第7話

 夜中に部屋を抜け出すという、姫としてあるまじき行動をしたのは、よほど気があせっていたからだろう。

 かつて聞いた魔物についての講義が頭にうかんで離れず、寝ていることなどできなかったのだ。


 インキュバスがもっとも恐ろしいのは、決まった姿かたちを持っていないことだと家庭教師は説明していた。

 幼生体は様々な魔物の姿に擬態しているから、繭の中で変化するまでインキュバスであるかどうかがわからない。

 だから直前まで正体に気づかず、対処が後手にまわってしまう……。


 皆が寝静まっているのを見計らい、わたしはひそかに扉を開けて通路に出た。

 どうしてもメイナをみつけたかった。泣いているならなぐさめてあげたかった。


 城の中庭にある井戸小屋は、彼女が侍女頭に叱られて泣くときに決まって逃げ込む隠れ家だ。

 出てこない侍女を迎えにいくのはたいていわたしで、小屋のすみで縮こまっているところを連れ出したことが何度もある。

 だから、今回もそこにかくれたまま出てこられないのではないかと思ったのだが……。


 一階の中庭側にある柱廊から歩み出て、勢いのまま庭の中央に向かって進んだところで、わたしはふいに立ちすくんだ。

 美しく刈り込まれ整えられているはずの灌木の列が、黒々とした不気味なかたまりとなって、行く手をふさいでいる。

 その向こうにあるはずの井戸小屋の、かわいらしい三角屋根は、闇にとけこみ場所さえどこかわからない。


 雲にかくれて月光は届かず、柱廊のところどころにそなえられた燭台のあかりは、庭先をてらすにはあまりにかぼそい。

 あきれたことに、わたしは手燭すら持っていなかった。そんなものを持っていたら目立つと思い、おいてきてしまったのだ。


 暗闇の持つ圧力が壁のように屹立してきて、突然わたしの周囲を取り巻いた。

 恐怖がのどを締めつける。襲いかかってきた魔物の記憶がよみがえり、インキュバスの本体がいまだに生きているという事実を思い出し、膝がふるえて前に進めなくなった。


 進むのではなく戻りたいのだ。我ながらあきれるような愚かさだ。

 いくらメイナでも、こんなときに井戸小屋なんかにかくれているわけはないのに。


 北の塔に閉じ込められているという魔物が、扉を破って出てきたらどうするの? 

 この闇の中に僕たちがひそんでいたらどうするつもり? 

