みついているのですよ。もって、せいぜいあと100日くらいかしらね。ひとと会話することもできない、強すぎる生命力のせいで死ぬこともできない巨大なイモムシになった姿をあなたに見られたくありませんし、そんなわたくしをあなたも見たくはないでしょう? ……でももう、そんな終わりもいいかなと思っていたところでした。ターゲットは見つかりませんし、いくら潰してもあとからあとから湧いて出てくる気持ち悪いひとたちを殺して回るのにも、いいかげん疲れてしまっていたので」

 イスキは愕然とし、椅子から腰をあげた。テーブルのうえの食器が硬い音を立てて揺れる。

「な、なんだよそれ……なんだよそれッ! ウソだ! そんなのイヤだ! なんとかならないんですかッ」

「イヤだといわれましても……といいますか、どうしてそこまでわたくしに固執なさるのですか。たしかにわたくしはあなたの生命を救ったかもしれませんが、だからといって、わざわざここまで礼をいいにいらっしゃるなんて、なにを考えていらっしゃるのか」

「なんでって……はっきりいわなくちゃわからないか。オレは、あなたに惹かれてるんだ。教会であなたに助けてもらってから、あのときのあなたのくしゃくしゃの顔を、泣き出しそうな瞳を見てから今日まで、ずっとあなたのことしか考えられなかった。寝ても覚めてもあなたのことばかりで……ああ、頭がおかしいって思うでしょ? オレだってそう思うさ。でもどうしようもないんだ。こんなにも弱々しく見えるのに本当は信じられないくらい強くて、なのにいまにも壊れそうな脆さを感じさせて……くそ、ずっとあなたに会える日を楽しみにしていたのに、いざとなると気の利いた言葉のひとつもでてきやしない。あなたをただただ探していたんだ。なにしろあなたは神出鬼没でつい最近までこの大陸のひとつ所に定住していないんだから。ここ最近になって根城と判明したこの砦もワルダー帝国の領地だから、ワルダー国の第12次魔王討伐隊に荷物持ちとして志願してようやく潜り込めたくらいなんだ。ずっとずっと、オレはあなたに礼をいいたくて……ただ、あなたに会いたくて」

 勢い込んで語るイスキの声が、最後のほうは尻すぼみになっていく。押し黙ったまま彼の言葉に耳を傾けているトゥースに遠慮したのだろうか。

 白髪の女性は、なにか懐かしいものでも眺めるかのように瞳を細めてから、

「買いかぶりですよ。わたくしはただの元奴隷で、大量殺人鬼で、死神と呼ばれるおぞましい存在です。けれど……嬉しく思います」

 ひと呼吸おき、

「話を戻しますね。そう、イモムシになるという話……怪物にメタモルフォーゼする前に生命を落とせば、わたくしは人間として死ぬことはできます。イモムシとして半永久的に生き永らえるよりは遥かに楽で幸せな結末でしょうね。わたくし自身もそうすべきか、ついさっきまで迷っていたのですよ。けれど、その選択肢は、たったいまなくなりました」

「…………どういう、ことです」

「あなたに死んでいただきたくないからです。わたくしが死ぬと、あなたも死んでしまうから。あなただけではありません、計算ではこの大陸の五割ほどの人間が、苦しみぬいてから生命を落とします。それを防ぐためには、わたくしが死んではならないんです」

 そういうとトゥースは自らの胸元に手を当てた。

「わたくしはかつて、自分自身に『疫病風』という呪術を施しました。疫病風とは、解き放たれると無差別にすべての人類に感染していく、致死性の高い呪術性の疫病です。この呪いはわたくしの死を引き金にして発動します。呪いの有効距離はワルダー帝国の首都にまで届きます。あとは次々と、ひとからひとへ感染っていき、体力のあるもの、この呪術に先天的な耐性のあるもの以外は死に絶えていくでしょう」

「なっ……んで、そんなものを」

「なにもかも、どうでもよかったからです。わたくしは、この世界が大嫌いなんです。どいつもこいつも死んでしまえばいいと願い、せっかくならずっとわたくしを傷つけ、迫害してきたこの世界の人々を道連れにして死んでやろうと思っただけですよ。けれど、そろそろ終わりが近づいているこの土壇場になって、『本当にそれでいいのか?』と顧みるようになって……今日だって、生きるべきか死ぬべきか、ずっと悩んでいて」

