第32話 繋がり

 くだがいくつも繋がっている『市川奏恵親友』を前に、私はただ座って彼女を見つめていた。

 病院の個室は静かで、ここだけ時の流れが遅くなっているかのような平穏な時間が流れている。

 今更、奏恵のことを『親友』と思っている自分に苦笑する。どの口が言うのか、と自分でも思う。

 そっと奏恵の前髪を撫でる。奏恵の顔は1ミリも動かないのに、何故か嫌そうな顔をしたように感じた。


 奏恵は近所のデパートから飛び降りたそうだ。自殺である。遺書も見つかったと聞いている。

 事件性はない、と警察は判断した。それ以上の捜査はしないようだ。

 だが、奏恵には、奏恵が望んだ『死』は与えられなかった。未遂で終わったのだ。

 奇跡的に一命を取り留めた奏恵は、今は病院のベッドの上でただ横たわっている。

 本当に奇跡だったのか、あるいは悲劇だったのか。

 意識がいつ戻るのかは分からない、ということらしい。二度と意識が戻らないかもしれないし、今日戻るかもしれない。あるいはそのまま命の灯が消えてしまう可能性もあると聞いた。


 奏恵の顔を見る。無表情で目を閉じる奏恵は、生き返ることを望んでいるようにはとても見えなかった。このまま、少しずつ命が欠けていき、そう遠くないうちに消失する。そんな気さえした。


 唐突に鳴ったノックの音で、ハッと我に返る。


「よう、塩谷。お待たせ」と白石くんがにゅっと顔を出した。

「私も今来たところだよ」咄嗟に嘘を吐く。男の子に待たされた時はこう言うものである、と多くの女子は信じている。

 だが、白石くんには通じないようで「面会受付表に2時間前の時刻が書いてあったけど」と指摘され、私は苦笑いを返した。

「そういう事は黙って流してほしいところだよ」

「僕は人が慌てふためいて困惑する顔が大好きなんだよ」

「ナチュラルに最低だねぇ!」


 白石くんはもはや不謹慎とも言えるほど、いつも通りで、とても自殺未遂者の病室とは思えないようなボケをかましてくる。

 よっこらせ、と私の隣に腰掛け、「よぉ市川」と奏恵に声をかけた。


「お前、僕のこと盗聴しておいて何勝手に死のうとしてんの? バカなの?」と白石くんが奏恵を罵る。ここまで病人に辛辣な人間も珍しい。しかし、不思議と白石くんからは温かさが感じられ、奏恵に対する不謹慎な発言も不快感は覚えなかった。


「早く起きないとおっぱい揉むぞ」

「白石くん、それはセクハラ」と一応つっこんでおくが、白石くんには通じない。「僕は盗聴されたんだよ?おっぱい揉んでもお釣りがくるだろうが」と真顔で怒られた。

「そんなこと言ってて、奏恵のお母さんが来たらどうすんのよ」と諦めずにたしなめるが、白石くんから返ってきた言葉は意外なものだった。




「誰も来ないよ」




 白石くんはゆっくりと奏恵から私の方に向き直り、「誰も来ない。入って来れないように、しておいたから」と再び言った。

「どういうこと?」

「そのままの意味。外で百地が張ってるから。たとえ市川母だろうと入って来られないよ」

「な、なになに? そんなに私と二人きりになりたかったの?」

「そうだね」と白石くんが言う。「今日は塩谷と二人きりで腹を割って話がしたくて来たんだ」


 静かにそう告げる白石くんからは、感情は何一つ読み取れない。怒りも悲しみも絶望も諦念も、何もない。ただコンクリートのような無機質さだけがあった。


「別に塩谷をどうこうするって話ではないよ」と真剣な目を私に向ける。「僕はただ真実を渡しに来ただけだから。その後、どうするかは塩谷が決断することだ」


 私は笑いそうになった。

 真実を渡しに、か。

 真実なら既に知っている。私以上に知っている者などいない程に。これ以上の隠された事実などある訳がない。釈迦に説法、と同じ類の滑稽さがそこにはあった。

 だが、白石くんの意図は分かった。

 直接、私を説き伏せよう、と。そういうことか。


「それって、西田先生が殺された事件の話? あれの犯人は奏恵だったんじゃないの? 警察の人、たくさん奏恵の家に来てたよ?」あえて件の話を振ると、白石くんがゆっくりとかぶりを振った。

