第一夜:悪霊と血

第一幕 或る、雨の日に

 街を薄桃色に染めた桜も散り、季節は風鈴を鳴らす初夏を迎えた。

 高校の敷地内を行き交う生徒達の制服も、白を基調とした夏服へ変わり、緑が中庭の隙間を埋め尽くす。教室の後ろ側の窓には担任がいつの間にか持ってきていた風鈴が吊るしてある。透き通ったガラスに水色と赤の模様の入った綺麗な風鈴だが、エアコンを切って換気をしている時でしかその声を奏でられないことを考えると、少しばかり気の毒に思えてしまう。

 全ての授業が終わり、放課後へと差し掛かるタイミングでエアコンを切って窓を開けてみると、生ぬるい夏の風と共に風鈴が一声、ようやくその澄んだ声を奏でた。

 自分の机に戻って帰り支度をしていると、斜め前の席の同級生が振り向きざまに声をかけてきた。

夏越なごし、もう帰るのか?」

 苗字を呼ばれて、夏越蓮夜なごしれんやは顔をあげる。

「うん、そのつもりだけど」

 素直に頷くと、同級生は両手を顔の前で拝むように合わせ言う。

「今日俺日直で、放課後クラス全員のノートを職員室まで持ってこいって言われてんだけどさ、この後急遽部活のミーティングが入ったんだ。頼む! 代わりに持っていってくれ!」

 次の試合のスタメン決める話し合いかもしれないから遅れたくないんだと、必死に頭を下げる姿に蓮夜は少し苦笑いをすると、ちらりと黒板の前の教壇に置かれたノートの山を目に映した。一人で持つには多いが、持てない量ではないと思う。

「わかったよ。僕が持っていくよ」

「本当かよ! サンキュー夏越!」

 嬉しそうにお礼を言ってから、同級生はポケットから飴玉を一つ取り出して蓮夜に握らせると、そのまま踵を返して後ろの扉から出て行った。バタバタとせわしい足音が徐々に小さくなっていく。

 残された蓮夜が手のひらを開くと、そこにはつい最近発売になったばかりの飴玉が一つ乗っかっていた。青いパッケージに水色のアイスキャンディーのマークが夏らしい。

 

 蓮夜は肩に鞄をかけると、ポケットに飴をしまってからノートの山を抱えて教室を出た。廊下を歩きながら窓から空を眺めると、さっきまでの晴れが少しばかり曇ってきたような気がした。夏の天気は変わりやすいとは言うが、今日の予報では傘が必要だとは言ってなかった。

 職員室にたどり着き、ノートの束を持ったまま器用に扉を開ける。すっと冷えた空気が流れてくると共に、数人の教師がこちらを見たのがわかる。その中に担任も含まれていたようで、蓮夜に気が付いてすぐに駆け寄ってきてくれた。

「夏越どうした……って、あれ? 今日お前日直じゃないだろう?」

 両手いっぱいに抱えられたノートを見て、なぜ蓮夜が職員室に来たのかを担任は把握したらしい。虐められているとか、在らぬ疑惑をかけられてはいけないと、正直に部活に行くのに急いでいてお願いされたんだと説明をしておく。

「あいつ、ちゃっかりしてるなぁ。でもまぁありがとうな、夏越。お前は部活いいのか?」

 遅れないようにな、と心配そうにする担任に、蓮夜は言う。

「僕は……春先に部活を退部したんで、大丈夫です」

「ん? そうだったか? なんでだ」

「えっと、夕方以降はあまり出歩きたくなくて……」

「出歩きたくない? 高校生なんかそれこそ補導される時間まで出歩くやつが多いご時世なのに……お前変わってるなぁ。真面目で素晴らしいが」

 担任は蓮夜の頭に手を伸ばすと、黒くて癖のない髪をくしゃくしゃにするように撫でまわして笑った。余程の暑がりなのか、ほかの教員がカッターシャツを着ている中で、担任だけは黒のタンクトップに短パンを着用していた。教室にいるときはさすがにきちんと上着と長ズボンを着用しているが、職員室では割とラフな格好をしているらしい。涼しそうで羨ましいな、と蓮夜は頭の片隅でぼんやり考えた。