 イスキがこぶしで机を叩いて声を荒げる。

「冗談やめてくれよ! あなたはそんなひとじゃないッ、誰も彼も死んでしまうような呪術を使うなんて……」

「申しましたでしょう、買いかぶりだと。わたくしはただの殺人鬼ですよ……そうですね、ではもうひとつ、昔の話をしましょう。わたくし、妊婦を殺害したことがあるんです。おなかに子供がいるから助けてほしい、という懇願に耳を貸さず、わたくしは彼女の頭を握り潰しました。胎児はしばらく死体のおなかのなかで生きていましたが、しばらくしたら静かになりましたよ」

 イスキが歯をむき出しにして椅子から立ち上がった。白い息が彼の口から溢れ、透明な雫がほほを伝っている。のどの奥から抑えようのない呻き声を漏らす若者とは対照的に、痩せこけた死神は泣いているような奇妙な微笑を浮かべて若い青年を静かに見上げていた。

「おわかりいただけましたか。わたくしは、あなたが構うほどの勝ちもない、ただのイカれた女なのです。ですから、早く家へお帰りになったほうがいいです。故郷はゼンリョー王国でしたよね。そこまで離れているのであれば、もしわたくしが死んで『疫病風』が発動したとしても届かないかもしれません……もっとも、わたくしはもう死ぬつもりはありませんけれどね。万一、そんなことになったときは、わたくしの師匠であるハニィ・スカイハイツという魔女を頼ってください。錬金術のプロですので、治療薬も作っていただけるはずです」

「……なんなんだよ、あなたは。またその顔だ。オレを助けてくれたときとおなじ表情を……」

「…………。そろそろ一時間が経ちますね。あなたの仲間たちは、一時間が経過したらここへ踏み込んでくるのでしょう? あなたがたの会話はきこえていましたよ。みなさんにお伝えください。あと100日もすれば死神は勝手に穢れに蝕まれて、なにもできない無力な不老不死のイモムシになると。それと、わたくしを殺したらいけないということを。最後に……わたくしの名前はトゥースと申します。イスキさま、覚えておいていただけたら嬉しいです」

 暖炉の弱々しく揺らめく炎が、うつむいて歯を食いしばる無力なイスキの輪郭を影絵のごとく切り取って、石造りの壁に投影している。震える指を膝に食い込ませ、イスキはふいに脳裏に浮かんだ疑問を口に出した。

「なあ、ハニィ・スカイハイツだっけ。あなたの師匠なら、その身体の穢れも……」

「それは許されません。わたくしは彼女から破門された身ですし、もうどうにもなりませんから。できれば彼女には一言、迷惑をかけてしまったことを謝りたかったのですけれど……さあ、いってください。もうここへきてはいけませんよ」

 これ以上、仲間を待たせると事態がややこしくなると思ったのかもしれない。イスキは後ろ髪を引かれるような面持ちで立ち上がりつつ、ふとこういった。

「そうだ、仲間たちからトゥースさん宛にお土産を預かっていたんだ。このバッグのなかに……」

 イスキはかなり大きめの革製バックパックを肩から降ろすと、紐を解こうとした。そのとき、ふと鼻をヒクつかせたトゥースが眉を吊り上げて口を開いた。


《荷物を廊下へ投げろ、ドアを閉めろッかがめッ》


 憧れの女性の唐突な怒鳴り声に驚愕の表情を浮かべるイスキの筋肉が勝手にその命令に従った。彼は両脚で力強く床を踏みしめるなり両腕をぶん回してバックパックを通路へと投げ捨てると、即座に重い石製の扉をスライドさせた。

 地響きを立てて扉が閉じられたのと、「ちょ、え、身体が勝手に」とイスキが唖然とつぶやくのと、通路から耳をつんざく爆音が鳴り響き、重い扉が爆圧によって半壊して食堂側へ勢いよく弾け飛ぶのが同時に起こった。粉塵が巻き上がり、きな臭い空気が食堂へとなだれ込んでくる。生暖かい爆風によって皿とスプーンがテーブルごと吹っ飛ばされていった。

 床に伏せていたトゥースが頭をあげて状況を確認すると、他愛もなくひっくり返って床に寝そべるイスキが、ひび割れた扉から差し込む光明に照らされていた。かがむのが遅れてしまったのだろう。彼の左腕に吹き飛ばされた石の破片がめり込んでおり、出血とともに腕があってはならない方向へ折れ曲がっていた。

