第14話

 二月四日、月曜日。

 希未は珍しく午後七時に仕事を終えた。久々の定時上がりだ。普段であれば、平日は午後八時を過ぎることが多い。

 だが、それほど嬉しくはなかった。どこか浮かない気分で、ブライダルサロンを去った。

 帰り際にフラワーサロンを通り過ぎると、灯りが点いていた。中を覗くことはなかったので、成海志乃がまだ仕事をしているのかは不明だ。


 志乃とモツ鍋を食べに行ってから、もう一週間になる。しかし、希未は未だに顔を合わせ難かった。

 この気分の原因は、それだけではない。先週の打合せで見た天羽晶の何とも言えない表情が、まだ忘れられなかった。

 ゲストを呼ばないことに納得できない。以前はその悩みを志乃に打ち明けたが、今回は出来ない。

 だから希未はホテルを出ると、自宅ではなく電車の駅に向かって歩いた。せっかく早く上がれたのだから、時間を有効活用するつもりだ。


 希未が『stella e principessa』に着いたのは、午後七時四十分だった。二度目の訪問だった。

 閉店の午後八時まで三十分を切っているせいか、以前よりは空いていた。


「ホットコーヒー……トールで」


 他にカフェラテやカフェモカ等のメニューもあるが、希未はレジでコーヒーを注文した。

 カウンターの向こうに、澄川姫奈の姿が見えた。彼女の淹れたハンドドリップのコーヒーが、美味しかったのだ。仕事を終えたこの時間にカフェインを摂る意味が無くとも、純粋に味を楽しみたかった。

 受け取り口で待っていると、姫奈が商品を手にやって来た。


「こんばんは、遠坂さん。もしかして、何か御用ですか?」


 時間を気遣い、テイクアウトを視野に入れたのだろう。マグカップではなく、紙コップで差し出された。

 突然の訪問をそのように捉えるのは無理もないと、希未は思った。


「いえ、そういうのじゃなくて……ちょっと通りかかっただけです」

「そうですか。あまり時間無いですけど、ごゆっくりなさってください」


 ウェディングプランナーがこの街を訪れる理由は浮かばないが、適当に誤魔化した。それを信じたであろう姫奈から無邪気な笑みを向けられ、少し心苦しかった。

 希未はコーヒーを手に受け取り口を離れ、店内を見渡した。

 先ほどの本音としては、この店を訪れた用件について姫奈と話したかった。しかし、店や他の客への迷惑になるため自重した。

 だから代わりに、小柄な人影を探したところ――ウッドデッキのテラス席へ出ていく姿を見つけた。ちょうどいいと希未は思い、後を追った。


 屋外になるので当然ながらとても寒く、席の利用客は誰ひとり居なかった。頭上に灯りはあるが、暖房器具の類は無かった。

 コーヒー豆の焙煎機だろうか。何やら大きな機械が備え付けられている。席と機械の、さらに向こう――ウッドデッキの隅に、天羽晶が煙草を咥えて立っていた。手にはライターを持ち、今まさに火を点けようとしていた。


「プランナーさん……何か用か?」


 晶は少し驚いた表情を見せた後、煙草に火を点けて小さく笑った。そしてライターをパンツのポケットに仕舞う代わりに、携帯灰皿を取り出した。

 希未の記憶では、この店は全席禁煙であったはずだ。閉店間際の時間帯――さらにこの位置は店内から死角になるため、隠れての喫煙なのだと察した。

 希未は晶が喫煙者であると、今知った。かつてのトップアイドルが、かつての『推し』が、目の前で煙草を吸っている。現役アイドルだった頃からこうだったのかは、わからない。何にせよ、冷静に捉えれば尋常ではない光景だ。

