第4話 蛇神伝説

 古老はこう伝える。継体天皇の時代、箭括やはずうじ麻多智またちという者がいた。この者は郡の役所の西方にある谷を専有して、開墾し、新たに田んぼをひらいた。


 このとき、夜刀やとの神が群れをなして仲間とともに、そのすべてがやって来て、あちこちで妨害を行い、田んぼの耕作をさせないようにした。


 土地の人々が言うには、「蛇のことを夜刀の神と呼ぶ。その形は、体は蛇で、頭に角がある。みんなで逃げるときに、一人でもその姿を見てしまえば、その一家一門は破滅し、子孫も断絶してしまう。大体において、この蛇は、郡の役所の近くにある野原に多く住んでいる」とのことだ。


 夜刀の神の行為に、麻多智は怒り狂い、甲冑を着けて、自ら武器を手に取って、蛇どもを打ち殺し、追放した。それから、麻多智は山の登山口に、標識として杖を立てて、夜刀の神に宣告した。


「ここより上は神の土地とすることを許す。そして、ここより下は人間の田園とする。今後は私が神を祭る役目を負い、お前たちを末永く祭ろう。だから、祟るでないぞ、恨むでないぞ」


 麻多智は、社を建て、夜刀の神を祭り始めた。そして、さらに一〇町ほどの田んぼを耕した。麻多智の子孫は代々受け継ぎながら祭りを行い、いまに至るまで絶えず続いている。


 その後、孝徳天皇の時代、壬生連麿みぶのむらじまろという者が谷を占領して、池の堤を築き上げた。


 そのとき、夜刀の神が現れ、池のほとりの椎の木にのぼり集まって、いつまで経っても去ろうとしなかった。


 麿は大声で言い放った。


「この池の修理をするのは、我らが民のための事業である! どこの神だ、大王の教化に従わない者どもは!」


 続けて、工事の人夫たちに告げた。


「目に見える範囲のすべてのものを、魚でも虫でも、かまうことない、殺してしまえ!」


 たちまち、夜刀の神は、逃げ隠れてしまった。


 ※ ※ ※


 最初は麻多智という男により、田んぼを荒らす夜刀神は撃退された。一方で、山と田の境界線が引かれ、田は人の領域、山は夜刀神の領域として、住み分けが施された。そこまでは良かったのだが、後年、壬生連麿という男によって夜刀神はまたも虐げられた。


 その後、夜刀神がどうなったのか、定かではない。


 なんであれ、気持ちのいい話でもなければ、含蓄のある話でもない。ただ権力者の横暴を記しただけの物語である。


「おはようふわあ」


 もう講義終了の間際になってから、あくび混じりに教授がゼミ室に入ってきた。無精髭が生えているが、これは寝坊したからではなく、単にいつも剃っていないだけのこと。


 ゼミの教授、水沢豪みずさわごう


 彼は、日本人離れした彫りの深い顔をしており、外見は悪くないのだが、素行に問題があるので有名だ。宴席となれば、やたらめったら女の子にキスをしようとし、挙句の果てには教え子の肩を抱いてホテルへ連れこもうとしたこともある。


「遅いです、先生」


 ゼミ生の一人が文句を言った。


「すまん。ちょっとホテルで寝過ごしてな」


 教授は片手で拝みながら笑顔で謝った。ちっとも悪いとは思っていない様子だ。やけに表情が晴れやかなのを見ると、ホテルで誰かと一晩過ごしたのかもしれない。あまりにも行動が自由すぎる。


 終了のチャイムが鳴った。


「あら、終わっちゃったな」


 他人事のように周りを見回している教授。


「ま、いいか。課題書いてるやつから、途中でもいいから、とりあえず提出してくれ」


 投げやりな物言いに、ゼミ生達は呆れ顔で肩をすくめながらも、教授に課題のプリントを提出する。渡し終えた者から順に、部屋を出て行く。


 最後に、蓮実だけ残った。


「ん? 長峯、お前はどうした?」

「すみません、まだやっていません」


 来週から試験期間に入る。提出するタイミングは今週の木曜日、前期最後のゼミしかない。この時期になっても課題が完成していないのは単なる蓮実の怠慢だ。


「おいおい、どうするんだ。あと実質三日しかないぞ」

「徹夜して頑張ります」

「そんな適当なレジュメ渡されてもな」


 適当な講義しかしない男が何を言う、と蓮実は言い返してやりたかったが、抑えた。


「題材は決まってるのか」

「『常陸国風土記』にします」

「あれか。しかし三日で仕上げるには骨の折れるやつだぞ。風土記の中でも堅苦しい文章のくせして、比喩的な表現が多く、史書よりは文学に近い作品だ。書かれていることの解釈だけでも相当な時間がかかる」

「それでも、やります」

「しょうがねえなあ」


 バリバリと無精ヒゲを掻き、困り果てた顔の教授だったが、やがて頷いた。


「よし、わかった。俺の部屋まで来い。個人指導してやる」

「えっち」


 蓮実は自分の身を抱き、ジロリと睨みながら、教授から距離を置く。


「おい、ちょっとは俺を信じろよ! そこまで見境ないわけじゃないんだぞ!」

「信じられません。ゼミの最初の飲み会で、私に向かって『金を払うから踏んでくれ!』とカミングアウトしていたのは、どこのどなたでしたっけ」

「あの時は出来心だっ」

「胸張って威張らないで下さい」


 バッグを持って、ゼミ室を出ようとする。慌てて教授が前に立ち塞がってきた。


「わかったわかった。ヘソ曲げるな。下手なレジュメを出されてもかなわん。いまこの場でアドバイスだけしてやる」

「お願いします」

「ったく、課題間に合いそうにないお前が悪いのに、なんで俺のほうが……」


 文句を言いつつ、教授はホワイトボードにマーカーを走らせる。そこに記載された単語を見た瞬間、蓮実は険しい表情になった。


「それに絞れと?」

「あのな、『常陸国風土記』全部調べる気か? 量が多すぎて収拾つかなくなるぞ。他のやつらだってテーマは絞っている。お前も少しは頭を使え」

「本当にこのネタだけで書き切れるんでしょうか」

「おう。一番書きやすいのがこいつだ。もう少しヒントをやると、蛇神信仰と絡めて書け。そうしたら原稿用紙一〇枚分なんてあっという間に書けるだろ」


 もう一度蓮実はホワイトボードに目をやった。


 夜刀神。


 その三文字の漢字が、禍々しいものとして、蓮実の目には映っていた。


「ところで、最近は体調悪くなったりしないのか」


 廊下に出る時、教授が後ろから声をかけてきた。振り返ってみると、神妙そうな表情で、こちらを見ている。


「たまに、まだあります」

「そうか」


 教授はあさっての方向を見て、独り言を呟くように、口をもごもごと動かした。


「まあ、その、無理するな。いざとなれば単位なんて俺の裁量で――」

「不正は嫌いです」


 自分の抱えている問題を憶えてくれていたことに、ちょっぴり嬉しさを感じながらも、教授の助け船をピシャリと跳ねのけ、蓮実は部屋を出ていった。

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