 痛みに苦鳴を漏らすイスキの袖を捲って傷口を確認したところ、骨が皮膚を突き破っていないことがわかった。触った感じ、骨が砕けてはいないようだが、ちゃんとした医療機関で調べてもらわないことには予断は許されないだろう。

「いてぇ……いてぇぇぇぇぇっ。な、なんだよ、いまの!?」

「あなたが運んできたバッグのなかに炎術爆弾が仕込まれていたようです。燻すような魔力の香りがしたので、なにかあると思ってあなたに投げさせたのですが……申し訳ありません、もっと早く気づいていれば……あなたのチームに魔術士はいますか。そのひとの仕業だと思います」

「い、いるにはいるけど……まさか、お土産って、いまの爆弾のことか!? な、なんでっ。オレ、あなたのことをあいつらにちゃんと説明したのに! 爆弾が入ってるなんて知ってたら、絶対にここまで持ってこなかった!」

「承知しております。あなたの心の色はオレンジですから。ともかく、あなたはここでじっとしていてください」

 トゥースは自らのボロ服のスカートを破り、彼の肘を縛って止血しつつ、彼の胸元に視線を落とした。イスキの心臓のあたりに輝く透明感のある橙色の光。トゥースは相手の人間性を見極めるための術を師匠の魔女から授かっており、それを自らの瞳に付与している。イスキの生命の煌めきは、トゥースに暖かな印象を与えるものであった。彼と食堂で対面したとき、あっさり彼に対する警戒を解いたのもそれが理由であった。

「あっれ~? 死神のやつ、死んでないみたいっすねぇ」

「ええ~? 戦わずして勝つ、っていう作戦、ぶち壊しじゃないですかぁ~」

「荷物持ちは? 死んだのか? まったく、最後まで使えねえやつだったな」

 いまだもうもうと立ち上る粉塵の向こう側から、トゥースの神経を逆なでする挑発的な声が響いた。

 通路の影に溶け込むようにして4つの人影があった。先頭に立ってこちらを観察しているのは軽鎧を身にまとった10代半ばくらいの軽薄そうな短髪の少年で、腰のポーチにナイフやピッキングツールをぶら下げている。その背後から顔を覗かせているのは、宗教関連らしきゴテゴテしいローブを着込んだ頭も尻も軽そうな雰囲気の20代半ばほどの、髪にカールがかかった厚化粧な顔立ちの女性。そしてその横では気性の荒さが人相に出ている背の低い壮年の男性が、トゥースへ短杖を向けて佇んでいる。その様相からして盗賊、治療士、魔術士だろう。

 死神扱いされた女性が目を細めて死神討伐隊の面々を観察する。彼らの胸元には一様に、ヘドロじみた気色の悪い色彩をした闇が蠢いていた。


       ──ああ、気持ち悪い。どうしてこんなやつらが生きていていいんだろう。どうしてこんな気持ち悪いやつらが生きていて許されるんだろう。


 どろりとした思考に嵌りかけたトゥースの耳に、地の底から響くような恫喝的な男性の声が響いた。

「貴様ら、まさかあの少年ごと死神を消そうとしたのか? 見下げ果てた奴らだな。成り行きとはいえ、貴様らと隊を組むことになったのはオレさまにとって汚点だ」

 仲間であるはずの3人に対して侮蔑的な視線を送り、彼らの背後からゆっくりと近づいてくるその青年の年齢は20歳くらいだろうか。やや濃いめの紫色の前髪をオールバックにして後ろへ流している。185センチほどの背丈で、灰色のコートを羽織り細身の剣を帯びている。どことなく猫をイメージさせる顔つき。一見してどこぞの貴族の嫡子や王族の護衛についていそうな美丈夫だった。身なりからして剣士に間違いないだろう。なにげない歩き方のはずなのに隙が見当たらない。彼の胸に煌めく、高潔と傲慢を表す紫色の光。

 と、魔術士風の壮年の男がワルダー訛りを隠そうともせずに若い剣士を睨めつけた。

「なんなんだよテメェはさっきから突っかかりやがって。ちょっと強いからって図に乗ってんのか?」

「貴様らが束になっても敵わなかったさっきのゾンビ犬を始末したのはだれだと思っている。オレさまがいなければ、貴様らはここにくることさえできなかったんだぞ。そもそも治療士、貴様が高級な浄化ディスペルを使えていたらこんな手間は……」