 ジッと白石くんは私を見つめる。

 私に向けられた蒼い瞳はすべてを覆い潰すほどに濃く深い。

 まるで海底に囚われたような息苦しさを感じる。

 白石くんが言う。




「西田先生を殺したのは——」




 彼の目がすべてを物語っていた。

 彼はすべて分かっている。全容を正しく理解した上で言っている。一瞬にしてそう思わされた。

 白石くんの言葉のその先は、聞かなくても分かる。分かるからこそ、聞きたくなかった。

 必死に隠してきた。

 塗りつぶしてきた。

 すり替えてきた。

 見えないように。ばれないように。

 全てを犠牲にして。

 なのに。












 ——どうして分かったの













 銃を突き付けられたような恐怖に私はただ彼を見つめ返すことしかできない。

 やめて、言わないで、と懇願するように黙って彼を見つめた。

 そして、私の願いもむなしく、弾丸がとぶ。



「——きみだ」











 西田先生とは正式な付き合いだった。私はそう思っていた。

 俗に言う「彼氏」というやつだ。

 高校に入って間もない頃に、西田先生に言い寄られて始まった関係だった。初めてできる彼氏だったこともあり、私は浮かれに浮かれた。

 はじめのうちは、西田先生もお洒落なカフェとか、個室の高級レストランとか、そういうデートが多かった。普通は女がエスコートするものだけれど、「まだ高校生だから」と西田先生が大人なデートを演出してくれた。

 デートの最後はいつもあのホテル——スカイセキュリティホテルで夜を共にした。


 幸せだった。

 だけどそのうち、西田先生は手錠だとか縄だとかバイブだとかを持ち出して、そういうプレイをし始めた。

 私はそれでもかまわなかった。西田先生の愛さえあれば、どんなことだって耐えられるし、受け入れられた。西田先生が私の全てだった。










 それなのに、先生は私を裏切ったんだ。

 私の他に女がいることが発覚した。

 西田先生を問い詰めると、先生は反省をするでも、謝罪をするでもなく、私に冷たく言い放った。






 ——玩具の分際で、彼女面してんじゃねえよ






 殺そう、と思った。

 私は結婚まで考えていた。卒業したら、立派なところに就職して、西田先生を幸せにしよう、と。

 それなのに、彼にとっての私は、その他大勢のただヤるだけの女と何ら変わらなかった。

 私は、ただの玩具だったのか。ただの遊びだったというのか。

 私の殺意に火が付いたのはこの時だ。




 まず西田先生を学校に呼び出した。学校で嗜虐プレイをしようと誘ったら、ほいほいとやってきたのは笑えた。

 それから家から持ち出したナイフで腹部を刺した。

 西田先生は泣くでも叫ぶでもなく、震える手で、無言で腹を押さえていた。まるで刺されたことが信じられない、とでも言うように、手についた自らの血をまじまじと見つめていた。

 罪悪感はなかった。ただ、人って案外しぶといものなのね、と思っただけだ。


 西田先生はまだ動いている。ならばまだ刺さねばなるまい。

 私はまた西田先生を刺した。まだ先生は動く。ならばもう一度。まだ動く。さらにもう一度。

 何度も何度も何度も何度も。

 西田先生を殺すことで一杯だった私は、西田先生が動かなくなった時にようやく少し周りが見えてきた。

 薄暗い職員室。

 デスクに突っ伏せる西田先生。

 床には血だまりができていた。


 私は西田先生のポケットをあさって、彼の携帯電話を取り出した。普段、私と連絡を取り合っている携帯電話。

 証拠を消さなきゃ、と思ってのことだった。

 だが、私はそこで意図せず、それを見てしまった。


 親友、市川奏恵と西田先生の行為中の写真や動画。


 画面の中の親友の喘ぎ声を聞きながら、私はこれまで築き上げてきた何かが崩れ落ちるのを感じた。

 西田に裏切られても、西田を殺した時でさえ、決して流れることのなかった涙が、顎を伝い床に落ちた。

 許さない。涙と共に零れ落ちたのはそんな言葉だった。

 奏恵が脅されているらしいことは、2人のメッセージのやり取りを見て分かったが、そんなことは関係がなかった。そんなことでは、この憎悪は消えてくれない。西田と身体の関係を持ちながら、私に黙っていたのだ。

 奏恵を陥れる理由はそれだけで十分だった。


 奏恵のことは家族のように思っていたのに。

 奏恵には私と西田の関係も話していた。何でも相談できるし、困っていたら他の何を置いても奏恵を助ける。唯一無二の親友。

 私はそう思っていた。

 でも奏恵の方は違ったんだね。

 私の惚気話を聞きながら、裏ではそれを笑っていたんだね。

 私の大切なものを、汚しながらそれを黙っていたんだね。

 この時、私は復讐がまだ終わっていないことに気が付いた。

 奏恵にも、相応の報いを。



 私は西田の携帯電話から奏恵にメッセージを送った。

 過激な性的暴行を匂わすような文言で、奏恵を職員室に呼びつけた。

 その数分後に今度は私のスマホから奏恵に電話を掛ける。


「やっほー。元気ィ? 暇電だよん」と偶然を装って言うと、明らかに動揺してパニック状態の奏恵の声が返ってきた。

「どうしたの? 何があったん? 話してごらん。私は何があっても奏恵の味方だから」と促すと、奏恵は西田との関係の全てを私に打ち明けた。「ごめんね」と泣きながら繰り返す奏恵の声を、私は冷めた気持ちで聞いていた。

