第3話 Karte3~イケメンも苦手です

なぜこんなことになったのだろう。百合は診察室の椅子に座って呆然と思う。なぜも何も診察に来たのだからどこもおかしな状況ではないのに現実逃避を始めていた。



(今日が私の命日かもしれない)


 ありえない死の覚悟を百合はしていた。



「お待たせしました。笹岡さん、担当させてもらいます。三嶌みしまです」


「よ、よろしくお願いします。あの、ご無理を言って申し訳ありませんでした」


「いいえ?痛いのにそのまま帰らせるわけにはいかないですからね」



 とりあえずまずは頭を下げた。今日はやはり午後から休診だったらしい。入口の扉に午後から休診します、と紙が掲示されていたのに全く視界に入っていなかった。百合は心底確認を怠ったことを後悔している。


 奥から出てきたその人こそがこの病院、みしまデンタルクリニックの院長だった。旭、と呼ばれたヤブ医者(誤認)はこの病院の先生ではないらしい。受付で問診表を記入した後、その旭という先生が百合のレントゲンを撮ってくれた。その際に旭が世間話のようにそう教えてくれたのだ。



「CTできました。じゃあ先生、俺は今日はこれで」


「うん、ありがとう。あとは森乃もりの院長の意見で決めたらいいと思うよ」


「そうします、ありがとうございました。じゃまた」



 CTというのは口腔内全体が撮れたレントゲン写真のことだ。百合の座る位置からも見えやすい斜め前に設置された液晶画面に自分の歯が並んだ横長のパノラマ写真が映し出される。



(うわぁ……き、気持ち悪すぎる、できるなら見たくないレントゲン写真)



 自分の体の見えない部分を見せられて百合はゾッとした。歯がズラッと並んだレントゲン写真を見ていると、あぁこれからここで治療を始めるのだなとしたくない覚悟を決めねばならない。この病院に、この医師に知られなくてもいい至極プライベートな部分を見せているのだと思うと泣きたくなってくる。



「右下の痛みと腫れ…あとかぶせが取れちゃったんですね。何か固いものでも噛みました?」


「はい、えっと、チョコレートを……」


「そう、取れたものも結構古いですね。そこから虫歯になりがちだから新しく作り直す方がいいかなと思います。一度お口の中見せてもらってもいいですか?」



 三嶌の声はとても穏やかで優しい声だった。変な圧力もなくソフトでどこか甘い声で、百合はその声に無意識に聞き惚れていた。



(はっ!いやいや騙されるな、そう言って自費治療を勧めてくるかもしれない!)



 百合の警戒心はそんな簡単には取れるはずがなかった。座っている椅子がガッと動き出すと百合の体は正直に跳ね上がった。



(ひぇ!!)



「お席倒しますね。頭楽にしててください」



 椅子が徐々に床と並行になるように倒れていく。頭を楽にしろと言われても余計に力が入った。久々の歯医者、久々に口の中を弄ばれる恐怖。白い天井を見つめながら百合の体は冷汗で滲んでいた。



「大丈夫ですか?」


 視界に三嶌が映り込む。覗きこまれるような形でさらに百合の体に力が入った。



「だだだ、大丈夫だと思われます」


「久しぶりですか?歯医者は」



「ははは、はい、数年ぶりに、なります」


「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」ニコッと目が微笑んだが全く信用できない。



(どんな先生もそう言って、グリグリギュインギュインして水でガバガバしてくるくせにぃぃ!もうむしろ笑わないでよ、微笑まれる方が悪意を感じるよ!!)



「まずはお口の中チェックさせてください。そのあと治療方法を相談しましょうね」


「は、はぃぃ……」



 百合の震える声の返事に三嶌はまた優しく目元を緩ませた。その目を見て百合はまた変に体を硬直させた。



(ま、また笑った……この先生、すぐ笑うじゃん、かっこいいのに怖い、優しそうに見えてめっちゃ怖い、きき、緊張する、いろんな意味でドキドキしかしないぞ、どうしよう)



 ドキドキの理由はなんなのか。それよりも緊張することが目の前に迫っているのでぶちゃけそれももうどうでもいい域になっている。



「目元は隠さない方がいいですか?」



 口を開けようと覚悟を決めかけていたのにいきなり聞かれて百合は面食らった。



「え、あ……このままでも……いいんですか?」


「笹岡さんが落ち着く方でいいですよ」


「せ、先生は?」



 百合の問いかけに三嶌は少し目を見開いた。



「先生は、どっちがいいですか?」



 先生がタオルをかけようとするのならこの病院のスタイルはそれが普通なのだろう。


 患者みんながタオルで目を塞いでいるのに自分はしたくないなど言ってもいいものなのかとか、先生的に患者に見られながら処置することに抵抗はないのだろうかなど考えてしまって咄嗟に聞き返してしまう。そんな百合の心情がどこまで伝わったのかはわからないが、三嶌がふふっとマスク越しで笑った。



「じゃあ今日は初めてだし、見つめ合いながらしましょうか」



(なー!なんか変にやらしい言い方する!なにこの先生、なんなの、なんでそんな感じなの?なに?見つめながらするって!)