 トゥースの纏う空気がさっと温度を下げた。抑揚のない声が、彼女の唇から発せられる。

「ペトルーシュカを殺したのですか」

「あら、あのワンちゃん、ペトルーシュカっていったんだ♥」

「そこそこ強かったっすけど、まあ、こうなっちゃったねぇ。魔術士の旦那があとで錬金術の素材に使えそうだから持ってこいってきかなくて」

 盗賊が腰に携えているポーチから取り出されたものは、赤黒い液体が付着したふたつの巨大な眼球であった。ひとつは空を映しているように清く蒼いガラス玉のような瞳。もうひとつは殺意に燃えた赤い虹彩を放つ魔眼。くり抜かれて間もないらしく、強引に切断された筋肉繊維から粘ついた体液が滴っている。

「ま、それはともかく、死神さんには……」


《しゃべるな》


 トゥースの唇から永久凍土のごとき冷たい言葉が放たれた。

 彼女が死神と呼ばれる所以のひとつに、各国の大図書館の魔術書にすら記述のない未分類の呪詛術や妖術を独学で編み出し、それを自作した言語体系に変換して自由に使いこなすその資質があげられる。本来であれば長ったらしい呪文詠唱を必要とする呪詛術や妖術も、トゥースにかかればほんの一言、二言で発動条件をあらかたカバーしてしまうのである。さきほど、イスキの肉体を操ったのもこれを用いてのものだった。彼女の言葉を耳にした人間は肉体だろうと精神だろうと意のままに操られるのである。それも、彼女が相手に対して憎悪や怨恨の念を抱いているほど支配力は強まる。その分、彼女の身体に付着する穢れも多くなっていくが。

 トゥースの殺意の奔流が死神討伐隊の面々を突き抜けていった──が、彼らはへらへらとした面持ちで、平然としていた。盗賊の少年に至っては「あれれ~? いまなにかしましたかぁ~?」と肩をすくめ、チャラけたポーズまでとっている。

 トゥースは即座に理解した。対抗呪術レジストカース。トゥースのもっとも得意とする呪詛術に特化したバリアが、連中に貼られている。それが法術の付与か、魔術具による加護かは不明だが──いや、あの女治療士の得意げな表情からするに、どうやら彼女の守護法術らしい。

 トゥースが肉体的には一般人とさしたる差はないことを、彼らは事前調査で知っているのだろう。呪詛術さえ防いでしまえばあとはなぶり殺しにできるという驕りが、彼らの表情や態度から透けて見えた。だから、さっさと奇襲すればリスクが少ないはずが、こんな無為な会話に興じていられるのだ。

 なら、しかたない──トゥースは昏い覚悟を決めた。代償の少ない低級の呪術を用いて穢れの付着を最低限に抑えるつもりだったが、そうもいっていられないようだ。

 女治療士がくすくすと挑発的に笑いながら、口元に手を当てている。

「あららぁ? まさかあたしたちがなんの下準備もなくここまできたとでも」


《呼吸を止めろ》


 その呪詛を死神が口にした瞬間、4人に付与されていた不可視のバリアが木っ端微塵に弾け飛んだ。相手の死をはっきりと願うおぞましい言葉が、世界から踏みにじられてきた元奴隷だからこそ抱ける圧倒的な憎悪が呪詛となり、不浄なる冷気と化して討伐隊へと襲いかかる。

「っ……っ!? っ……!」

 呼吸を止めろと命じられた以上、横隔膜を動かすことはできなくなる。呼吸をする術をいきなり奪われた人間のとる行動がだいたいおなじであることを、トゥースは熟知していた。おなじ手法で、何百人もの生命を奪ってきたのだから。新鮮な酸素を取り込もうとあがいているうちに、トゥースへ攻撃することも忘れてもがき狂って死ぬ。それだけだ。

