第12話

「のんちゃん、ちょっと待って」


 志乃の声に、希未は立ち止まった。明るいリビングに向かおうとしたが、振り返る。

 暗い寝室では――ベッドで横になったままの志乃が、ぼんやりとした瞳でこちらを見ていた。

 希未はベッドに腰掛けた。


「すいません。起こしちゃいましたね」


 化粧落としやシャワーはさておき、酔い潰れたまま寝ることが出来たなら、さぞ気持ちよかっただろう。少しの申し訳無さが、希未にはあった。


「ううん……。今日は、ありがとう。ご馳走してくれただけじゃなくて、ここまで運んでくれて」


 志乃の指先が、希未のダウンジャケットの袖に触れる。

 指輪が嵌っていなければ、爪はデコーレションやマニキュアで飾られてもいない。働き者の手だと、希未は思った。


「誰かとお鍋食べて、お酒飲んで、お喋りして……久しぶりだったから、すっごく楽しかったわ」


 どこか物寂しい声が、弱音のように希未には聞こえた。志乃にしては珍しいと感じる。

 まだこの地に引っ越してきて間もないのだから、知り合いが少なく寂しいのは当然だ。以前から思っていたことを、希未は改めて自分に言い聞かせた。自分は志乃にとって、特別ではない。


「あたしも、誰かとご飯食べるのは久しぶりでした。披露宴は、よく見てるんですけどね」


 希未は苦笑する。宴会とは少し違うが、披露宴の和やかな様子を――進行を確かめるために目にすることは、よくある。しかし、参加するわけでは無い。

 今夜にしろ、志乃が声をかけてくれなければ、いつも通りコンビニで夕飯を購入するつもりだった。自宅でひとり、晩酌をするはずだった。そのような生活に、すっかり慣れていた。

 以前、志乃と天羽晶のカフェに行った時も、気持ちが大きく揺れ動いた。

 結果的に、志乃と関わることで『くすぶっていた現在の自分』に良い変化が訪れている。何も無かった日常に、手応えを感じている。


「ご飯だけじゃなくて……また今度、どこか遊びにでも行きましょうか」


 希未は志乃の手から視線を外し、小さく漏らした。

 誘うことが恥ずかしいだけではない。叶わない願いになる可能性を考えると、怖かったのだ。

 志乃の柔和な人柄と面倒見の良さは、多くの人間から愛されるだろう。新しい生活が落ち着くにつれ、周りとも親睦を深めるに違いない。仕事の内外どちらも、志乃と同じ時間を過ごすことは確かに居心地が良かった。だが、志乃から構って貰えるのは、きっと今だけだ。偶然の出会いから始まり、歳が近いだけなのだから――

 希未はそのような未来を考えると、周りに嫉妬しそうだった。


「ええ、行きましょう。のんちゃんとなら……どこに行ったって、きっと楽しいわ」


 ベッドに置いた手に、志乃からそっと重ねられる。志乃の温もりが伝わる。

 そして、優しい言葉が――希未には涙が溢れそうになるほどに嬉しかった。いくら暗くとも流すわけにはいかず、ぐっと堪えたが。


「以前(まえ)も思ってたんだけど……のんちゃんの手、結構荒れてるわね」


 志乃から手のひらを表に向けられ、それを確かめるように手のひら同士を擦られた。

 希未は恥ずかしいが、もう言い逃れも出来ない状況なので諦めた。


「毎年、ケアが疎かになるんですよ。こういうところ、ズボラですから」


 それほど機会が多くないにしろ、せめて水仕事後はハンドクリームを塗ろうと思っていた。しかし、希未は過去から一向にその習慣が根付かなかった。


「成海さんはスベスベですね。仕事で荒れやすいはずなのに……えらいです」


 志乃の手の感触がそうだった。

 主に花を扱う仕事である以上、水に触れる機会は多い部類に入る。怠らず念入りに処置しているのだと、希未は思った。


「これ結構効くから、オススメよ。寝る前に塗るタイプだから、使いやすいんじゃないかしら」


 志乃が上半身を起こし、ベッドボードから丸い容器を取った。おそらくハンドクリームだろう。蓋を開けて中身を指先で掬うと、希未の手に塗りたくった。


「ちょ――成海さん。塗るぐらいなら、自分で出来ますよ」


 塗るというより両手で執拗に触られ、希未は恥ずかしかった。


「マッサージしながら塗ると、効果的なのよ」


 指を引っ張られたり、指圧をかけられたりしている。希未はマッサージを受けているというより『ツボ』を押されているような気がした。

 どのように効くのか、わからない。クリームから良い匂いが漂っていることからも、本来ならリラックスするところだろう。だが、志乃から手を触れられていることで、とても緊張していた。


