第三話 哀しみからの第一歩

(一)染井吉野

   §




 華がうっすらと瞳を開くと、視界に入るのは見慣れない天井だった。


(ここは……)


 見たことのない電灯は紫陽花のような形。見たことがないのは、電灯だけではない。壁の模様も、備えつけの家具も、華の知らない形や色をしている。

 模様に関しては、円や線が連続して連なることで複雑に見えていた。

 まるで、異国の一室のようだ。


(どこ?)


 全身に伝わってくる感触からしてどうやら布団に寝かされているらしい。

 しかし、手にも足にも力が入らなかった。自分の体だというのに、自分のものでないようだった。

 気怠さというよりは鉛のような重たさがある。

 意志だけは己が何者であるかを認識しているが、それ以外の思考はままならない。


 どれだけの時間、ぼんやりとしていただろうか。

 誰かが扉を開けて、足音を立てずに部屋へ入ってきた。その誰かは華の脇で立ち止まると視線を向けてきた。


「目が覚めたか」

「……一条、さま?」


 低く、やわらかく、落ち着いた声。

 現れたのは想軍中将・一条尊だった。軍服ではなく着物を着ている。


「ここは……わたしは……」


 声が掠れてうまく出せない。しかし、華の意図を、尊は汲み取ったようだった。


「ここは一条家の本邸の客室だ。そして、君は三ヶ月ほど、眠り続けていた」


 そこでようやく華は、自分が布団ではなく寝台の上にいるのだと気づいた。

 尊は脇にある椅子を寝台の傍まで持ってくると、腰かける。

 その着物が大島紬だというのは華にも分かった。集落の長が、好んで着ていたからだ。


「一条家に勤める医師たちは皆、優秀だ。君が栄養失調にならないよう、適切な処置を施してくれていた。あぁ、無理に起き上がらない方がいい。体自体は弱っているから負担がかかるだけだ」


 どうして、という問いかけが口から出ることはなかった。

 意識の途切れる直前に見た光景が一気に再現されて、華は声にならない悲鳴を上げた。


「……っ!」


 はぁ、はぁ、と肩で息をする間にも、涙が目の端から零れていく。


(朔夜……)


 すべてが信じられなかった。

 集落が水の底に沈んだこと。家族も何もかも飲み込まれたこと。

 裏切ったのは、幼なじみだったこと。それにまったく気づけなかったこと。


 華が今見知らぬ場所にいるのは、それらが事実だからだということ。


「君の身の安全は我々が保障する。まずは動けるようになるのを目標としよう」

「……」


 寝台に寝かされたまま、華は黙って頷いた。


 尊の指摘通り、華の筋力は極端に落ちてしまっていた。


「無理をしてはいけません。華さんは、今、体ではない部分が傷ついているんです。ゆっくり元に戻していきましょう」


 女中頭がそう言って粥を口まで運んでくれた。

 医者や女中など、常に誰かが華のことを気にかけてくれていた。そうやって余喘よぜんを保っていたのだと理解するのに、時間はかからなかった。


「……すみません」

「謝ることは何もありません。あなただけでも生きていてよかったと、旦那様は安堵しておられたのですから」


(だけど、わたしが生き残らなくてもよかった)

(わたしなんかよりもっと生きているべき人がたくさんいた)

ともだって、大人になる未来があったはずなのに)


 ひとつ優しくされると、十、後悔の念に苛まれる。


(どうして生きているんだろう、わたし)


 やがて、起き上がることすら困難だった華が、なんとか体に力を入れる方法を思い出した頃。


 からからから……。

 背もたれのある椅子の両脇に大きな車輪がついた奇妙な乗り物。その持ち手を握りながら、尊が客室に現れた。


「自在車という。一条の分家で開発中の歩行補助具だ。是非、君に試してほしい」


 寝台から起き上がった華は、時間をかけて自在車に座った。

 体は動かそうとすればするほど軋む。華は顔を顰めた。かなり筋力が落ちているのだ。


「外へ出てみないか? と言っても、屋敷の庭だが」

「……庭、ですか」

「この時期は、染井吉野が満開だ」


 華はわずかに頷いた。

 染井吉野。つまり、桜。

 いつの間にか、季節は春になっていたらしい。


 すっかりとやせ細ってしまった華だったが、尊に案内されて、庭へと移動する。からからから、と車輪が回る。

 会話がない分、車輪の音はよく響いた。


 からからから。からからから。

 客室から廊下へ。廊下から、中庭へ。

 わずかな距離だというのに長く感じられたのは、しばらく客室から出ていなかったからだろうか。


「……っ」


 ふわぁっ、と風が華の頬を撫でていった。暖かくてどこか甘い香りに、華はゆっくりと顔を上げた。

 庭といえど、かなり広い。

 眼前に広がる景色に、華は、息を呑んだ。


「きれい……」


 ぽつりと、感情が零れる。

 そこに咲き誇るのは満開の桜、桜、桜――


 桜の木々は庭をぐるりと囲むように植えられていて、どこからでも花見を楽しめるようになっていた。


 雪のように桜の花弁が降っている。雪と違うのは、降っても降っても融けることがないということだろう。

 ふわり、ひらりと華の膝の上に舞い降りる。


 その光景に、華は、今は亡き故郷を重ねた。


(毎年、春が来たら、皆でお花見したなぁ)


 目を閉じればありありと想い出が蘇るのだ。 


(酒ありの宴は嫌いだったけど、桜を見ながら食べるお団子は美味しかった。ごきげんな倫が皆の前でくるくる回って、それがおかしくって、声を上げて笑ったっけ)


 視界いっぱいに広がる鮮やかな花と青い空に、華は拳をぎゅっと握りしめた。

 ぽたり。桜の花弁に重なるようにして、弱々しく雫が落ちた。


 目覚めてからずっと繰り返してきた自問自答が毀れる。


「わたしなんかが生き延びて、よかったのでしょうか」

「当然だ」


 尊の力強い断言に、華の涙はとめどなく溢れ出した。


「……助けてくださって、ありがとう、ございました」


 まだ笑い方は思い出せない。

 それでも華は、久しぶりに感情を表に出すことができたのだった。

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