第二幕 雪の椿(はな)

 その年の冬は例年よりも冷え込んだ。

 初めて焼き芋を買って帰った日に初雪を観測し、そのあとも度々雪が降り積もっては街を凍てつかせることが多かった。

 クリスマスシーズンを終え、大晦日を超えて元旦を過ぎても、まだ寒さは厳しいままで、その度に雪が降り積もっては屋敷の庭に白い絨毯を形成した。椿はというと、相変わらず罅島がいるときは彼に寄り添っていたが、彼が私用で出払う時は決まって六朗をそばにおいてもらっていた。必然的に椿の用心棒になる瞬間が増えたことで、それが当たり前になる違和感に六朗は何とも言えない胸中のざわつきを覚えるようになる。この女はこんな箱の中で幸せなんだろうか。頭か自分しかいないような日常で、外で生きてきた人間がやっていけるのだろうかと。

 幸せがどんなものかは六朗にはわからない。だが、初めから何もかも持っていない六朗とは違い、彼女は元々は持っている人間であったはずだ。それが、今ではこんな自由の効かない屋敷の中で生きている。

「ねぇ、見てこれ。雪が積もって重たそうだわ」

 雪の積もった庭に出た椿が、植え込みに咲く花を眺めて言う。しゃがみこんだ背中を見下ろしつつ植え込みを覗けば、そこには深紅の椿が咲いていて、花の頭にもったりと雪が積もっていた。

「椿の花……お前さんの名前と一緒か」

「そう。私の名前はこの花から取ってるの……私、捨て子だから。本当の両親も自分の名前も知らないの。椿って名前は自分でつけたんだ。一番好きな花だから」

 そう言った彼女の声は幾分か普段より弱い。彼女の目先では、雪をかぶった椿がまるで彼女の心情を代弁するかのように首を垂れていた。白い世界に深紅が映える。

「俺も親なんか知らねぇ。名前も組員がつけた」

「そうなの……?」

 しゃがんだまま椿が振り返る。彼女の美しい虹彩と自分のくすんだ瞳がぶつかったのがわかった。

「一番古い記憶は路上で毎日なんとか生きてる頃のやつだ。それ以前の記憶はない。路上孤児だった俺を拾って、殺人鬼に作り上げたのが罅島さんだ」

「作り上げたなんてそんな……ロボットみたいな……」

 六朗の言葉に人間味を感じなかったのか、椿の声が強張る。

「俺はただ、組に盾突く人間の命を刈り取ればいい。そのためだけに生かされている。それ以上でもそれ以下でも、何者でもない。それができなくなれば、存在する価値はない」

 感情のない平坦な声で言う六朗を、椿はどこか悲しそうな顔で見つめる。

「六朗君、そんなこと言わないで」

「……事実だ」

 吐きだした言葉と一緒に空気が白く濁る。雪が再び曇天からひらひらと落ち始め、まるで二人の間に壁を作るように舞い落ちる。その向こう側でゆっくりと立ち上がった椿が手を伸ばすのが六朗の視界に映った。

 伸ばされた手が六朗の左頬にそっと触れる。酷く冷え切った指先が頬のぬくもりを幾分か吸い込んでいく。

 触れるな、とは言えなかった。

 彼女の瞳が投擲された水面のように揺れていたからだ。ああ、泣くかもしれない。単純にそう思った。

「……価値がないなんて、言わないで」

 囁くような小さな声。だけど、そこには針も棘もなくて、あるのは柔らかい絹のような声質だけだった。

「貴方の手が例え血で汚れていても、私にとって貴方の手は……救いよ」

 頬を離れた手が六朗の左手に落ちて、そっと包み込む。

「本当は罅島さんなんか好きじゃない。私は私の人生を外の世界で歩き続けたかった。でも私がここに来ることで助かる人達もいる。そう思った時……ここに来ないという選択肢を選ぶことはできなかった。だけど、今ではよかったと思ってる」