「それじゃあ先生、僕帰ります」

「おう、気を付けて帰れよ」

「はい、さようなら」

 ノートを担任に渡すと、蓮夜は一例して職員室を後にした。エアコンの効いた部屋から出ると、廊下は生暖かく、じっとりと肌に汗が蘇る。

 昇降口まで行って靴を履き替えてから正門へと向かう。グラウンドの方からは生徒たちの元気な掛け声や、ボールの跳ねる音が聞こえてくる。

 風が吹くたびに乾燥した土が舞い上がり、少しばかり埃っぽい匂いが夏の熱と共に体を抜けていった。外で運動している人はすごいな、と思う。暑いのにさらに暑くなることをする。

 グラウンドへ続く階段の横で、用務員のおじいさんが育てているハイビスカスが綺麗に身を焦がして咲いていた。


***


 高校を後にした蓮夜には、この日とある目的があった。

 帰路の途中にあるコンビニで雑巾とペットボトルの水を買って、高校の前の通りをそのまま二十分近く歩くと、やがて道のわきに小さなお地蔵様が見えてくる。地蔵の横には古い木の札が立っていて、そこには達筆な文字で『怨代えんだい地蔵じぞう』と書いてある。


 ――恨ミツラミ、苦シミ、全テ地蔵ニ託シ賜エ。怨代地蔵ガオ救イ下サル。


 木の札には名前以外にそのような説明が記してある。要するに人の負の感情を代わってくれるということらしい。その証拠に地蔵の表面は何かで乱暴に削られたような痕があったり、マジックで落書きなんかがされていた。お世辞にも綺麗とは言えない言葉が書きなぐられているのを数日前に発見してしまい、なんだかそのままにしておくのは嫌だな……と、蓮夜は思った。

 出来ることなら、せめて少しでも綺麗にしてあげたい。そう思い、こうして水と雑巾を持って帰り道に寄ってみた次第だ。家に帰るには一本別の道を通るのだが、先日たまたま遠回りしたくて道を変えた時に巡り合った。それが、何かの縁だと思えて仕方がなかった。

 蓮夜は地蔵の横に鞄を下ろして袖をまくる。幸いにも曇っていて日差しがそこまできつくない。ペットボトルの蓋を開けてから、雑巾に水を垂らす。全体をしっとり湿らせてから余分な水を絞り落とすと、地蔵の表面の落書きを力任せに拭き始める。石の表面に書かれた落書きは頑固で、水性ペンで書かれたものはある程度消えてはくれたものの、油性ペンで書かれたものやペンキのようなもので塗られた落書きは中々落ちない。

 一度その場に立ち上がって額の汗をぬぐう。背後は車道で、車が通るたびに排気ガスの匂いをまとった風が駆け抜ける。

「……他者の恨みをぶつけられるのって、大変なんだろうな」

 地蔵の表面の言葉が、人間の恨みや妬みの姿だと思うと、世の中には怖い感情が渦を巻いているような気がする。「死ね」「消えろ」「お前さえいなければ」……そんな言葉の羅列を身に浴びたとして、果たして自分の場合耐えることは出来るだろうか。

 そんなことを考えつつ、再び作業に戻ろうと蓮夜がしゃがみ込んだ時、ぽつりと首筋に何か冷たいものが落ちてきた感覚がした。触ってみると、微かに濡れている。

「……あ、」

 雨だ。

 そう呟こうとした時、さっきまで曇っていた空はあっという間に暗くなり、たくさんの涙を零すかのように雨を降らせ始めた。

「天気予報、外れたなぁ……」

 傘を持ってきていないことを考えつつ、今日の掃除はここまでだなと思った時、突如近くでピカッと雷が空を割いた。

「わっ」

 光った、と思ったのと同時に地面を揺らすような音が轟く。

 どこかに落ちたのだろうか? とすれば、かなり近いかもしれない。

 いずれにせよ、今日はもう早々に引き上げる他なさそうだと鞄に手をかけた。


「お前さん、魂と血が濃いな」


 ……声が降って湧いてきたのは、まさにその時だった。

 ピカッと二度目の雷が光ったのと同時に、その男は地蔵の頭の上にしゃがんだ姿勢で座っていた。

「……え?」

 雷鳴が轟く。蓮夜自身の声はかき消されたのに、その男の声だけは不思議とハッキリと耳に届いた。

 黒いスーツに白いシャツ。黒のネクタイを緩く結んでいる。三十代半ばくらいの容姿で、少しばかり釣り目なゆえに目付きは鋭い。真っ黒の髪の毛が相極まって、第一印象が『良くないもの』そのものに見えた。