 わたしがこんな場所にいるなんて誰も知らない。僕に変えられてしまっても、誰ひとりとして気づかない。


 こわくて向きを変えることさえできず、ようやく動いた足でよろよろとあとずさった。

 そのとたん、背中が何かにぶつかった。

 生暖かく、大きなもの。


 声を限りに悲鳴をあげた……あげたつもりだったが果たせなかった。

 そのかわりに耳元で聞き覚えのある若者の声が、押さえた、けれどひどく不機嫌な調子でしゃべった。


「大声出すなよ、魔物が出たと思われるだろ。なんだってこんなところにいるんだ」


 掌でしっかり口をふさがれているので返事ができない。

 振りほどこうとしてもがくと、今度は乱暴な動作で突き放された。


「さっさと中に戻れ。あんな目にあったのによく散歩なんかしていられるな」

「さ、散歩……」

「散歩じゃなけりゃかくれんぼか? どうやってここまで来たんだ。警備兵がいただろう?」


 兵は……たしかに見かけたが、たまたま交代しているときだったり、わたしが姿を隠したりしていたら、いつのまにかここまでたどりついてしまった。

 つっかえつっかえ、そう返答すると、彼はあきれたように舌打ちした。


「まったく……そんなふうだから簡単に魔物にやられるんだ。あんたもあんただ。お姫さまってのはどうしてこう怖いもの知らず……」


 急に言葉を切ったのは、わたしの瞳が大きくうるんだことに気づいたためらしい。

 どうしよう、兵士たちが勇者さまに叱られてしまう。わたしのせいで、わたしが勝手なふるまいをしたために。


「へ、兵たちを叱らないであげて。わたしがいけないの。あの人たちは一生懸命わたしを守ってくれて……」


 暗闇で剣士に出会った安堵感と、その剣士を怒らせてしまったというショックが混じり合い、情けなく声がふるえる。

 わたしは泣き出さないように、今度は自分の両手で自分の口をふさごうとした。


 熱く湿った物体が突然頬に押しつけられてきたのは、そのときだった。

 その物体にぐいぐい押されて思わずよろける。異様に熱い息が、顔に吹きかけられてくる。


 それはなんと馬の鼻づらだった。もちろんただの馬ではなく、天馬だ。

 先ほど背中にぶつかったものの正体でもある。


 人なつこい大きな瞳が、わたしの瞳を近々とのぞきこんできた。

 分厚い舌に遠慮なく頬をなめあげられて、わたしは驚きのあまりひっくり返りそうになった。


「やめろよ、リド」


 剣士があわてたように間に入ろうとした。


「相手はお姫さまだぞ。行儀悪いこと……いてっ」


 鼻づらで勢いよく小突かれて、今度は剣士のほうがよろけた。

 さらに何度も小突きまわされて小さな悲鳴をあげる。


「やめろって、ちょっとかわいいがいるとすぐ興奮するんだから。あ、もしかして怒ってるのか? 別に姫君を泣かせようとしたわけじゃ……」


 夜の庭で頭を振っている天馬は、翼を白鳥のようにたたみ、豪華でたっぷりした羽毛のマントを背中に羽織っているように見えた。

 そのマントがふいに純白の輪郭を帯び、ふさふさしたたてがみも、また純白にきわだった。

 風に流された雲のすきまから、月光がおりてきたのだ。

 月の光が天馬と、天馬にかまわれている剣士を照らし出し、わたしは思わず目を見開いた。


 じゃれあってる……。


 剣士を包んでいた近寄りがたい雰囲気が、月明かりの下でふわりとほどけて、予想もしなかった別の表情がひらめいた。

 無防備でやわらかな笑顔。

 天馬を小突き返しているその様子には、少年と呼んでもさしつかえないような気配がただよっている。


 魔法剣で魔物を成敗してくださった勇者さまに対して、少年なんて。

 わたしは自分の失礼な思いつきに赤くなりかけたが……。


 突然、気がついた。彼が本当にとても若いということに。

 わたしと同じくらいの若さなのだということに。


 ラキスがラキスであることを、わたしがきちんと認識した、それが最初の瞬間だった。

 聖獣にまたがり東の空からあらわれて、光り輝く剣をふるった様子から、天上人のように感じていたけれど。

 そうではない。

 愛馬につつかれては目元をゆるめる、まだ二十歳はたちにもならない生身の人間──。


 ラキスが驚いたように動きをとめて、自分の腕に視線を落とした。

 わたしがいきなり手をのばし、彼の着ているチュニックの袖をひいたからだ。


「人を」


 わたしは我知らず口走っていた。

 自分と彼との境界線が、何か別のものになり変わったような感覚にとらわれながら。


「人を探しているの。メイナという名の女の子を。どこかで見かけなかった? いなくなってしまったのよ」


 ラキスにとっての境界線は、依然として同じだったはずだ。

 だが急な質問に興味をひかれたのか、彼はわたしの言葉を無視せず、逆に問い返してきた。


 「……それが散歩の理由?」


 わたしはうなずき、侍女の外見についてくわしく説明した。

 彼は天馬とじゃれあうのをやめて話を聞いていたが、聞いたわりにはそっけなく「見なかった」とだけ答えた。


「あなたが見なくても、ほかの誰かの話とか……」

「女こどもが外にいたら首ねっこをつかんで連れ戻してるし、そんな報告も受けていない。だいたい、こんなときにふらふら出歩くような奴がどうなっても知ったことじゃないしな」


 彼は、出会ったときにはつけていなかった、ごく簡単で軽い皮の鎧を身につけていた。

 その装備からも、いまが休息時間ではなく戦闘のさなかであるということがわかる。

 たしかに侍女などにかかわっている暇はないのかもしれない。


「でも……」

「城全体を虱つぶしに調べて僕が残っていないかどうか確かめたから、メイナとやらが城内にいれば、そのときに気づいたはずだ。ちなみに、この庭も念のために見回ったところだが、もちろん誰もいなかった。あとは……」

「あとは?」

「気がつかない場所といえば北の塔くらいだな。あそこは外から封鎖しただけで、中はまったく見ていない」


 わたしは息を呑んだ。まさかあの中に……でも考えてみれば、あそこは無人の塔ではないはずだ。


「だって中には人がいたでしょう。まったく見ないでなんて」

「見てる時間なんかあるわけない。封鎖だけで精一杯だった」

「でも、それじゃ中の人が出られない……」


 言いつのろうとしたわたしは、ラキスが奇妙な目つきでこちらをみつめていることに気がついた。

 やがて彼は静かにたずねた。


「あんた、あの塔に入ったことは?」

「……いいえ」

「だろうな。じゃあ、あの中に何があるか知っている?」

「それくらい知ってるわ。備蓄の食糧とか薪とか。それから……地下牢が」


 自分の言葉が氷の塊となって、喉元にせりあがってきたような気がした。

 口を押さえて黙りこむと、ラキスは話を打ち切るように向きを変え、天馬の首すじを軽く叩いた。


「まあ、そういうことだ。侍女がもしあの中にいたとしても、あきらめなよ。どうしようもない」

「…………」

「明日は大捕り物になるかもしれないから、おれもリドもそろそろ寝たいんだ。もう行っていいかな。お姫さまも早く部屋に帰りなよ」

「……明日」

「ひとりで帰れないなら送っていくけど」

「明日、何をするの。あの塔をどうするの」


「火をかける」

 と、ラキスが言った。なんの感情もない声で。ごくあたりまえの話をするように。


「塔ごと、焼き討ちにする」



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