 もっともパニックに駆られたのは治療士だったようだ。彼女は驚愕、恐慌、恐怖などの負の感情をべったりと顔に貼りつかせたまま、大きく開いた口から舌を突き出し、鼻の穴を限界まで広げて、ひたすら酸素を求めている。唇をぱくぱくと開閉させているのは、おそらく解呪の法術を詠唱しようとしているのだろうが、息を吐くことができないせいで言葉のひとつも出てきはしない。さきほど《しゃべるな》と命じたのも、彼らのゲスな会話を耳にしたくないだけではなく、治療士と魔術士の詠唱を阻止するのが目的だった。

 わずか20秒だった。意味もなく力んだせいで身体中の酸素を浪費してしまったのだろう。治療士の女が口の端からよだれを垂れ流して床に倒れ伏し、顔面を紫色に変色させて白目を剝きながらひくひくと身体を痙攣させ始めた。続いて魔術士の老人がなにもできないまま昏倒する。盗賊の少年だけは震える手でポーチから投げナイフを取り出すことに成功し、しかし死神女まで駆け寄るだけの余裕がないことを悟ったらしく、ナイフを握りしめた右腕を思いっきり振りかぶった。

 その少年の額から上が、背後から這いずり寄っていた青色の毛並みをした巨大な犬の鋭い牙に噛み砕かれた。髪と頭皮が周辺に散乱し、鮮血と透明な脳漿が周囲の床に飛び散っていく。犬は容赦なくその小さな身体を咥えなおし、数回噛んだだけで少年の上半身を食い千切り、床に放り棄てた。

 巨大な犬の両眼があるはずの場所には、抉られたような暗い穴がぽっかりと空いていた。ぬらぬらとした唾液を周囲に滴らせ、まるで笑うかのように開いたままの口は暗く湿った洞穴のような内側を見せている。穴の内側の闇が飼い主の女性を視界に収めた途端、巨大な犬はまるでお辞儀でもするかのように頭を垂れて低く唸り声を上げ始めた。

 トゥースは、その巨大な青色のゾンビ犬ののどにいくつもの風穴が空けられていることを確認しつつ、忠犬の眉間を左手でそっと撫でつつ、

「変なものを食べさせちゃってごめんなさい、ペェちゃん」

 と、つぶやくのだった。

 そのとき、半壊した食堂の扉から脚を引きずるようにして荷物持ちの青年が姿を現した。床に転がったまま、まもなく絶命しようとしている元仲間たちの醜態を目の当たりにした彼はしばし呆然と立ちすくんでいたが、トゥースに視線を移すなり目を見開いて「危ないっ」と絶叫した。

 トゥースの回避は半分だけ間に合った。彼女の頭を撥ね飛ばすだった細身の剣は、ゾンビ犬の首ごとトゥースの左腕を二の腕から切断した。

 じんと痺れるような熱が切断面から生じた直後、とてつもない痛みがトゥースの肩口を駆け抜ける。呻き声をあげそうになりながら、それでもトゥースは必死で冷静さを保って石畳の床を蹴り、後方へと飛び退った。途端、直前まで彼女が立っていたところに光の軌跡が8の字に翻る。

 イスキが声をかけなければ即死していたであろう斬撃を繰り出したのは、紫髪の剣士であった。彼は窒息状態に陥って転がっているチームメイトたちを睥睨しつつ、胸元から首飾りを取り出した。白銀を鎖部分に使用し、中央部には肉厚の赤色の宝玉があしらわれた高価なアミュレット。対抗呪術の加護があるアーティファクトか、とトゥースは察した。けれどトゥースの呪術を無効化できるほどのアーティファクトなど国宝級の一品のはずだ。この男が、なぜそんなものを。

「姉上から預かったこれがなければ、オレさまも危なかったな。宝玉もまだ穢れきっていないようだし、貴様の生命を絶つまで保ってくれるだろう。気はすすまんが、この自惚れ屋どもも救ってやらなくてはならんし、とっとと終わらせるか」

 そういってコートの剣士は細身の剣を水平に掲げるなり、左腕を押さえて脂汗を流すトゥースへと踊りかかってこようとした。

 その脚に、ペトルーシュカの生首が体当たりしてきた。舌の力だけで床を飛び跳ねるという離れ業を見せたゾンビ犬の頭部が、勢いをつけて剣士のふくらはぎ目掛けて鋭利な牙を剥く。思わぬ方面からの奇襲であったが、剣士はそれを身体をひねってかわし、振り下ろした剣先で脳天から下顎までを貫いて串刺しにし、完全に動きを止めてから体重をかけて犬の頭蓋を踏み潰した。

