3 亜津馬(1)
亜津馬は名のある家柄では無かった。
元は農民の出身で日々を生きるのに困窮するほどだった。子どもを授かっても五つを迎える前に栄養失調で命を落とすのが日常だった。当然、年貢を納めることは出来ない、貧しい生活を送っていた。
徳川時代が終焉を迎えようという時分にひとりの革命児が生を享けた。
名を壹彦と言う。
壹彦は異質な存在だった。体が丈夫で頭脳も明晰、容姿も恵まれた。何よりも商売の才能に長けていた。壹彦の誕生は繁栄を齎したと言っても過言では無かった。コウノトリが赤子を連れて来るとまことしやかに囁かれているように、壹彦の誕生によって、凡てが良い方向に動きはじめたわけでは決してなかった。
苦しい生活はそれでも続いた。
食うものは凡て息子に与えた。この子だけは、この子だけは死なせてはならないと決死の覚悟で両親は壹彦を育てた。
順調に成長した壹彦に教育を施すために奉公先を探した。今のままでは息子は傑物になれないと悲観した末の行動だった。
奉公先はなかなか見つからなかった。イネは焦った。いくら丈夫な体と雖も何時何時壊すか判らない。どれだけ大事に育てても食事を与えないと餓死してしまう。水だけでは成長など夢のまた夢だ。耕したところで獣に喰われてお終いの畑に種を蒔きながらイネは考えた。頭を使うことが苦手なイネなりに考えた。良い考えはひとつも思いうかばなかった。
イネは頼りない豊一に相談した。豊一は寡黙な人だった。イネの言葉が届いているかすらも判らない。それだけ豊一は口を開かない。相談するだけ意味がない。毎回、姉か妹に相談する。イネの両親は他界して久しい。豊一の両親もそうだ。
頼れるのは姉妹だけ。姉と妹はイネほど苦労していない。揃って良家に嫁いだ。ふたりはイネより容姿と要領に恵まれた。三姉妹のなかでイネだけが醜い容姿に生まれた。それでもふたりはイネを貶したりしなかった。それでもイネは自分だけと胸のうちにひた隠しにした劣等感を抱いていた。
自分も容姿が良ければふたりのように苦労しない生活を送れたかもしれない。けれどこの容姿では豊一が精一杯。だから壹彦が恵まれた容姿で生まれて来た時は驚いた。有り得ないと思った。自分からあのような美形が生まれるはずがないと。思えば、姉と妹の遺伝子が色濃く反映されたのだと言い聞かせ、この子だけは苦労のない人生を歩んで欲しいと切に願った。
イネは姉と妹に頼み込んだ。
お腹を痛めて産んだ我が子を手放すのは辛かった。背に腹は替えられない。
壹彦は姉に引き取られた。
年に二回だけ会えるよう約束したが当主の意向で年一回になった。姉に懇願したが、聞き入れてもらえなかった。貧乏人の相手はしてもらえないようだった。年に一回息子に会えるだけ良しとしようと言い聞かせた。
豊一は息子がいなくなったことにすら気付かなかったときは腹が立った。薄情な人であると判って一緒になったが、ここまでとは思わなかった。
ある日、豊一が壹彦に似た子どもが馬車に乗っていたと呟いた。イネに話し掛けているのか、独り言が判じかねた。どうやら自分に話し掛けているようだったので、そうですかと返事をした。冷め切っているわけではないけど、いざ、会話するとなると伴侶とどうやって会話をしていたか思い出せない。
そうですかではないだろと何時になく感情的になっている豊一にイネは驚いた。
愛情がないわけではなかった。これまでもそうだった。感情を押し殺していただけだったのかもしれないとイネは思った。頑張って、会話を続けた。呟くように言葉を吐く豊一とでは三言続けば良いほうで殆どは相槌を打って終わり。
果たしてこれが夫婦の会話と言えるだろうか。
ほどなくして壹彦が小間使いを連れて帰って来た。
どうしたんだいと言うと、ふたりの顔が見たくなったからと壹彦は言った。久しぶりに会った息子は奇麗になっていた。おとこの子に奇麗と表現するのはちがう感じがしたが、イネには輝いて見えたのだから奇麗と表現するのが似つかわしいように思えた。実際に口に出して言うと、壹彦は照れたのか顔を背けた。そして大袈裟ですよと知らない言葉を返して来た。
