27 ベッドの上の囁き


 廊下を進み、恐る恐るリビングを覗くと……ジンさんは、未だテーブルに伏せたままだった。



「ジンさん……大丈夫ですか……?」


 そっと尋ねるが、反応はなし。

 近くに寄り様子を見ると、すうすうと規則正しい呼吸音が聞こえる。どうやら眠っているらしい。

 

 ……本当に、ここまでお酒に飲まれやすいとは。

 私はジンさんの肩を揺すり、耳元で呼びかける。

 

「こんなところで寝たら風邪引きますよ? ほら、頑張って寝室まで行きましょう?」

「う……んん……」


 すると、彼はむくりと上体を起こし、開いているのか微妙な目をして立ち上がった。

 そのままフラフラと歩き出すので、私は咄嗟に寄り添い、身体を支える。


「廊下はこっちです。階段、上がれますか?」

「ん……」


 まるで寝ぼけた子供だ。彼の腕を肩に担ぐようにして、私は階段を上り、二階の廊下を進み、彼の寝室を開けた。


(むしろこのタイミングで眠気を催してくれてよかったかも……あのふわふわ甘々なジンさんと二人きりでいたら、私までおかしくなりそうだし)


 そんなことを考えつつ、彼をなんとかベッドへ横たえる。

 力なく転がるジンさんを見下ろし、私は「ふぅ」と額の汗を拭い、


「それではおやすみなさい。あ、カーテン閉めて……」


 おきますね。

 と、言い切る前に。


 

 後ろから、くいっと腕を引かれ――

 気付いたら、ジンさんの腕の中にいた。

 

 つまり――ベッドの上で、抱き締められているのだ。



 ベッドに沈む感覚と、温かな腕に包まれる感触。

 突然すぎる展開に混乱し、私は全身をかぁっと熱くする。


「なっ……ジンさん、起きていたんですか?!」

「……行くな」


 覇気のない声で呟かれ、鼓動が一気に加速する。

 胸に強く抱き寄せられているため、顔を見ることはできないが……これ、きっと寝ぼけているんだよね?


(お、落ち着け、私……これはただの事故。じきに眠るはずだから、それまでじっとして、うまくやり過ごすのよ)


 そう自分に言い聞かせるが、この状況で落ち着けるはずもなく……心臓が今にも飛び出てしまいそうな程に暴れ回っている。

 

 どうしよう。こんなの、ジンさんだって不本意なはずだ。

 やはり無理矢理にでも引き離すべきだろうか?

 

 などと、混乱状態の脳みそでぐるぐる考えていると……

 頭のすぐ上で、ジンさんがこう言った。

 


「君は……エミディオのような男が好きなのか?」

 


 なんの脈略もないセリフに、思わず「へ?」と聞き返す。

 すると、ジンさんは腕を緩め、私を見下ろし、


「……エミディオのことを、『かっこいい』と言っていた。俺は一度だって、君に言われたことがないのに」


 と……唇を尖らせ、拗ねたように言った。

 その表情があまりにも可愛らしくて、胸がきゅんと締め付けられる。

 

 まさかそんなことを気にしていたとは……エミディオさんだけ褒められて、プライドが許さなかったのだろうか?

 それとも……ヤキモチ? いや、それはないか。

 

 とにかく、そのセリフと表情にますます鼓動を加速させながら、私はこう反論する。


「い、言う機会がなかっただけで……ジンさんのことは、いつもかっこいいなって思っていますよ?」

「……本当に?」

「はい。優しくて紳士なところも、先生として堂々と講義しているところも、お料理を頑張っている努力家なところも……ちょっと意地悪なところだって、全部かっこいいと思っています」


 最後は声が小さくなってしまったが、照れ臭い気持ちを抑え、なんとか言い切った。

 すると、ジンさんは「ふふ」と笑い、


「そうか……それは嬉しいな」


 心底嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべた。

 その微笑みに、またきゅんとさせられる。彼の顔を直視できず、目を逸らしながら照れ隠しにこう返す。


「も、もう……ジンさんのことだから、今まで散々いろんな女の子から『かっこいい』って言われてきたでしょう? 今さら私なんかの言葉で喜ぶ必要は……」

「君だから、だよ」


 ……酔っ払って、眠気を催しているはずなのに。

 その声は、やけにはっきりとしていて。

 思わず私は、はっと彼を見上げる。

 

 すると……

 息が止まってしまう程の、真っ直ぐな瞳と出会う。


 

「――他の誰でもない、世界で一番可愛いと思っている女性ひとからの言葉なのだから……世界で一番、嬉しいに決まっている」



 ……なんて。

 真剣な目で、囁くように言うので……私は、時が止まるような感覚に陥る。



 今、なんて……?