 剣士が振り返ったときには、トゥースは彼の剣先が届かない十分な距離を取っていた。安全距離を保てたものの、いまの彼女には止血するだけの余裕もない。次の瞬間には自分の首が飛んでいるか、さもなければ相手の心臓が止まっているかのどちらかだ。言葉と剣、どちらが早く相手の生命を絶てるか。トゥースが持ちうる最大級の呪術をぶつければ宝玉を穢しきることができるかもしれないが、おそらく二言目を発するより早く、あの剣士が飛びかかってくるだろう。状況は死神に不利だった。

「やめてくれよっ。もうやめてくれよおっ」

 と、泣き声をあげてふたりのあいだに割って入ってきたのはイスキであった。彼は懸命にトゥースと剣士のあいだに立って両腕を広げながら、嗚咽混じりに頭を横に振った。

 唖然とするトゥースを背にかばったままイスキは、剣士の冷ややかな眼差しを正面から受け止めた。

「話をきいてくださいっ。彼女はもうすぐ人間じゃなくなっちまうんだ。放っておいても、もうなにも悪いことができなくなるんだよっ」

「だからなんだ。この女に殺されたワルダー国民の数は1000人を超える。その罪深い、救いようのない怪物に裁きをくだすのがオレさまの使命だ。それに、いますぐ死神を殺さんと、床に転がってる連中を救えんぞ」

 剣士が無造作に距離を詰めてくる。トゥースがのどを震わせて制止の言葉を搾り出そうとしたとき、イスキは必死に食い下がった。

「殺しちゃダメだったら、アルタイルさんッ! 彼女は自分にとんでもない呪術を……」

 剣士が「クソがッ」と忌々しげに舌打ちするのと、トゥースが歯を剥き出して笑うのは同時であった。呪術を使用するにあたり、対象の名前を知ることは極めて重要な意味を持つ。ターゲットの名前を呪詛の言葉に乗せることで相手を蝕む力は数倍にも増幅するのだ。いくら国宝級の宝具とはいえ、トゥースの悪意を何度も浴びて穢れきらないはずがない。うまくすればたった一言で剣士もろとも呪殺することができる。

 トゥースは即決した。使用しうる最大の憎悪をあの男にぶつけて即死させる。代償としてトゥースの肉体はただちに人間としての形を失うだろうが、構うものか。

 トゥースが口を開いた瞬間、イスキの胸元からドンッという重い音が鳴った。剣士が投擲した剣がトゥースをかばうようにして両手を広げていたイスキの肋骨の間を縫い、肉を突き抜け心臓を貫通して、その背中の衣服の生地ごと背中から長々と刃先が飛び出していた。イスキは「げふっ」と血混じりの咳をして、あっけなく前のめりに倒れ伏した。確認するまでもなく、即死である。イスキの胸に灯っていた橙色の光が、消失していく。生命が消えていく。

「ここでは互いの名前を呼ぶなと命じたはずだ。それに、身を張ってまでそのクソ女をかばうなら貴様も同罪だ、少年」

 出会ったばかりの青年の死が、トゥースにわずかな狼狽をもたらした。彼女の口から、言葉が凍りついて出てこなかった。

 そのわずかな心の動揺が、トゥースの生死を決した。

 まばたきをするほどの一瞬で剣士に距離をつめられていた。いつのまにイスキの死体から引き抜いたのか、その右手には白銀の剣が握られており、剣先がトゥースの喉元を狙って水平に薙がれる。

 トゥースがすんでのところでその剣先をかわして後方へと跳躍すると、それすら読んでいたのかさらに踏み込んできた剣士が横薙ぎに剣を一閃させる。トゥースがふたたび回避しようと身体をひねるものの間に合わない。鋭い剣先が彼女の着込んでいるボロ服を一文字にやすやすと切り落とし、彼女の腹部を深く裂いた。腹圧によって傷口から肌色をした腸がでろりとはみ出していく。信じられないほどの痛みと衝撃がトゥースののどから悲鳴と涙を絞り出させる。