 今更打ち明けたってもう遅い。

 こんな状況にならなければ、ずっと黙っていたのだから。

 そんな謝罪は受け取れない。

 私は憎悪の炎が消えていないことを確認してから、心とは裏腹に穏やかな声で奏恵に囁く。


「なら、殺しちゃおっか」


 え、と言葉に詰まる奏恵に私は考える間を与えない。「だってさ、そんなの許せないじゃん。私は浮気されて、奏恵はレイプされて。そんな生活を一生続けるの? もう終わらせようよ。私たち2人で」


 結局、奏恵は断らなかった。

 学校で待ち合わせ、奏恵に体育倉庫からバットを持ってこさせ、私が西田の頭を叩き割った。既に死んでいるのだから、失敗する可能性など皆無だ。

 奏恵は離れた位置からそれを眺めていた。だから、奏恵は西田が既に死んでいることに気がつけなかったのだろう。だが、仮に途中で西田が既に死んでいることに奏恵が気付いても別に問題はなかった。奏恵があの時間にそこにいることが重要だったのだ。体育倉庫に動画撮影モードのまま仕掛けたスマホに、ぱっちりと奏恵の姿は映っている。動かぬ証拠だ。


 その後の行動も奏恵には教えてあった。職員室にカギをかけること。隠れてやり過ごすこと。最初に出勤してきた教師と一緒に西田の死体を発見すること。全て私が指示をだしたことだ。

 こうして私は2段構えの身代わりを立てることに成功した。

 まず全ての疑いが第一発見者の真里亜先生に向く。警察が無能ならば、真里亜先生が犯人ということで事件は終結する。それならそれで別に構わない。奏恵にはまた別の復讐を果たせば良いだけだ。

 そして、仮に密室の謎が解かれたとしても犯人は奏恵、となるだけで、私は安全圏にいられる。そういう段取りだった。



 バレるはずがない。完璧な計画。

 それを、この男は。







 白石くんが窓際のサイドテーブルにあったナイフを抜いた。

 ドキリ、とした。西田の腹に刺したナイフの感触が手に蘇る。胃液がこみ上げるのを、なんとかくだして堪えた。

 白石くんはおもむろに傍らに置いてあったバケットからリンゴを抜き取って、皮を剥いていく。

 誰が持ってきたお見舞いの品なのか不明なのに、白石くんはお構いなしだった。

 手際が良い。スルスルとリンゴの皮がむけていく。


「君がすべてを計画し」と白石くんが、ウサギ型に切ったリンゴを一つサイドテーブルにあった紙皿に乗せる。

「市川をそそのかし」とまたウサギ型リンゴを増やす。

「東堂をはめ、江藤先生を殺し」丸かったリンゴが全てウサギの形となる。


 それから白石くんは、ウサギにナイフを突き立てた。


「そして真里亜に罪をきせた」


 それまで感情が感じられなかった白石くんから、この時ばかりは狂気を感じた。白石くんがナイフで刺したリンゴをかじる。

 シャリシャリ鳴らしながらリンゴを咀嚼する白石くんは、既にいつもの眠そうな無表情に戻っていた。


 恐ろしい、と思った。

 なんの証拠もなく、推察だけでここまで正確に分かるものなのだろうか。千葉舞子が白石くんを殺したがる理由がよく分かった。白石くんを前にすると、何一つ隠すことなどできない、という錯覚に陥るのだ。


「どうして」と不意に口をついて出た。「どうして白石くんは真犯人が私だと思うの?」


 純粋にただ気になった。

 どんな考えで、どういう思考回路で、彼は推理を巡らせるのか。

 凡人には考えも付かないようなすごいものに違いない、という確信めいた期待があった。


「塩谷はさ」と白石くんが齧りかけのリンゴを皿に置いて言った。「今誰かに『真犯人を知っている白石ハルを殺せ』と言われたら、実行する?」


 質問の意図が分からなかった。これが先の私の質問の答えに繋がるのだろうか。


「するわけないよ」と私は正直に答える。

「だろうね。僕がそっちの立場でもしないよ」と白石くんは笑った。「でも市川はしちゃったんだ。西田先生を殺すことに同意しちゃったんだよ。簡単に。そんなことってあるかな。よっぽど信頼のおける誰かの助言だったんだ、と思うしかないよね」


 説明はお終い、とばかりに白石くんが再びナイフの柄を取り、またリンゴをかじった。


「え、待って。もしかして、それが根拠ってわけ?」若干拍子抜けして尋ねると、白石くんがあっけらかんと「そうだよ」と答えた。


「現実の推理なんて明確な証拠や根拠がある方が珍しいよ。警察みたいに組織的な捜査が出来れば別だけど。大体は小さな情報や状況から、想像力をたくましくして一番納得のいく筋道を構築していくしかない。そして今回、その取っ掛かりになったのが——」


 白石くんが眠るように横たわる奏恵に目をやった。


「君と市川の強い繋がりだよ」

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