 包み込む手に少しだけ力がこもった。

「だって、貴方に会えた。貴方がいれば、私は例えどんな狭い箱の中でも生きていける」

「……椿」

「へへ、罅島さんには絶対内緒だからね。私と六朗君だけの、秘密……」

 包み込んだまま手を顔の前に持ってきて、まるで祈るように椿はそう呟いた。

「秘密だから……」

 誰に言い聞かせているのか、その言葉を繰り返す椿を突き放すことができず、六朗はただその場に佇んで彼女の頭を見下ろしていた。

 やがて降り落ちた雪が彼女の頭に薄化粧をすれば、それは庭で咲いている椿の花と同じだと思った。

 ああ、枯れてくれるな。

 そう思ったものの、口からは決して出てはこなかった。


***


 椿は何をするにも前向きだった。屋敷の掃除も進んでやったし、時には炊事係も進んでやった。組内の人間とは必要以上にかかわるなと言われてはいたが、必然的に接触する機会は増えていった。

「あまり変な虫がついても困る。椿は部屋と庭以外うろつかせるな」

 ある夜。処理の相手を椿にさせた後、部屋に戻ってくるや罅島がそう言った。咥えた葉巻に火をつけてやれば、どこか気だるげに大きく息を吐く。

「虫も何も、ここには組員しかいない」

「馬鹿が。組員でも人間だろ、欲がある。あの女を狙うやつは切り捨てろ」

「…………」

「明日俺は終日不在になる。いつもながら椿を見張っていろ。仕事の件については、追々連絡する」

「……承知」

 深々と頭を下げて、そのまま座敷を出ようとすれば、ふいに罅島がもう一度呼び止めた。

「時に六朗、お前最近……雰囲気が変わったなぁ?」

 何か言いたげな、勘繰っているような気配を感じて立ち止まる。

「何か良いことでも、あったか?」

「……御冗談を」

 それだけ言って廊下に出ると、後ろ手にふすまを閉めた。

 葉巻のヤニの匂いがいつまでも後ろからついてくる。

 それは自室に戻っても消えず、自ら煙草をふかしてもずっと蛇のように絡みついたままだった。やがて外が白み始める頃、数人の足音と共に高級車の扉が閉まる音が遠くで聞こえ、罅島が出かけて行ったのがわかった。一睡もできなかった六朗は新しい煙草を咥えて火をつけ、髪をかきあげる。薄暗い四畳半の中で、言いえぬ感情に心がざわつく気配がした。

「六朗君、」

 その時、障子が少し開く気配と声がして反射的に顔をもう一度あげる。障子の隙間から椿がこちらを覗いていて、小さな声で六朗を呼んでいた。

「おはよう、ねぇ……掃除に行かない?」

 何の掃除か、と聞きそうになったが言う前に思いだした。そういえばこの前怨代地蔵というものを見かけた際に、今度また掃除に来ようと言っていた。そのことだと合点がいったのだ。

「ひとりで行け」

「私が単独行動禁止されてるの、貴方知ってるでしょ」

 そうだったと思わず眉間に皺を寄せる。

 長い溜息が出た。

「……わかった」

 咥えていた煙草を灰皿に押し付けて火を消す。残った煙が宙に消えるのと同時に六朗は立ち上がる。

「ありがとう! じゃあ上着取ってくるね」

 嬉しそうに廊下をかけていく椿の背中を、部屋から出つつ眺める。大きく息を吐いたわけではないのに、少しの吐息でも白く外気が曇った。いつもより寒い朝だとぼんやり考えつつ、そのまま適当なコートを羽織って門の所に行くと、椿が既にバケツや雑巾を両手に持って立っていた。近寄って荷物を持ってやり、何も言わずに先を歩きだせば、椿もまた六朗のあとを歩き出す。

 数十分歩き、怨代地蔵についたころには、空から少し雪が降り始めていた。持参したペットボトルの水をバケツに移し替えて雑巾を浸す。濡れた雑巾を絞る椿の手が赤くなっていることに気が付いて、絞るのを変わってやれば椿はまた嬉しそうに笑った。

