第3話 熟した蕾の花嫁3
蕾宮から一台の輿が出てきた。美しくしっかりした作りながら華美な装飾品が施されているわけでもないその姿は、乗っているキーシュの性格を表しているかのようだった。
輿はΩ宮の門を通り抜けて皇宮の奥の道を進み、西の大手門を出てから貴族が多く住む居住区へと入った。人の目を気にしていたキーシュだが、こうした輿は見慣れているのか様子を伺う人影はない。ただ静かに美しい邸宅が並ぶ大きな通りを進んでいく。
「ここに今日から住むのか」
到着したのは立派な門を持つ屋敷だった。窓の隙間から覗いただけだが、建物に繋がる道も庭も相当立派に見える。正面の門から随分進んだところで輿が止まったということは、奥の部屋に直接連れて来られたということだろう。
(第二夫人くらいかと思っていたけど、それより下だったかな)
おそらく自分の存在を公にしたくないに違いない。皇帝に下賜されたΩだとしても、夫人や親族の手前そっと招きたいαの気持ちは何となくわかる。だからこんな奥まった場所まで連れて来られたのだろう。
輿から降りたキーシュは、侍女らしき女性に先導され建物の中に入った。静かな廊下を進み、繊細な模様で飾られた扉の前に立つ。
(ここに仕えるべきαがいる)
婚姻という形ではあるものの、キーシュは主君に仕えるような気持ちでいた。そう思わなければ四日前に触れたシュクラの熱を思い出し胸がざわついてしまう。最後の思い出を胸に気持ちを切り替えようと考えていたはずなのに、結局心は乱れたままだ。
それに気づかれないためにも、これから会うのは主君だと思うことにした。幸い、没落貴族だったキーシュにも主君がいた。十五歳からの二年弱、主君の近くで仕えるための心構えも学んでいる。そのときのことを思い返しながら開いた扉の奥へと足を踏み入れた。
そこにいたのは意外な人物だった。
「……シュ、クラ」
貴族然と椅子に座り待ち構えていたのはシュクラだった。蕾宮で見ていたときとは違う、まるで高位貴族のような格好をしている。
「なぜ、きみが……」
思わず口に出た言葉にハッとした。状況はわからないが、少なくともシュクラは今回自分を娶ったαの関係者に違いない。関係者を敬称なしに呼んだり「きみ」と呼ぶのは不敬に当たる。
キーシュはゆっくりと床に膝をつき、両手を組み頭を下げた。シュクラがどういう関係者かわからないものの、動揺を見せるわけにはいかない。口づけのことなどなかったかのように振る舞わなくてはと気を引き締める。
「顔を上げてください」
いつもと変わらないシュクラの声に体が小さく揺れた。そのせいで普段身に着けることがなかった耳飾りが小さく鳴り、それがキーシュに小さな不安を与える。
「ほら、顔を上げて」
床を歩く音が聞こえる。頭を下げ続けるキーシュの視界に美しい刺繍が施された靴が映った。
「顔を上げて、キーシュさん」
「……っ」
すぐそばでシュクラの声が聞こえる。そうして肩に触れられ今度こそビクッと震えてしまった。
「大丈夫、怖がらないでください」
肩に触れていた手がするりと背中に回り、包み込むように優しく抱き寄せられた。
「怖がらないで。あなたは俺の妻になる人なんですから」
シュクラの言葉に、キーシュは「え?」とつぶやくことしかできなかった。
「さぁ、部屋に案内します」
手を引き、まるで幼子を案内するかのようにシュクラが歩き出す。キーシュは何も言うことができないまま、ただシュクラのあとを戸惑いながらついていった。
案内された部屋は、まるで蕾宮のような雰囲気をしていた。「シュクラはただの高級官吏の息子ではなかったのか?」と思うほどの豪華さに困惑する。窓に近い場所に置かれた椅子に案内され、座るように促された。
「とりあえずお茶でも飲みませんか?」