 いつの間に現れたのか、気配も音もなく、まるで本当に湧き出たかのように現れたその男は、ニヤリと口角を上げて笑っていた。

「あんた……誰?」

 恐る恐る蓮夜は相手の素性を問う。雨に打たれて制服がびしょぬれになっていることなど、もはや頭の片隅にも残っていない。だけど、十七年間生きてきた勘は、それとは裏腹にフル回転して警告していた。今目の前にいるものは人間ではない……と。

「俺様は怨代地蔵に人間どもがぶつけた負の感情から生まれた霊体……言ってしまえば悪霊だな。俺自身は誰かを呪ったり祟ったりしねぇから怨霊ではない」

「悪霊……?」

「この地蔵に八つ当たりしに来た人間や、さらにはそいつが恨んだ相手の気を食ってたんだが……最近鬱憤のはけ口ってのが現実以外にも出来たみたいでよ。えー……インターネット? とかいうやつだな。まぁ言っちまえば食糧不足なんだよ」

 言ってまた、男はしゃがんだまま頬杖をついてニヤリと笑う。雨が降っているのに、男は少しも濡れていない。

「……お前さん、見たところ普通の人間とはまた違うな。そもそも俺様が見えてる時点で、まぁ普通ではねぇわな」

「…………」

「霊障受けたことがあるな? 腹に虫がいる。いや、受けたことがあるってのは語弊か。今もずっと霊障に悩まされているな」

 蓮夜が何も答えず、ただ固まったまま男の顔を睨んでいると、それを肯定だと受け取ったのか、男は品定めをするようにつぶやいた。

「お前さん、うまそうだ」

 男の手が蓮夜の首に伸びてくる、逃げなければと頭ではわかっているのに足が動かない。首に触れられたら終わりだ。全身の毛穴という毛穴が開くように肌が泡立って、汗が噴き出す。もう無理だと思わず目をぎゅっと閉じて首への感触に身構えた。

 ……だが、いつまで経っても首への感覚はない。恐る恐る目を開けると、目の前の男はまるで面白いものでも眺めるかのように蓮夜を見て笑っていた。

「くく……人間はビビりだなぁ。まぁそう身構えるなよ。あいにく今日は先約があるんでな。お前さんに構うのはここまでだ」

 言いながら地蔵の上に立ち上がると、見下ろす形で蓮夜をまっすぐ男の両目が貫く。瞳はらんらんと不気味に輝いていて、まるで暗闇で目を光らす黒猫のようだと思った。

「じゃあな。ここの掃除は定期的にしてくれよ」

 言い終えると、男は風のように高く飛んであっという間に見えなくなってしまった。それと同時に、今まで動けなかったのが嘘のように足が軽くなり、蓮夜はその場に尻餅をつくように倒れ込んだ。呼吸が乱れて、息が苦しい。雨でずぶ濡れのシャツを掴んで息を整えつつ、今まで目の前にいた男の姿を思い出して心臓がまた暴れそうになる。


 あれは普段自分に見えているものとは格が違う。もっと強力なものだ。

 しっかりとした人型だったうえ、はっきりと口がきけた。

 本人が言ったのだ――悪霊だ、と。


「…………っ!」

 蓮夜は、震える手で自分と同じようにずぶ濡れになった鞄をひっつかんで立ち上がると、逃げるようにその場から走り出す。足がもつれてこけそうになったが、なんとか持ちこたえて家までの道をただただ走った。

 ピカッとまた空が光り、雷鳴が轟く。そのたびに心臓がぎゅっと小さく縮むような気がした。

 家のそばの角を曲がると、門前でお手伝いの若い坊主が雨傘を畳んでいるのが見えた。どうやら買い出しから帰ってきたところだったようで、走ってくる蓮夜に気が付くと「おかえりなさいませ」と頭を下げた。普段ならば蓮夜もちゃんと挨拶をするが、今日に限ってはそれどころではない。余裕がなかったのもあって、そのまま脇をすり抜けて玄関へ飛び込んだ。

 泥だらけの靴を脱ぎ棄て、そのまま二階へと続く階段を駆け上がる。制服にも鞄にも泥がこびりついていたがそんなことは気にならなかった。

 自室の扉を開けて中に飛び込むと、そのまま後ろ手で扉を閉めた。

「……はぁっ……っはぁ……っ」

 自分の呼吸より早い心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえる。扉に寄りかかるようにしてずるずると床に座り込むと、膝を立てて顔を埋めるようにして目を閉じる。窓をさらに強くなった雨が打ち付けて、まるで揚げ物をする時の油の跳ねるような音が響く。

