(二)苦しくて、うれしい

   §




 避難した、集落を一望できる丘。

 まだ人々の暮らしは眼下に広がっているのを確認して、華は安堵する。


 華と尊は、並んで立っていた。

 万が一誰かに聞かれないように尊の張った結界の内側。

 一通り華が話し終えると、尊は、深く息を吐き出した。


「なるほど。君は、の時間から来たということか」

「……はい。おそらくは」


 華は灰色の空を見上げた。


「今晩、一条さまたちは我が家に宿泊します。明日は賀茂家にある玉鋼を見せてもらうことになっているはずです」

「確かに君の言う通り、我々の目的は、神が授けてくださったという玉鋼。そして火宮刀匠に神剣を鍛えてもらうことだ」

「集落の人々は朔夜の術中にかかっていて、味方にはなってもらえないと思います。そもそも、玉鋼だって我が家にあるべきところを、朔夜の術によって父が朔夜へ渡してしまったのかもしれません……」

「仮説にしろ辻褄は合う」


 尊が右手を口元にやった。


「この集落に足を踏み入れてから、小さな違和感がいくつかある。恐らく禁術者は巧妙に罠を仕掛けているのだろうな」


 それで、と尊が言葉を続ける。


「君はどうするつもりだ」

「玉鋼を朔夜の屋敷から持ち出します。そのためには一条さまの手助けが要ります」

「協力しろ、ということか」

「はい。現時点での朔夜の目的は、帝国想軍に玉鋼を奪われないようにすることだけの筈です。玉鋼を持っていかれそうになったからこそ、朔夜は、八岐大蛇を召喚してまで集落を、」


 沈めた、とは言えなかった。

 言葉にはまだできない。喉の奥でつっかえて、鉛のように胃に落ちていく。


「先手を打ちます。朔夜が八岐大蛇を呼ぶ前に、一条さまが朔夜を捕らえてくだされば、惨劇は起きません」


 それは、美代の命のことも含まれている。


「しかし、君はそれでいいのか?」

「え?」


 華は顔を尊へ向けた。


「婚約者なのだろう? 賀茂朔夜という男は」


 ちくり、と胸を刺す痛み。


(わたしが好きなのは)


 自分が誰に恋をしているのか?

 絶対に言ってはいけないと、華は飲み込んだ。

 ふるふると首を左右に振る。


「両親が決めたかりそめの許嫁です。婚約者というよりは兄のような存在で……した」


 言い淀んだものの、敢えての過去形。


 恋愛感情を抱かなかった理由の仮定。

 火の精霊が華のことを守ってくれていたのだろう。術に飲み込まれないように、ずっと。


 朔夜は華からたくさんのものを奪った。

 今も傷は癒えていない。


「わたしは、朔夜を許せません」

「そうか。それが君の意志か」


 華は強く頷いた。


「いいだろう、やぶさかではない話だ。――華」

「ひゃっ!?」


 突然名前で呼ばれた華は面食らってしまう。


「ん? 最初に、華と名乗らなかったか?」

「……名乗りました」


(だけど、いきなり名前で呼ばれるなんて)


 頬が熱い。

 一方で華の動揺を理解しない尊は、淡々と述べた。


「この会話はなかったことにして、時間を空けて君の屋敷へ戻ろう。明日、賀茂家へ行くとき、なんとかして機会を作る。君は賀茂朔夜に見つからないように、玉鋼を手に入れてくれ」

「はい」


 すると、尊がすっと手を差し出した。


「くずはの翡翠を貸してくれないか」

「どうぞ」


 華は翡翠の腕輪を外すと、尊へそのまま差し出した。


「……」


 尊は、翡翠にそっと口付けた。


(ぎゃっ!!??)


 正確には、唇は触れていない。何かを囁いたようだったが、華にしてみれば同じようなことだ。


「私の力も込めておいた。時が来たら連絡する」

「あ、ありがとう、ございます……」

「失礼」


 華が、赤くなっていることに気づかれないよう、頭を下げる。

 すると尊は華の右腕にそっと触れた。


(!?)


 驚きのあまり華はさらに動けない。


「じっとしていろ」

「……ひゃい……」


 すっ、と翡翠の腕輪は嵌められた。


「君には火だけでなく、土の精霊の加護もあるようだ。私やくずはの力と合わせて、君の望みを必ず叶えてくれるだろう」


 華は弾かれるようにして顔を上げた。

 そのとき、初めてきちんと、華と尊の視線が合ったような……気がした。




   §




 雪がはらはらと降り出した。


「ただいま戻りました!」


 空気が、しん、と冷えている。

 たたきに丁寧に並べられた先のとがった革靴は三足。すべてぴかぴかに磨かれていた。

 尊は既に仁志の元で話をしているようだ。


「おかえりなさい」


 ゆかりが廊下に顔を出した。


「お客さんがいらっしゃってるから、すぐに手伝ってくれるかしら」

「うん、分かった」


 台所に入った華は、割烹着を被りながら尋ねた。


「今日は、どんな方たちなの?」

「軍人さんよ。帝国想軍の中将さんと、その部下の方たち」

「こんな僻地までわざわざ足を運ぶなんて、父様の刀剣はよほど価値があるのね……」


 しみじみと華は呟いた。

 尊だけではない。央もまた、火宮一族のことを知っていたのだ。


「価値があるに決まっているでしょう。由緒正しい鍛冶師の一族なんだから」


 縁が誇らしげに笑った。


「父様の刀は、妖も切れるよね」

「勿論、想軍の軍人さんだから、ってのもあるでしょうね。先ほどご挨拶させていただいたけれど、異能を操れる証だという黄金の瞳は、それはそれは眩いものだったわよ」


 しかも、と縁が付け加える。


「中将さんったらすごく男前でね。ああいう御方を、美丈夫って呼ぶんでしょうね」

「……へぇ」

「華ったら、朔夜くん以外に目を向けたらだめよ?」


 華は曖昧に笑ってごまかした。


 てててっ。

 冷え切った廊下を小走りで進み、華は、客間の前で立ち止まった。

 膳を一度廊下に置くと、両膝をついて襖を叩く。


「お食事をお持ちしました」


 それから両手で襖を引いた。

 中には縁が説明した通り、仁志と三人の軍人が向かい合って座っていた。

 淡い水色の軍服はまるでこの世の人ならざる者のような雰囲気を醸し出している。 


 不意にそのうちの一人が華を見た。

 黄金の双眸が華を捉える。


(初対面のふり、初対面のふり)


「華と申します。ようこそいらっしゃいました」

「すまんな、華。まだ話の途中だから、適当に置いておいてくれ」

「はい」


 仁志の指示を受けて、華は膳を脇に置いた。

 温かいものはないので、冷めて味が落ちる心配はない。


「お嬢さんですか。えらい別嬪さんですなぁ」


 左の男が目を細める。


「うちのも今年十六になるんですが、いかんせんお転婆で困ってまして」

「いやいや。華も相当お転婆ですよ」


 すると、尊が、華を見ずに言った。


「気丈そうなお嬢さんではないですか。誇っていいと思いますよ」


(えっ!? えっ?!)


「また頃合いを見て、お酒と次の食事をお持ちいたします。それでは」


 華はもう一度頭を下げて、客間から出て襖を閉じる。

 両手で顔を覆う。

 そのまま、廊下にへたり込んだ。

 熱い。

 苦しい。だけど、うれしい。


(一条さまが、褒めてくださった……)

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