 十年前なら、幻滅していたかもしれない。しかし今は、不思議と驚かなかった。

 アイドルとしての天羽晶が亡くなったと割り切っているだけでなく――喫煙の姿がとても似合い、格好良いと感じたからだ。


「はい。ちょっと訊きたいことがありまして……」


 希未は煙草の煙が苦手だが晶の正面まで近づき、温かいコーヒーを一口飲んだ。


「不快に思われたら、すいません……。どうして、ゲストを誰も呼ばないんですか?」


 わざわざ訪れた目的は、それだった。思い切って訊ねた。

 ホテルでふたりを前に改まって訊ねることは、出来なかった。ならば、ホテル外でどちらか片方に接触するしかない。


「なんだ、そんなことか。そういえば、話してなかったな」


 晶は煙を吐き、夜空を仰いだ。

 声には小さな笑いが含まれていた。少なくとも不快に感じていないようだが――希未は後になり、自嘲のようにも聞こえた。


「後ろめたいんだよ……」


 だから続いた言葉に、やはりと思った。かつて志乃に諭されたが、嫌な予感が完全に消えたわけではなかった。


「私には、祝福される資格なんて無いからな」


 しかし、違和感を覚えた。

 同性婚だから――それだと意味合いがおかしくなる。『私達』でなく、どうして『私』ひとりなのか。どのような罪悪感を抱いているのか。

 希未はすぐに理解した。


「そんなことありません! あたしは、天羽さんが生きていてくれて嬉しいです!」

「そうだとしても……私が世界中の人間を騙したのは事実だ。許されないことを、しでかした。お前にも、申し訳ないと思ってる……本当に」


 意外な理由だった。まさか、死亡を偽ったから結婚式にゲストを誰も呼ばないなど、希未は思いもしなかった。

 だが希未もまた『被害者』のひとりとして、これ以上無いほど納得する理由でもあった。

 晶は煙草を吸いながら、遠くを見るような目で虚空を眺めていた。

 希未にはやはり、左右の瞳が僅かに違って見えた。右目が僅かに濁っている。

 この瞳で十年間、何を見てきたのだろう。きっと、想像を絶する世界だ。愛する人が傍に居るとしても、割り切れない部分があるに違いない。

 一般人として生きることを選んでも、トップアイドルとしての『誇り』を捨てきれないのだと希未は思った。天羽晶は常に絶対の自信を備えた気高い人間であると、知っている。理由に彼女らしさを感じる以上、説得は不可能だと悟った。


「あたしは許します! 他の皆も、そうに決まってます!」


 それでも、希未は肯定できなかった。

 根拠など無い、ただの願望だ。もしも天羽晶の生存を世間に公表したとしても、皆が皆喜ぶわけがないと、安易に想像できる。一部からは失望、落胆、憎悪――そのような感情を向けられるに違いない。それほどまでに、彼女のファンは多かった。


「ありがとうな。そう言ってくれると、嬉しいよ。でも、もういいんだ……」


 晶は無邪気にニカッと笑った。

 三十三歳の割には現役時代を思い出させる可愛い笑顔だと、希未は思った。


「姫奈が式を挙げたいって言い出した時は、びっくりしたさ。あいつの願いは叶えてやりたい。それでも……これが私の条件だ」


 つまり、澄川姫奈はこの条件を飲んだことになる。

 晶にとって一番の理解者である彼女がどのような心境なのかは、希未にはわからない。しかし、ゲストを誰も呼ばないことについて、これまで一切の不満が無い様子だった。

 これだけが、希未にとって唯一の『救い』だった。


「RAYのおふたりとは、まだ交流があるんですか?」

「ああ。あいつらとは腐れ縁だ。今も時々会ってるし……式を挙げることも知ってる。あいつらも、わかってくれたよ」


 実際どうなのかは不明だが、希未は晶の言葉を信じるしかなかった。解散後も円満であって欲しいと願う。


「本当言うと……姫奈と家族になる資格も無かったのかもしれないって、後になって思いはした。でも、私を救ってくれたあいつと……しょうもない夢に付き合ってくれたあいつと、生涯を添い遂げたかったんだ。ワガママ言ってしまったものは、しょうがないよな」


 プロポーズは晶が行ったと、希未は馴れ初めを聞いていた。

 当時はきっと、このような後ろめたさは無かったのだろう。祝福して貰うゲストを呼ぶとなり、初めて直面したのかもしれない。


「私がどうなっても構わない。残りの人生全部を使って、あいつだけは絶対に幸せにするつもりだ――その覚悟だけは、ある」


 晶が力強く頷いた。必ず有言実行を貫くと、希未は確かな予感を得た。

 それが、ただ――悲しかった。晶の真意を知った今、瞳の奥が熱くなる。俯き、目頭を押さえた。

 苦笑する晶から、ポンポンと肩を叩かれた。


「お前が気に病むことじゃない。巻き込んでしまって、悪かったな」

「謝らないでください! そういう事情だとしても……あたしはあたしの仕事を、最後まで成し遂げます! 安心してください!」


 希未は顔を上げ、晶を真っ直ぐ見つめた。涙で晶の姿が滲んでいる。

 籍を入れられない同性婚の結婚式に、法的効力は無い。しかし、これは少なくとも晶にとって、覚悟を誓う儀式なのだ。ゲストからの祝福を求めていない。希未は今、そのように捉えた。結婚式のごく当たり前の概要を確かめた。

 そして、全力で支えたいと、これまで以上に強く思った。


「ああ、頼むよ……。このヘンテコな結婚式に、最後まで付き合ってくれ」


 晶は煙草を携帯灰皿に仕舞うと、軽く手を振って立ち去った。


「はい!」


 希未は小さな背中に頭を下げた。

 意外な理由だったが、真意を知ることが出来て良かった。さらなる熱い気持ちが込み上げる。

 しかし、ひとり取り残されて晶の気持ちを思い返すと――誰からも祝福されない式は、やはり寂しかった。

 瞳の奥は熱いが、泣けなかった。悔しくもあったのだ。

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