 さっきの男はなんだったのだろうか。あっという間に現れて、あっという間にいなくなった。時間にしてみればものの数分の出来事だが、脳裏に焼き付いた声と姿が消えてくれない。

 ふいに誰かが階段を上がってくる音がした。ハッと顔をあげたのと同時に、扉の向こう側から聞きなれた声が響く。

「蓮夜、帰ったのかい?」

「あ、うん……」

 蓮夜が体を退かすのと同時に、部屋の扉が押し開けられた。部屋の前には藍色の着物を着た祖母が立っていて、蓮夜の姿を瞳に映すのと同時に眉間に皺を寄せた。

「おや、ずぶ濡れじゃないの……階段にも泥が落ちているし、制服も泥だらけ」

「えっと、これは」

「……何かあったのかい?」

 まずい、心配させている。蓮夜はなんとか取り繕おうと、咄嗟にその場に立ち上がって言った。

「それが雨降ってきたのに傘持ってなくてさ! 慌てて走って帰ったら途中でこけちゃったんだ」

 だから泥だらけになっただけで、なんでもないんだよ。

 蓮夜がそう言うと、祖母は何か言いたそうな顔をした。つま先から頭までをじっと疑うように眺めてくるが、やがて短くため息をつくと、眼鏡を押し上げながら言った。

「まぁいいわ……ただ、そのままでいると風邪をひいてしまうから、お風呂に入って着替えなさいね」

「わかった、すぐ入るよ」

 蓮夜が返事をすると、祖母は困ったように微笑んでゆっくり階段を下りて行った。今ので誤魔化しきれたかといえば、多分無理だろう。勘のいい祖母のことだ、きっと嘘を見破っているに違いない。

(あ……そういえば、霊の気配って残るんだっけ……?)

 濡れた鞄を拾って机の上に乗せ、濡れた中身を取り出しながらふと思い出す。以前祖母が言っていたのだ、妖の気配はその妖が強ければ強いほど関与したものに残ると。それは例え霊であっても例外ではなくて、人でないモノは皆一様に気配を残す場合が多い。

 先刻出会った悪霊の気配も、きっと残っていたに違いない。蓮夜自身は出会った張本人であるからわからないが、祖母には恐らく何か感じとられたはずだ。

(本当のこと、言えばよかったかな……)

 タンスから着替えを取り出して、一階の浴室へと移動する。居間に通じる廊下で先ほどの坊主に出くわしたが、彼は彼で蓮夜に対して何か問い詰めるということはなかった。

 脱衣所で服を脱いで、洗濯機の中に放り込む。泥がついたままだとまずいかと思ったが、叩く気力もなくてそのままにした。扉を閉めてシャワーを出す。最初の冷たい水からやがて温かいお湯へと変わるにつれて、湯気が徐々に浴室内を満たす。

 シャワーの横にある鏡に映った自分の顔を見る。心なしか顔色がよくないな、とまるで他人の顔を眺めるように思った。

 頭からお湯を浴びて、汚れをすべて洗い流す。なんとなく早く横になりたくて早々に浴室から抜け出すと、黒髪を乱暴にタオルで拭いて服を着た。タオルを首にかけたまま廊下に出ると、待っていたかのように祖母が居間から顔を覗かせて手招きした。

「蓮夜。温かい紅茶を淹れるから、こっちへおいで」

 自分の部屋に戻ろうか一瞬迷ったが、なんとなく温かいものが飲みたくて呼ばれたまま、居間に入る。

「もう夏だけど、雨が降るとやはり少し冷えるからねぇ」

 蓮夜が座布団の上に座ったのを見届けると、祖母がティーポットに入った紅茶をゆっくりとカップに注いでくれる。カップには最初から温めた牛乳が少し入れてあったようで、茶色の紅茶はカップの中で白濁したミルクティーへと姿を変えていた。和室で紅茶、なんだか不釣り合いな気もするが、祖母の淹れる紅茶は美味しいので気にしないことにする。

 シュガーポットに入ったブラウンシュガーの角砂糖を四個入れてかき混ぜる。ミルクティーは甘い方が好きで、いつもつい甘くしてしまう。今日は特に疲れている気がして、もう一つ角砂糖を入れてしまおうかと思ったが、祖母の手前やめておいた。

 居間の角のテレビに視線をやると、音量こそ小さくしてあるが夕方のニュースが流れていた。きっと祖母がついさっきまでお茶の用意がてら見ていたのだろう。画面には市内で何やら物騒な事件が立て続いているという報道がされていた。

