夕霧の疑惑~源氏物語異文~

善根 紅果

父の妻

 六条院・南殿の妻戸つまど(扉)を叩くと、しばらくして、誰かと問われることもなく、開いた。



 前栽せんざい(前庭)の鈴虫の声が騒がしくなければ、あたりに聞こえているのではないかと思うほど、つぶつぶと、私はむねはしらせて(心臓をどきどきさせて)、誰かと問われたら、こわづくりして(作り声をして)、「私だ」と応えようと思っていたのに。



 声作りしたところで、全く似ないだろうけれど。

 私は、声も、顔も、姿も、性格さがも、父に似なかった。



 あやしまれて、妻戸つまどが開かなければ、あきらめて、西のたい(西館=養母・花散里はなちるさと住居すまい)へ行ったのに。



 私が内に入って行くと、妻戸が閉められて、暗闇の中、鈴虫の声に交じって、女房にょうぼうたち(侍女たち)のきぬの音が、遠ざかって行く。

 そして、何かを引きずる音がして――……ふすまを引いた音かと、私は思い当たる。

 南殿に、あるじが訪れると、いつもそうして、女房たちは、次の(隣の部屋)に退がるのか。



 歩き出した私は、野分のわけの明日(台風の次の日)に、開いていた妻戸つまどの隙から見たことが思い出されて、何も見えない暗闇の中を、惑うことなく進むことができた。


 私は奥の帳台ちょうだい(床から一段高い寝台で、とばり(カーテン)を下ろしている)の前に立った。

「そんなことができるわけがない」と、心の内で否定していたことは、これほど容易たやすいことだったのだと知る。


 ここに、あるじの他に、訪れる男などいないと、皆、思い込んでいるのだ。

――いや。思い込みではない。それは正しい。


  この世にすぐれてときめく(この世に栄華を誇る)准太上天皇じゅんだじょうてんのう(上皇と同位の身分)のを盗もうとする男などいない。

 知られれば、この世に生きていることはできない――



 私は、ためらうこともなく、帳台ちょうだいとばりに分け入った。



 私が膝をき、手探りしたしとね(寝床)に、彼女はいなかった。褥に残った温もりだけが、手に触れる。

 あるじではないと気付いて、逃れ出たのか。



大将たいしょうきみ、こんな夜中に、こんな所にいらっしゃって、どうしたのですか」

 鈴虫の声の中、私の耳にはさやけく(はっきりと)、彼女のささめく(ささやく)声が聞こえた。


 初めて聞いた声は、確かに女の声なのに、声様こわざま(口調)は、内緒話みそかごとをささめくいとけない女童めのわらわ(幼女)のようだった。


「なぜ、」

 思わず言ってしまって、私は口閉くちとじる。声が、私が主ではないという彼女への答えとなってしまうと気付いたからだ。

 でも、私は今の今まで、声を発していない。なぜ、私だと分かったのか。


 こうか。


「内にいると、きぬの音、人の足音に、耳敏みみさとくなってしまうものなのです」

 思いついた私に、彼女は全くちがうことを言った。


 暗闇に見えなくても、一度だけ、垣間かいまただけの顔様かおざまを、けざやかに、私は思い出すことができる。


 春のあけぼのかすみの間から、すばらしい樺桜かばざくらの咲き乱れるのを見るような心地ここちがして、愛敬あいきょうが匂い散って、彼女を見ている私の顔にも移り来るようだった。



 彼女はしとね(寝床)から起き上がり、帳台ちょうだいの奥に居るのだろう。


 もう私だと、彼女に知れているならば、つくろう(ごまかす)ことも、愚かだった。


「私だと知りながら、逃げもせず、迎えたのは、なぜですか」

 ささめきながら(ひそひそ言いながら)、私は手探りして、膝行いざり寄る(座ったまま、ひざを進める)。


「さきほど、聞きましたでしょう。――こんな夜中に、こんな所にいらっしゃって、どうしたのですか」

 内緒話みそかごとをささやくいとけない女童めのわらわ(幼女)のような声様こわざまで、彼女は言う。


 私の手に、ようやくきぬすそが触れた。彼女が言う。

誠実まめと知られるあなたが、どうして父のに、呼ばう夜這う気になったのか、知りたかったんですもの」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る