「……ありがとう」
差し出された茶器の蓋を取ると、芳しい香りが鼻をくすぐった。
(これは西のお茶だ)
Ω宮に来るまで毎日のように飲んでいたお茶の香りに「なぜこんな高価なものを?」と疑問に思った。東にある帝国では西の国の物は総じて高価になる。帝室や高位貴族なら手に入れられるだろうが、高級官吏の息子がそう易々と手に入れられる品ではないはずだ。
疑問に思いながらも懐かしい香りに口をつけた。ふわりと香るのは茶葉につけられたベルガモットの香りで間違いない。
「……おいしい」
「よかった」
久しぶりに口にしたお茶は懐かしく、キーシュの口元が少しだけほころんだ。すると、今度は香ばしい焼き菓子の香りが鼻をくすぐる。
「さぁ、こちらもどうぞ」
「これは、」
「たしかまどれぇぬ、とか言いましたか」
「……こんな高価なものを、どうして」
「妻に喜んでほしいと思うのは東の国の男も同じですからね」
妻という言葉に、キーシュはハッと顔を上げた。そうだ、シュクラは自分を妻だと言った。たしかに目の前にいるのはシュクラだが、そんなことがあるはずがない。いくらΩ宮を管理監督する高級官吏の息子だったとしても、皇帝からΩを下賜される身分ではないはずだ。
「本当にきみが僕を……その、娶るのか?」
「はい」
「……本当に?」
「もちろんです。それとも、俺に娶られるのは嫌ですか?」
そんなことあるはずがない。そう思っても、キーシュはどう答えていいのかわからなかった。
「あ、変な心配はしないでくださいね? ちゃんと陛下の許可をいただいて娶るんですから」
「……いくら高級官吏の息子でも、蕾宮のΩを下賜されるとは思えない」
「あぁ、そのことですか」
そう言ってにこっと微笑んだシュクラは、お茶をくいっと飲んでからもう一度キーシュに笑いかけた。
「俺の母親はΩ宮を監理する高級官吏ですけど、父親は前の皇帝なんです」
「……何だって?」
「いまの皇帝陛下は母違いの兄にあたります。十八歳違いなうえに身分的には俺のほうがずっと下なんですけど、兄弟でαは陛下と俺だけなんで意外と仲良しなんですよね」
「それでもキーシュさんのことは、ちょっと時間かかりましたけど」と言いながら、今度はマドレーヌを摘んでぱくりと口に入れた。
「キーシュさんは“運命の番”って知ってますか?」
「聞いたことは、あるけど」
「滅多に出会えないらしいですけど、俺は運良く巡り会えました。ま、これも俺の日頃の行いがいいからでしょう。それでも手に入れるのに十年以上かかってしまった。自分が運命の番に出会っていないからって、陛下も意地悪ですよね。でも、陛下にもようやく運命の番が現れた。それで機嫌良く願いを叶えてくれたというわけです」
キーシュは混乱していた。シュクラが自分を娶ることにも驚いたが、皇帝の弟だということが衝撃的すぎてほかの話が耳に入って来ない。そこに噂でしか聞いたことがない“運命の番”という言葉を聞かされても理解しろというほうが無理な話だ。
「キーシュさんは俺の運命の番です。間違いありません」
「ちょっと、よくわからないんだけど」
「そういえば、西のほうではあまり言わないんですっけ」
「それはわからない。そもそも僕は十七でΩだとわかったから、西のΩのことにはそれほど詳しくないんだ」
「そうだった、随分遅くにわかったんでしたね。おかげでお手つきなしで帝国に来た。俺としては万々歳です。まぁ誰かのお手つきになっていたとしても、当然奪い取りましたけど」
「ちょっと待って、いろいろ混乱していて理解できないんだ」
茶器を置いたキーシュは額を右手で覆いながら息を吐いた。シュクラが自分を娶ることになったらしいことはわかった。皇帝の弟というのが本当かはわからないが、これだけ立派な屋敷に高価な西の品を用意できるのならそうなのだろう。