「のんちゃん、お仕事頑張ってるんだもの。ちゃんと労ってあげないと」


 志乃が適当な発言をしている可能性も考えられる。そのように捉えれば、それまでだ。

 しかし、一緒に仕事をすることもあるので、希未は少なからず説得力を感じた。どれほどささやかでも肯定されると、嬉しかった。


「成海さんこそ……急な変更や無茶振りに応えてくれて、超頑張ってるじゃないですか。ありがとうございます」


 急な心変わりで注文が変わることは、つい先日もとある顧客から電話で受けた。その場は明るく対応するが、希未は憂鬱な気分で志乃に伝えた。

 それでも志乃は、嫌な顔をせずに承ってくれた。

 希未は今も、申し訳無さが消えない。改めて、感謝した。


「のんちゃんの頼みなら、何だって聞くわよ」


 志乃は希未のもう片方の手を取り、塗り始めた。

 当たり障りの無い内容――ただの相槌のように、希未には聞こえた。しかし真に受けるなら、自分だからこそ聞き入れて貰えていることになる。つまり、特別だ。


「貴方は真面目で良い人だから……」


 このタイミングだからか、志乃がよく口にしている『良い人』もふいに引っかかった。

 普段であれば、誠実という意味合いで肯定されていると捉えていた。だが頻度から、まるでレッテルを貼られるように、都合よく印象付けられているようにも感じた。

 とはいえ、志乃に限って何か回りくどい意図は無いと、希未は思う。


「って、これ寝る前に塗るんですよね? あたし、これから帰らないと」


 希未は話を誤魔化し、苦笑した。志乃の好意を無下にするつもりは無いが、そのようにも捉えかねない言動だと後にになって思った。


「それとも、せっかく塗ったんだから……このまま寝ていく?」


 志乃がベッドに横になり、布団を開けた。サイドに流した長い前髪と並び、見上げた目が不敵に笑っている。言葉と共に誘っていた。

 目、顔、身体――志乃の全てが、希未にはとても艷やかに見えた。否、魅入られていた。

 唾が上手く飲み込めない。自分の心臓の音が、やけにうるさく聞こえる。ベッドに腰掛けたまま、動けなかった。

 そして、この光景にどういうことか、天羽晶と澄川姫奈のふたりが脳裏に浮かんでいた。


「……なーんてね」


 無邪気な志乃の笑みに、希未は我に返った。


「そ、そうですよ。終電も近いんで、そろそろお暇します」


 慌ててベッドから立ち上がった。衣服は乱れていないが、どうしてか身なりを一度見下ろしてから、志乃に会釈した。


「玄関の戸締まりだけは、ちゃんとしてくださいよ? それじゃあ、今度こそおやすみなさい」

「おやすみ。気をつけてねー」


 ひらひらと手を振る志乃を尻目に、寝室さらにリビングを出る。リビングの扉の開け閉めは、ルルが出ないことに注意した。

 玄関の扉から外に出ると、寒さに身が震えた。乾いた冷たい空気を吸い込むが、落ち着かない。小走りでエレベーターに向かい、乗り込んだ。

 狭い密室で、手のひらに目を落とす。ハンドクリームでベタベタしていた。志乃の手の温もりと感触を、まだはっきり覚えていた。

 頭はひどく困惑している。酔いはもう覚めていた。


 志乃も――少なくとも部屋に送り届けた時までは、酔い潰れていた。それからの介抱でどうだったのか、希未にはわからない。

 そう。最後の冗談は酔ってのことだったとも言えるし、普段の調子だったとも言える。

 いや、この際どちらでも構わない。

 所詮は軽い提案だった。志乃としても、きっと深い意図は無かったはずだ。

 希未はこれまで同性の知り合いの部屋に泊まったことも、同じ布団で寝たこともある。志乃の言動は何らおかしくなかったと、頭では理解している。軽い気持ちで乗ることも、可能だった。

 たとえ頷いていたとしても、何事も無く朝を迎えていただろう。同性と同じベッドで寝るだけなのだから。

 深く考える必要は無かったのだ。それなのに――


「あたし、どうしちゃったんだろ……」


 志乃についての様々な『可能性』を考えてしまう。

 それらを誤魔化すように、両手を擦り合わせた。良い匂いに、少しだけ落ち着いた。



(第04章『花の無い部屋』 完)


次回 第05章『呼ばない理由』

希未は『stella e principessa』を訪れる。

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