難しい言葉を知っているねと話すとそうでもないですよと毅然と答えられた。
そうか、そういうものなのかとイネは感心した。字を書けなければ、読めないイネにとっては壹彦は殿上の者に見えた。イネは殿上の者と会ったことがないので、想像でしかないが、立ち居振る舞いが気位の高い人に見えたのは事実だった。
壹彦に豊一のことを訊かれた。おとうは何処ですかと。
イネはどう言えばいいか判らなかった。豊一は流行病で数日前に死んでしまった。何処から病をもらって来たのか判らないが、体調が悪いと言い出した時には手遅れだった。そこからたった数時間後に息絶えた。悲しくはなかったとは言い難いが、伴侶が亡くなるのはこうも心に穴が空くほどに筆舌に尽くしがたい感情になると知った。
だからこそ息子に父親の死をどう伝えるか迷い悩んだ挙句にイネが選んだのは、嘘だった。イネは壹彦におとうは奉公に出てるといずれ知られると判りながらも嘘を吐いた。壹彦はイネの嘘を信じた。ひょっとしたら、壹彦は嘘と見抜いていたかもしれない。悲哀に満ちた表情をしていたからだ。そう見えただけで本当に信じた虞もある。そこまでは判らない。
壹彦はイネに体に気をつけてくださいと言い残して小間使いに手を引かれて行ってしまった。
それから壹彦に会う機会は訪れなかった。
(中略)
徳川時代は終焉を迎えた。文明開化によって街は瞬く間に変貌した。
壹彦は妻を連れて、町外れにある寂れた家を訪ねた。帝都ではあるものの到底おなじ街並みとは思えないほどに何もない。妻は汚物でも見るような視線を彼らに向けた。その様子を目の当たりにして壹彦は何も感じなかった。元より妻は良家のお嬢様で華やかな世界しか見て来なかった。彼女にすれば視界に映る光景は信じがたいものだろう。だからこそ壹彦は妻に見せたかった。世界は奇麗ばかりではないのだと。
眼を背けたくなる現実がすぐそこにあることを知って欲しかった。何より自分自身の出自を知って欲しくて壹彦は妻を此処に連れて来たのもあった。
嘗て住んでいた家と言えない我が家は存在していなかった。
おかあ、おかあ、おかあと壹彦は名前を呼んだ。誰も反応しない。大きくなった自分の姿と愛する妻を紹介したくて止める父親を振り切って来たというのに。
妻は壹彦の背中を撫でた。
お母様はもうという妻に対して壹彦はちがうと反論した。おかあが自分を置いていなくなるはずがない。手当たり次第捜し回った。どれだけ走り、駆けずり回っても母親の人影は認められなかった。
父親から聞いた話では五年前におかあは野盗に殺された。あの集落一帯が野盗によって殺されたと。事件当時の新聞を読むと確かに集落で殺される事件があった。どうして早く教えてくれなかったのか尋ねると、関係ない人間の死を知ったところでお前の人生に影響がないと言われた。
壹彦ははじめて父親に刃向かった。
揺木家に於いて父親に刃向かう−−当主に逆らうことは断じて禁じられている。揺木家の揺るがない家訓であり、教えだった。壹彦は勘当された。妻とも別れさせられた。
身ひとつとなってしまった揺木壹彦はただの壹彦になってしまった。
(中略)
壹彦が亜津馬を名乗りはじめたのは勘当されてすぐのことだった。幸い、蓄えはあった。幼少の頃より少しずつ少しずつお金を蓄えていた。おとうとおかあが楽になれるようにと思ってのことだった。しかしおとうとおかあはこの世にいない。
使いたい人が傍にいないのであれば自分のために使うしかあるまいと断じた壹彦は、貿易の会社を立ち上げた。たったひとりで会社を大きくした。
イネの見立ては間違っていなかったと言える。
たったひとりで日本有数の会社となったあずまが瞬く間に大企業となった。
壹彦は恋に落ちた。異国の地の女性と。外国の言葉を必死に勉強し、コミュニケーションが苦にならなくなった。ほどなくしてふたりは妻となる女性の地元で結納を結んだ。あずまはさらなる飛躍を遂げた。止まるところを知らないあずま。