 この瞬間、百合の中である気持ちが爆発した。


 恋愛経験のない百合は漫画や小説で無駄に妄想と知識だけを育てていた。百合は俗にいう腐女子である。現実世界のリア充を経験していないために二次元の世界でそれを楽しんでいた。年齢=処女に焦りがなくなってきているのもそれが原因かもしれない。そのせいで変なスイッチが入ると思考がすぐに二次元へ飛んでしまいがちだ。



「す、するって……なにをするんですか?」


 案の定、脳内はおかしな方向へ進みだしている。



「……診察です」


「な、なんの診察ですか?」


 もはや自分が今どこで何をしに来ているのか忘れてしまっているのだろう。すっとぼけた質問を三嶌にしていることさえ多分よくわかっていない。



「……まずは……」


 わなわなと震えだした百合のくちびるに三嶌の指が触れた。下唇にラテックスグローブごしの人差し指でふにっと押し付けられる。



「中、見せて?」


「!!」


 覗きこむよりも近い。覆いかぶさるように三嶌が百合の顔に迫っていた。百合は息をするのも忘れて固まった。椅子を倒されて、上からかぶさるように見つめられて今からなんの診察が始まるのか。百合の脳内はもはや誇大妄想を始めていた。



「はい、あーん」


 三嶌の甘い声に誘われるように百合は自然と口を開けた。まるで催眠術にかかったように素直に体が反応した。



「ん、いい子」


 ニコッとまた三嶌が笑う。マスクをしていてかっこいいのにこれを外した笑顔は一体どれほどの殺傷レベルを持っているんだろうか。百合は瞬きするのも忘れて三嶌の瞳に釘付けになっていた。



(まつげが長い、少し色素が薄めで茶色よりはグレーっぽい……目じりの下に小さなほくろ……)



「触っていい?」


 くちびるを抑えていた指の力が弱まって少し楽になると、甘い声が囁くようにそう聞いてくる。



「ど、どこを?」


 至近距離で観察していた三嶌の瞳が印象的過ぎて百合はまだ三次元の世界に帰ってこれていない。もう一度言うが、百合は今自分がどこで何をしに来ているのか忘れてしまっている。



「奥……痛くしないから」



(はぁぁぁ、なに三嶌先生の声なに、や、やらしぃーー!!)


 百合は完全におかしくなっていた。



「しっかり見せて?もう一度、あーん」


 もはや言いなりだった。三嶌の声に、言葉に百合は翻弄されていた。言われるがまま口を開けてしまって指の侵入を許してしまう。



「ここ、痛かったね?結構腫れてるなぁ……我慢してた?」


 右下の奥歯を三嶌の指が優しく押してくる。痛みは全くなかった。押すというより触れるような軽いタッチ。百合は自然と目を閉じた。そうなったのは恐怖心が消えてしまったからだ。大人の男性の手はもっと大きくてごつごつしていそうなのに、三嶌の手からはそんないかつさは全く感じなかった。ただ指はとても長いのではないか、と百合は口の中で感じる気持ちからそう想像していた。



「一度席戻すのでお口ゆすいでください」


 椅子がぶるっと震えたと思ったら徐々に頭から持ち上がるように体勢が座る位置に戻った。百合の頭は少しボーっとしていた。放心状態に近い。



(なんか、全然嫌な気持ちはなかった……)



「口、ゆすいでくださいね」


 三嶌の優しい声の催眠は未だに続いている。言われるまま口を数回ゆすいだ。白い陶器の流し口から水がシャーッと弧をかくように流れていく様をぼんやりと見つめていた。



「笹岡さん」



 名前を呼ばれて意識を取り戻す。レントゲンが映された液晶パネルをグイッと引っ張って三嶌がペンで印をつけ始める。



「ここ、以前つけていたかぶせが取れた場所です。穴が開いてる状態がそのままはまずいのとかぶせもかなり古いのでもう一度型を取って新たに作り直すのがいいかな。問題はこの歯の奥、ここ」


 赤色で丸く囲われた奥歯が痛みの原因だという。



「歯茎の腫れもここからきてる。少し虫歯にもなっているんだけど……この親知らずはもう抜いたほうがいいかなと思います」


「え!!」


「置いておいても問題はないけど……虫歯がこれ以上進行しないためと将来的に歯周病の原因にもなりかねない。現に歯茎の腫れもあるからこの腫れが落ち着いたところでまた悩まされると思います。何度もそれを繰り返すなら抜く選択をお勧めします」


(ショック……)


 その気持ちに嘘はない。けれど百合が受けたショックは歯を抜くことではなく、三嶌が歯を抜けと勧めたことだった。


(やっぱり、歯医者は嫌いだ……すぐ歯を抜きたがる。甘い声に騙されるところだった)


「どうして抜いたほうがいいかっていうとね?」


 落ち込んだ百合を見かねてか、三嶌が優しい声で話しかける。



「これみて?笹岡さんのこの親知らず、斜めに生えて一部が埋まってる。歯肉が半分隠れた状態だと歯ブラシもしにくいし、汚れがたまりやすくて歯肉が炎症しやすくなる。それに、嚙み合わせもうまくいってない」


 レントゲンを静かに見つめる百合の視線は暗い。理解しようとする気持ちは見えるけれど全然納得をしていないのだろうと、三嶌はそれをしっかりと感じ取った。



「笹岡さんはまだ二十代前半で若いし、年齢がいくほど歯も硬くなる。抜くならタイミングは大事です。同じ抜くなら回復力も高い若いうちがいい。この親知らずの今の状態と今後のリスクを考えたら放置よりは抜くメリットの方が高いと僕は判断します。でも――」


 そこまで言ったらようやく百合が視線を三嶌に向けた。


「歯を抜きます、わかりましたなんてすぐに納得しなくていいですよ。笹岡さんは歯医者も久しぶりっていうし、だいぶ怖がってたもんね」



(え)



「大丈夫だよ」



 三嶌がニコッと微笑む。百合はその瞬間泣きたくなるような気持になった。



「いきなり抜こうなんて言われたら嫌だよね。怖い思いさせてごめんね。まずは先にかぶせを作るところから進めていきましょうか」

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