 可愛い? 誰が? 私が?

 ありえない。私の聞き間違えか、彼の言い間違いか、そうでなければやはり酔っ払って寝ぼけているに決まっている。

 

 だって、こんな……

 こんな素敵な男性に、『世界で一番可愛い』だなんて……言われるはずがない。



 耳を疑い、すっかり固まっていると……ジンさんがくすりと笑って、


「……気付いたか?」

「……え?」

「今、『私なんか』と言ったな?」

「…………あ」


 そ……そうだった! 次『私なんか』って言ったら、狭い影の中に引き摺り込むって言われていたんだった……!!


「い、今のは、その……なんというか、アレで……!」


 ただでさえドキドキしているのに、暗くて狭い影の中で密着なんかしたら、いよいよおかしくなる……!

 私はジンさんの腕から逃れようと、必死に身を捩る……が。


「ひゃっ……!」


 逃れるどころか、ジンさんに、ベッドの上へ組み敷かれてしまった。

 つまり……彼に、押し倒されているような格好だ。


「まっ……待ってください! 流石にこれは……!!」

「……メル」


 低く、それでいて、どこか切なげな声。

 見上げた彼の瞳は、夜空のように青くて……見つめているだけで、吸い込まれてしまいそうで。


「……そろそろ、いいか?」

「え……」

「シナリオを……先へ進めても、いいか?」


 シナリオ……?

 それって、『復讐』のための計画ではなく……?

 

 彼の言葉の意味するところがわからず、何も言えずにいると……



「……時間切れだ。もう……待てない」



 そんなことを、吐息混じりに言うと――

 ジンさんはゆっくりと、顔を近付けてきた。


 

 ……待って。

 待って待って。え?

 これって、もしかして……

 

 私、このまま……ジンさんに、キスされる……?


 

 心臓がドクドクと、煩いくらいに鼓膜を揺さぶる。

 ジンさんの切なげな瞳が、一秒ごとに近くなる。

 


 これ……いいのかな?

 だって、彼と私は『雇用主』と『協力者』で、『復讐』のための一時的な関係性で……

 こんな、男女の一線を超えるようなこと、すべきではないはずで。

 間違いなくお酒の勢いだし、ジンさんだってきっと本気じゃない。

 

 でも……それでも…………

 私は、ジンさんのことが…………

 

 

「…………っ」


 もう、胸が苦しくて。

 そこから先は、何も考えられなくて。

 

 心地良い鼓動の高鳴りに身を任せるように、瞼をそっと、閉じた――




 


 ――のだったが。



 ……トサッ。

 

 と、そんな音がしたのは、私の耳のすぐ横。

 ハッとなって瞼を開けると、ジンさんの唇は、私ではなく……

 私の横にある枕に、キスをしていた。


 ………………え??


「じ……ジン、さん…………?」


 まさか、また揶揄からかわれた?

 それとも、男女の営みってこういう作法があったりする……?!

 

 状況が飲み込めず、恐る恐る声をかけるが……反応はなし。

 それどころか、


「………………」


 彼は完全に脱力し、すうすうと寝息を立て始めた。

 要するに…………寸止めで、寝落ちたのだ。


「…………ッ……!!」


 あぁもう、何これ?!

 せっかく覚悟を決めたのに! せっかく期待したのに!!

 こんな……散々気持ちを高ぶらせておいて、寸止めするなんて!!


 顔がかぁっと熱くなるのを自覚しながら、私に覆い被さるジンさんに、


「…………ばか……っ」


 そう呟いてやるが、やはり起きる気配はない。

 私は虚しくて、もどかしくて……目の前にあるジンさんの肩に、額をうずめる。


 

 ……ジンさんのバカ。

 これでもう……はっきりしてしまったではないか。

 

 私、今すごくがっかりしている。

 なのに、まだドキドキしている。

 

 それは、相手が貴方だから。

 優しくて、かっこよくて、紳士で、意地悪な貴方だから。



 ……本当は、ずっとわかっていた。

 けど、気付いてはいけないと、自覚してはいけないと、見て見ぬふりをしていた。

 でも、もう……無視することはできない。


 

 嗚呼、どうしよう。

 私、もう後戻りができない程に――――





 ジンさんのことが、好きになってしまった。




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