 剣士は、片腕を失って跪く瀕死の死神を睥睨しながら、

「贖罪のときだ、死神。これまで貴様が殺してきた罪のない民たちに謝れ。そうすれば、せめてもの情けだ。これ以上苦痛を長引かせず、楽に殺してやろう」

 と宣言し、彼女の喉元に銀色の刃をあてがった。

 トゥースの肺から、勝手に笑いが込みあげた。どういうわけか愉快な気分になっている。優しい青年と出会い、彼に死んでほしくないがために醜く無力なイモムシとして永遠に生きることを決意した途端にこれか。肝心のイスキは死に、トゥースもまもなく後を追うことになる。わたくしを殺そうとする相手を道連れにして──なんだ、ずっと自分が望んでいた結末じゃないか。

「……罪のない、民? 彼らは、奴隷だったわたくしが、主から、虐げられていたとき、ずっと、嗤って、それを、見ていたのです。イスキさまを、殺そうとした、こいつらとおなじ……ひとを、ひとと思って、いないのです……わたくしは、人間として、扱ってもらえませんでした……ですから、こんな、怪物に、なって……」

「それで妊婦まで殺したのか? 貴様は、正真正銘のクズだな。絶対に許されないことをしたのに、まるで反省していない」

 その一言がトゥースの導火線に火をつけた。彼女は虚ろな瞳を持ち上げて、美丈夫の視線を正面から受け止めた。わたくしのことなどなにも知らないくせに。最後のあがき。こいつだけは自分の言葉で殺してやりたいと思う。


《アルタイル、死   》


 アルタイルが手首をひねると、研がれた剣先が死神の喉元を抉った。血が飛沫となって彼女の首から勢いよく噴き出し床と壁、そしてアルタイルの身体を斑模様に彩っていく。アルタイルは穢らわしいものでも見るかのように眉を潜めつつ鮮血の飛沫をほほに浴び、一度血振りをしてから剣を腰の鞘に戻した。

 トゥースは最後の《ね》の一言を懸命に発しようとするも、気道に穴を穿たれたせいで、深い傷口からは血混じりのあぶくが飛び散るばかりである。彼女は膝から崩れ落ち、ごぼごぼと血の泡を吐きながら上半身を痙攣させ、横倒しになると自らの血だまりにどさりと頭から倒れ込んだ。


     ──わたくしの人生は、いったいなんだったのだろう。

     ──ただひたすら、つらくて、苦しくて、悔しくて、痛くて、悲しくて、救われなくて、報われなくて、恨んで、憎んで、妬んで、僻んで、傷つけたくて、苦しめたくて、気持ち悪いひとを殺して回るだけだった日々。

     ──みんな死んでしまえばいい。わたくしに優しくないものは、わたくしも含めて、みんなみんな、死んでしまえ。こんな世界、大嫌いだ。


 死の間際。トゥースは己の胸の内側に封じ込めていたどす黒い感情に混じって、自分自身の肉体の奥底に染み込ませていた最悪の呪術が発動するのを感じていた。疫病風。それは宿主の内臓を食い破り、腐らせ、ドロドロに溶かしながら『023』と刻印されたトゥースの右腕の焼印の痕から噴出していった。死神の編み出した最強最悪の呪いが、半径10kmに暮らすすべての人間に降り掛かっていく。

 この呪いのたちの悪さは、罹患者の近くにいる人間に次々と感染することだ。

 トゥースの霞む視界のなか、青年の胸元で見るも無惨に穢れきった紅い宝玉と、得意げに鼻を鳴らし、小さく咳き込んでから立ち去ろうとする剣士の首筋に黒い斑点が確認できた。間違いない、疫病風による浸食の証だ。呪いは成功した。あの男は一週間ほど苦しみぬいてから死ぬことになる。その家族も。あの男だけではない、この砦の近辺に位置する街や村の人々もおなじく互いに呪いを感染させあって、交易路に沿って国から国へと広まって、大陸にいる約半数の人間が死んでいくだろう。


     ──ざまあみろ。


 おぞましい笑みを浮かべ、肉体をヘドロ状に腐らせながら、死神トゥースは死んだ。


 ──────


 違う時間。違う場所。おなじ世界での話。

 ゼンリョー王国で暮らすある夫婦のもとに、ひとりの赤ちゃんが生まれた。

 幸福で健やかに成長してくれることを祈ってメイリアと名付けられたその赤子を優しく抱きしめながら、母親は、

「生まれてきてくれてありがとう」

 とささやくのだった。

 赤子の右腕には『023』と読める特徴的な痣があった。

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