「ここ叶叶市きょうとしも、だんだん物騒な事件が増えてきたねぇ」

 映像はどこかの路地の角を映していて、ドラマとかでよく見る黄色のテープが張り巡らされている。そばにはパトカーや警察、鑑識の姿が映っていた。

「連続通り魔……被害者いずれも意識不明……」

 ニュースのテロップを口に出して読み上げると、なぜか心の奥がざわついた。

 雷は相変わらず雨を伴って、窓を震わせていた。


***


 ミルクティーを飲み終えて自室に戻ると、蓮夜はすぐにベッドに横たわった。部屋の明かりを消して、代わりにベッド横のナイトランプをつける。

 仰向けになって目を閉じると、窓の向こう側の雨音だけが微かに耳に届く。まぶたの裏には怨代地蔵で現れた男の姿が鮮明に浮かんだ。

 人の形をしていても、人ではないモノ。

 それは蓮夜自身の人生においては、決して珍しいものではなかった。


 夏越連夜は生まれつき、人ではない異形のモノ達が見えた。

 物心ついた時にはそれらは蓮夜のそばに常に居て、まるで獲物を品定めするかのように目を光らせていた。幼稚園にあがった頃から不可解な現象が蓮夜の周りで起こり始め、小学生になる年に父が急死したことを機に、蓮夜の周りはこの世のモノではない何かが更に蠢くようになった。 

 何もない場所で、誰かに足を引っ張られる。

 何もいない場所に向かって、まるで誰かがそこにいるかのように会釈を返す。

 そこに何もいないのに、何かに首を絞められているかのように苦しむ。

 日々起きる異常な現象を目の当たりにしてノイローゼ気味になった母は、蓮夜が七歳の年に妹を連れて実家に戻ってしまい、それっきり一度も顔を合わせていない。残された蓮夜には父方の祖母しかおらず、祖母もまた、跡取りとなるはずだった蓮夜の父が若くして亡くなったこともあって、孫の蓮夜をそばに置くことにした。

 父が亡くなった以上、息子であり長男にあたる蓮夜は必然的に夏越家の跡取りになる。父には生まれつき祖母と同じように霊能力が備わっていて、ゆくゆくは祖母の跡を継いで夏越家の使命である「け」の仕事をすることになっていた。だが父が亡くなった以上、それは必然的に蓮夜に降りかかってくる。

 確かに蓮夜にも、祖母や父のように見る力はある。だが、生まれつき体が強くない上に心臓が弱いこともあって、除けの能力はまだ上手く使いこなせない。祖母のように悪霊や妖を払ったり、退魔効果のあるけのすずを作ったりということも満足にはできない。だから今はこうして、祖母とそのお手伝いである数名の坊主が暮らす大きな日本家屋の中で、ただの高校生として生きている。

 見えるけれども、だいそれたことは出来ない。

 それがなんだかもどかしく、いつも自分の存在意義を見失う原因になっていた。

 だから、日々見えないふりをして、息を潜めて生きてきたのに。

「あの男は……なんだったんだ」

 天井を見上げたまま、だれに言うでもなく口から零れ落ちた。

 数時間前に出会った男。それこそ、悪霊だと言われなければ生きている人間ではないかと疑ってしまうほどに、しっかりと人型を保っていた。

 異形のものは普通、その姿が朧気だったり、崩れていたりと、一目でそれが人間ではないとわかることが多い。だがあの男は、恐ろしいくらいに鮮明にその姿を保っていた。

(悪霊じゃなくても、よっぽど力の強い霊体だったら……そりゃはっきり人型を保つこともできるだろうけど……)

 なんというか、素直にあの時、怖いと思ったのだ。

 霊なんか見慣れているし、妖の類だって見慣れているはずの自分が、怖いと思った。

 はっきり見える強いだけの霊とは違う。

 男の背後に、何か得体のしれない力が宿っているような気がしたのだ。

「…………はぁ」

 色々と思考を巡らせて脳が疲れたのか、大きくため息が出た。

 薄暗い室内は夏のわりにひんやりとしていて、寝る分にはちょうどいい。

 だが窓の外は相変わらず雨が降っていて、意識を集中すればその雨に混ざって何かがたくさん蠢いているのが察知できる。

 夏越の敷地内は安全だと言え、一歩出ればそこはこの世とあの世が交わった世界も同然だ。

 雨の日は必然的に魔が多い。

 本来ならば晴れ予報だったはずの夜は、結局ずっと雨が降り続いていた。

 天気予報が見事に外れたな、と蓮夜は思った。


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