 この前掃除したのに、怨代地蔵はまたしても汚れていて、おまけに誰かに恨み言のような落書きまでされている始末だった。椿はそれを持ってきた雑巾に研磨剤を付けて丁寧に落としていく。六朗も同じようにそばにしゃがんで黙って地蔵の掃除を手伝ってやった。

「色んな人の辛い気持ちだとか消化できない思いを、このお地蔵さんは貰ってくれてるんだもんね。すごく優しい仏様なんだろうね」

 頭の部分をまるで撫でるかのように優しく磨きながら椿が言う。

「六朗君は、このお地蔵さんにお願いしたいことって……ある?」

 この地蔵は怨代地蔵だ。それは要するに誰かに代わってもらいたい辛い気持ちや恨み言があるかと聞かれているのだろうかと、六朗は地蔵の背中を掃除しながら頭の片隅で考える。

「お前はあんのか」

「私? 私は……さぁ、どうだろう」

 ないとハッキリ断言できないところを見ると、彼女にも何か思うところがあるのだろうと思う。

 それが果たして罅島に対する消化できない思いなのか、はたまた六朗の全く知らない彼女の気持ちなのか。いずれにせよ、六朗に判断することは不可能だった。

 一時間くらい掃除をすれば、地蔵は見違えるほどに綺麗になった。空から降る雪が強くなるのを見計らって六朗が立ち上がり煙草に火をつける。

「おい、そろそろ戻るぞ」

「そうだね、だいぶ綺麗になったわね」

 もういいかな、と椿もその場に立ち上がってグッと背伸びをした。それから満足そうに笑う。バケツの水を少し離れた場所の排水溝に捨てに行ってやり、雑巾をその中に投げ込む。彼女がまたしても荷物を持とうとするので、先に六朗がバケツを持って歩き出す。

 出発が早かったゆえに、掃除を終えた今でもまだ九時前だった。そろそろ町が活気付きだすころだとぼんやり考えていると、不意に椿が六朗の服の裾を引っ張った。

「ねぇ、餡餅買いに行かない? 私が勤めていた近くにおいしい店があるの」

「……好物なのか」

「うん、大好き。すり胡麻を練って作ったあんこにお餅が沈めてあって美味しいの」

 余程好きなのか、椿は笑ってそういうと六朗の返事も聞かないままにぐいぐいと服を引っ張って歩き出した。無論、六朗は反論する気もないので言われたままについて行ってやる。

「……こうやって、ずっと六朗君と一緒に出掛けられたらいいのにな」

 ふいに椿がそう呟いたが、あえて聞こえないふりをして返事をしなかった。

 椿はこの先、ずっとこのままなのだろうか。窮屈な箱の中で一生懸命に咲く花の末路を考えそうになって、無意識に眉をしかめる。

「……あんまりはしゃぐなよ、こけるぞ」

「大丈夫だよ」

 そうなっても、六朗君が助けてくれるでしょ?

 そう言った彼女の瞳は一点の曇りもない。綺麗で透き通った、まるで宝石のような瞳。罅島もきっと、彼女の持つこの透明な魂に惹かれたのだろうと、今になってようやくわかった気がした。

 だから、思いもしなかったのだ。

 罅島が――彼女を切り捨てようとしているだなんて。




 六朗のいないところで、罅島は数名の組員に向かってこう言った。

「どうも……おもりをさせるつもりが、椿はいたく奴を気に入ってしまったようでな。虫がついた女なんぞに……もう何の興味もないわ」

 切り捨てさせるかと言いながら酒を飲み込めば、酒を注ぐ組員が下手人は自分がと名乗り出る。

 だが罅島は笑いながらそれを拒否すれば、目を細めたまま続けた。

「なに、仕事は仕事だ。采配はもう、決まってんだ」

 グラスの中の氷がカラン、と寂しい音を立てた。

「チャンスをやってみるさ。尻ぬぐいは自分でやらせねぇと……面白くないだろう?」

 それでだめなら、あとは好きにすればいい。


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