第2話




 レナは西にある小都市で生まれた。小さな頃から絵を描くのが大好きで、それも風景や人物ではなく、花や草木をモチーフとしてデザインを考えるのが何よりも楽しかった。

 初めは小さなハンカチやスカートの裾に刺繍を施していたが、年を過ぎるごとにその技術は進化していく。家族から親戚、仲の良い友人へと広がっていったレナの刺繍とデザインは、いつの間にかとある商家のご夫人の目にとまる。それが大層気に入ってもらえ、レナは弱冠十四歳にしてそのご夫人お抱えの職人兼デザイナーとなった。


「その方の紹介で、十六の時に男爵家のご子息と婚約したんです」


 リカルド・マイアー男爵子息は一言で言うならば愚鈍であった。貴族に生まれたからこそなんとか生活できてはいるが、これが平民であったならば相当な苦労をするだろう事は一目で分かる程に。それでも親にとっては可愛い息子で大事な跡取り。せめて妻となる相手はしっかりしていて欲しい。その要望に何故かレナが引っ掛かってしまった。

 レナは庶民であるが、商家のご夫人、そこから派生した人との繋がりのおかげで庶民にしては知識を学んでいた。その頃には小さな輪ではあるけれどもレナがドレスのデザインを請け負ってデザイン画を描いてもいた。年若いのに自力で収入を得ている。それらがどうにもお眼鏡に適ったらしい。

 男爵家からの必死の説得と、世話になっているご夫人からの紹介というのもあってレナは最終的にリカルドとの婚約を受け入れた。愚鈍ではあるが性格まで腐っているわけではない。レナがこれまでしてきた事に関しては素直に賞賛してくれるし、交流のある他家の令嬢にそれとなく宣伝をしてくれたりもした。息子のそんな姿に男爵夫妻は大層喜び、これも一重にレナのおかげだと喜んでいた。


 だが、その年の冬。領主主催の夜会の場にて騒ぎは起こった。


「私を婚約者として正式にお披露目する場でもあったんですが、その時に……別のご令嬢の手を取って姿を見せたんですよね……」

「婚約披露の場で……?」


 エリアスの信じられないとでも言わんばかりの表情にレナは静かに頷く。


「あげく、そこで婚約破棄をしたいと言い出しまして」


 衆人環視の前で突如言い放たれる婚約破棄。もちろんレナにそんな事を言われる様な非はない。彼曰く、「僕の心はすでに彼女と共にあるんだ」と完全に自己陶酔状態だった。


「あとから知ったんですが、その時彼と一緒にいたのは伯爵令嬢の方で……たしか、ネナーテ様とかそんなお名前だったんですが」

「伯爵家との繋がりのために、貴女との婚約を破棄するなんて暴挙に出たんですか?」

「……それならまだよかったんですが」


 その目論見だってありはしたのだろう。だが、それ以上に彼は砂糖菓子より甘くて脆い「真実の愛」とやらに目覚めたと主張し、そして令嬢の方はどうやらレナから婚約者を奪ったというのが楽しい様だった。


「正直その方にそこまで恨まれる覚えはなかったんですけど、どうもそうだったみたいです」

「そんなことのために……婚約破棄?」


 エリアスの常識からは到底信じられないのだろう。ドン引きもドン引きの顔で固まっている。ですよねえそうなりますよねえ、とレナはうんうんと頷くしかない。


「でもそれでは貴女はなにも悪くはないじゃないですか」

「ええ……そこで終わればそうだったんですけど……」


 いくら相手が庶民だからといってもこれはあまりにも一方的すぎる。夜会の場であるというのも論外だ。貴族としてあるまじき行為であると、同じ貴族からもリカルドとネナーテは侮蔑の視線を浴びていた。だが、自分に酔っている彼らはそれに気付かず、さらに婚約破棄を強行するためにととんでもない事を言い放った。


「ネナーテ様はすでにリカルド様の子供を身籠もっている、って言いやがってくださったんですよねあのクソヤロウ……」


 エリアスは絶句する。レナは盛大に息を吐き出した。


「私と婚約をしている状態で浮気をしていただけでなく、身体の関係まであると自ら暴露したものですから」


 ついにはレナはキレてしまった。それはもう盛大にキレた。


「馬鹿じゃないの、っていうか馬鹿! 馬鹿だわ大馬鹿よなにやってんのよこの馬鹿! ええ知ってたわよあんたが典型的な馬鹿息子だってはじめっから知ってた! けどねあんたのご両親はそりゃあ良い方だもの! そんな方の血を少なくとも継いでいるんだからいつかあんたもそうなるかもねってのもあってくそ面倒な貴族の世界に足突っ込んだっていうのになに!? なにやってんのこのボンクラぁっ!!」


 レナは庶民である。近所には力仕事で活躍する根は良いが気性は荒い猛者が多くいた。その影響、とは言いたくないが、おかげでレナの口は他の少女達と比べてわりと悪かった。

 そんなレナから放たれる罵詈雑言はリカルドとネナーテだけでなく、普段そういった怒声を聞かない貴族の令嬢子息達をも怯えさせた。


「百歩譲って婚約破棄するのはいいわよ! でもだからって今!? ここで!? 言う必要あった!? 私は元より、婚約者がいるのにそれを奪ったっていうのがまるわかりよ!? そんな状態に真実の愛のお相手だっていうそこのオヒメサマ晒すとか正気!? ああ正気じゃないわよねあったらこんな真似しないしそもそもあんたに正気なんて無かったわ!!」


 怒り心頭のレナは周囲が凍り付いているのに気が付かず、淀みなく滑らかに罵倒を続ける。

「この時点で万死に値するってくらいなのに子供……子供って! ほんとなにやってんのよただでさえボンクラクソ息子だったのにここにきて下衆要素まで加わるってこれ格上げなの格下げなの! どっちにしろ人として底辺も底辺になったわけだけど今更あんたがどうなろうといいわよそれよりこれから生まれてくる子供のこと考えなさいよ! こんな形で存在知られちゃったらもう一生この話がついて回るじゃないのその子供に!!」


 婚約者がいる相手と浮気をし、その状態で子まで成した。それだけでも白い目で見られるだろう。だが、その事実は隠そうと思えば隠せるものである。こうやって、大勢のいる場で口にさえしなければ。


「あんたら二人が世間からどう見られようとほんっっとうに構わないわ! 一生ひそひそされてればいいしそんなの気にならない神経してるでしょ! 私もいいわよ何一つ悪いことしてないもの言いたいヤツは好きに言えばいいしねその分全力で言い返すけど!! でもね、あんたらの子供はそうはいかないでしょ!! 一番あんたらが守らなきゃいけない存在を、今の時点で最悪の状態に置くってどういう神経してんのよこのド屑共がぁっ!!」


 婚約を破棄された怒りや悲しみよりも。

 人前で辱められたという羞恥よりもなによりも。

 新たにこの世に生を受ける子供が、すでに不義の子であると晒されているのが何よりも一番レナは許せなかった。

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