「そのうえ、運命の番って……」
Ω宮にいると、どこからともなく流れてくる噂話を耳にすることがある。その中でもΩたちがこぞって口にしていたのが“運命の番”だった。
αとΩには、この世でたった一人しか存在しない“運命の番”と呼ばれる相手がいるらしい。何よりも強固な絆で結ばれていて、婚姻を結べば間違いなく幸せになれる相手だという話だった。
キーシュはただの噂話、夢物語だと思っていた。皇帝のお渡りをひたすら待つしかないΩ宮のΩたちの暇潰しだろうと話半分で聞いていた。ところがシュクラは“運命の番”の相手が自分だと言うのだ。
「だから僕を娶ったというのか?」
「きっかけはそうです。あなたがΩ宮にやって来た十三年前、俺にはすぐにピンときました。あなたこそが俺のΩだとすぐにわかった」
「十三年前って、きみはまだ十歳にもなっていないじゃないか」
「はい。あのときは自分の年齢にどれだけ歯ぎしりしたことか。おまえのような子どもにΩは与えられない、あのΩは皇帝への献上品だと言われブチ切れそうになりました。まぁ、おかげでαとしての自覚が強まったみたいで、あなたに匂いをつけまくることができたんですけどね」
「匂い……って、マーキングか」
「西ではそう言うんですか。まーきんぐ……何やら卑猥な雰囲気ですが、心躍らされる気がします」
唇に右手人差し指を当てながら小さく笑うシュクラの表情に、キーシュの背筋がぞわっとした。これまで何度も見てきた笑みとは明らかに違う。優しく朗らかな笑みではないその表情は、匂い立つような男を感じさせるものだった。
「母の力を使って蕾宮に入り、これでもかと匂いづけ、まーきんぐをしてきたんです。地位のあるαなら蕾宮に入ることができる。そこであなたに目を付けられでもしたらたまりませんからね」
「それであんなに頻繁に潜り込んでいたのか」
「もちろん陛下にも手を出さないようにお願いしていました。金髪に興味津々だったみたいですから、俺が釘を刺さなかったらすぐにお手つきになっていたでしょう。さすがの俺でも開花宮のΩを奪うのは骨が折れますから、先手を打っておいて正解でした」
シュクラの話に目眩がした。再び額に手を当てたキーシュは、今度こそ深いため息をついた。
(こんなことなら、あの日口づけなんてしなくてよかったんじゃないか)
した瞬間もその後も思い出すだけで胸が苦しくなった。一生の思い出なんて望まなければよかったと後悔すらした。
「先に話してくれていればよかったのに」
「話をするために、あの日蕾宮に行ったんですよ。そうしたら大事な絵を捨てようとしているし、しかも突然口づけたりするし。あまりにびっくりして掴まえ損ねました。それから今日までは屋敷の準備で蕾宮に行くこともできなかった」
結局、自分がしたのはただの空回りだったということだ。三十歳にしてこんな状態とは、本当におぼこ過ぎて恥ずかしくなる。キーシュは顔を見られたくなくて額を覆う右手で目元を覆い隠した。
「まぁでも、こうして無事に迎えることができたのでよしとします」
目を覆っていたキーシュの手にシュクラの少し大きな手が重なる。いつの間にそばに来たんだろうか。足音もなく近づいたシュクラに驚きながら、触れている手の熱が気になって仕方がない。
「それに口づけで俺を煽ったのはキーシュさんのほうですから、今日からは思う存分あなたへの思いを体で表したいと思っています」
「え?」
顔を覆っていた右手を取られ、シュクラの顔を見上げる。微笑みと鋭い眼差しを混ぜ合わせたような視線に射貫かれたキーシュは、背中をぞくりとしたものが走り抜けるのを感じた。
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