亜津馬は伯爵位をもらい受けた。
揺木の事業が傾きつつあると聞き知った壹彦は会社を買収した。貿易だけでなく、手広く事業に手を出しはじめた。あずまの業績は飛躍的に跳ね上がった。
子宝にも恵まれた。東京の一等地に邸宅を建てた。
すべては万事快調と思えたのに戦火が彼らの生活に水を差した。
壹彦は召集を掛けられ戦地に赴いた。奇跡的に帰還出来たが復職するのに時間を要した。鬱いでしまった。妻の懸命な寄り添いで回復して来たが威厳はなりを潜めてしまった。
戦争は止まるところを知らない。
元号を改めようと人々は国々は世界は殺し合いを止める決断を下さなかった。戦火は益々拡大される一方。
地震も経験した。壹彦はさらに縮んでしまった。追い討ちをかけるように娘が地震の犠牲になってしまった。妻もまた精神的に参ってしまった。ふたり揃って鬱いでしまった。お金がどれだけあろうと無駄であることを壹彦は知った。
財産を一極化にするのではなく分散させることを思いついた壹彦は早速行動に移した。
子どもたちを信用たる名家に養子に出した。
妻は猛反対した。
壹彦は娘を亡くしてしまった深い悲しみから立ち直れなかった。錯乱状態にあったかもしれない。正常な精神状態であれば壹彦はそんな行動に出なかっただろう。しかし自然災害によって齎された失意によって、彼の判断は正常ではもう無くなっていた。妻は泣きじゃくったが壹彦は無視して養子に出した。
こうして後世に悪しき帝国として知られることになる。
壹彦は妻を子どもを産む機械としか見なくなった。
産めない体になったと知ると別の妻を娶った。
現世とは思えない景色を目の当たりにした妻は自殺を図った。壹彦は泣きもしなかった。三番目の妻は五人の子どもを産んだ。後継者になる子ども以外は養子に出した。三番目の妻もまた自殺を図った。
四番目の妻は六人の子どもを産んだ。六男を産んでから妻は亡くなってしまった。
すぐさま五番目の妻を娶った。
悪魔の所業に近い壹彦の言行を非難する者は一族にいなかった。彼の行いこそ正しくあるべき姿だと賞賛した。
異様で異常な光景がそこにあった。
礼賛されるべき行いは壹彦で非難するような人間は人非人と言い放つ始末。壊れてしまっている壹彦を止めることなど誰も出来やしなかった。
そんな非人道的な行動に出た壹彦は家父長制を敷きはじめた。同時に華族であることをひけらかすようになった。
嘗ての心優しき壹彦は見る影が無かった。
(中略)
悪魔と契約した壹彦は三度目の徴兵を受けた。
奇跡的に助かっていたが運は彼に微笑まなかった。
異国の地で亜津馬壹彦は命を落とした。当然、家族に彼の訃報は伝達された。
一族の誰もが彼の死を悼んだ。なかには壹彦を英雄視する者がいたがその者は逆賊扱いされ、処刑されたという。
何処まで真実か定かではないが、ひとつこんな話を添えてこの物語に幕を落とそうと思う。
(中略)
亜津馬壹彦は戦地で死んでなどおらず、帰還をしたくないから外国でそのまま暮らしているという。現地の女性と結婚し、新たに家族を作ったとする向きもある。
訃報を知らせた者は壹彦のことなど知らなかったと後に証言している。ではいったい誰が彼に訃報を伝えるように言い添えたのだろう。
不確定情報すぎるあまり眉唾にしか思えない。
伝達した彼の証言もあやふやであり、全面的に信用することは難しいように思える。壹彦的には英雄譚のつもりだったのかもしれないが、詰めが甘かったように感じられる。
最後になるが壹彦が作り上げた亜津馬帝国は連綿と紡がれ、今なおその姿を大きくしようとしている。
悪しき帝国が崩壊するのは果たして何時になるのか、気になるところだ。
(『亜津馬帝国を建国した男 亜津馬壹彦の生涯』より抜粋)
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