第9話


 母が死んだのは、私が中学二年生のときだった。

 鬱病を患っていた母は、ある日家に帰ると玄関で首を吊って死んでいた。

 自殺した母は遺書を残しておらず、私へのメッセージはなにもなかった。母との最後の会話は、前日の夜の『おやすみ』というありきたり過ぎるものだった。

 私は、母にとってなんだったのだろう……。

『可哀想に』

 可哀想? だれが? 私が?

『あんな形で母親を亡くすだなんて』

 あんな形って? もしかして、自殺のこと?

『きっと、子育ての限界だったのよ。ひとりで働きながら、澄香ちゃんを育てなきゃならなかったんだもの』

 ――あぁ、そっか。お母さんが死んだのは、私のせいなんだ。

 お母さんの心を殺したのは、私。

 私は人殺し。

 ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 私がいなければ、お母さんは――。

 叫びたくても、もう声は出なかった。


 ――パッと目を開けたら、斑模様の天井が見えた。何度か瞬きをして、その天井が保健室のものだと気付く。

 そっか。授業中、倒れたんだ、私。

 ……悪夢を見ていた気がする。わずかに乱れた呼吸を整えながら、私はよろよろと身を起こした。

 白く清潔なカーテンが揺れている。

 小さく息を吐きながら、目障りな前髪を耳にかけた。カーテンの隙間から見える時計は、十一時を指している。

 まだ四限目の途中。目が覚めてしまったから、もう戻らないとダメだろうか。

 ……いやだなぁ。戻りたくない。いっそ、あのまま目が覚めなかったらよかったのに。

 カーテンの隙間から零れた陽の光が、シーツを照らした。

「…………」

 私は、そっと学校を抜け出した。


 こっそりと向かったのは、あの公園。東屋に入り、小さく息をつく。

 ……落ち着く。ようやく、息が吐けたような気がした。

 日陰が落ちた東屋の中は、少しだけ寒い。紅葉を過ぎ、色褪せた公園はどこか物悲しい空気を漂わせている。

 まるで、私の心みたい。

 小さくため息を着いたときだった。

「花野?」

 ふと、風の囁きのようなひそやかな声が聞こえた。見ると、東屋の入口に蓮見くんが立っていた。

 驚いていると、蓮見くんは小さく微笑み、東屋に入ってくる。

「突然倒れたから驚いたよ。それに、保健室覗いたらいないし……まぁ、なんとなくここかなって思ったから、先生に言って僕が迎えに来たんだけど。いてよかったよ」

 蓮見くんは怒ることもなく、穏やかな口調でそう言いながら、私のとなりに腰を下ろした。

「身体はどう? 学校を抜け出す元気があるなら、大丈夫そうだけど」

 熱? ……そうか。朝からなんとなく身体が重いと思っていたのは、熱があったからか。

 と、思っていると、蓮見くんが制服のジャケットを脱いだ。私の視線に気付いた蓮見くんが、笑う。

「走ってきたから、暑くて」

 よく見れば、蓮見くんは額に汗を滲ませていた。

『ごめん、迷惑かけて』

 私はスマホを見せながら、蓮見くんに頭を下げた。

「いいよいいよ。気にしないで!」

「…………」

 私はもう一度、ぺこりと頭を下げた。

 ……さっき、倒れる直前につい思ってしまったこと……彼は聞いただろうか。

 俯いたままでいると、蓮見くんがぽつりと言った。

「死にたいって思うとき、僕もあるよ」

 顔を上げると、蓮見くんは悲しそうに笑って、私を見ていた。

「好きだった人の心の声を聞いちゃったときとか。……この力があると、どうしたって見たくなかった部分まで見えちゃうからね。だから、僕は一生、人を好きになることはできないんだろうなって思ってた」

「…………」

 彼は、心の声を聞くことができるという。たぶんそれは、嘘ではない……のだと思う。

 まれに変な態度をとることがあったし、クラスであぶれている感じはないのに、クラスメイトと距離を取っているようなところがあったから。

 それに――私も、ある日突然自分の声を失った。だから、突然なにか不思議な力を授かることも、あるのだと思う。

「でも、花野に出会って気付いたことがあるんだ。……僕は今まで、いったいだれを好きだったんだろうって」

 顔を上げると、蓮見くんは優しく微笑んだ。

「僕たちは、相手のほんの一面しか知らない。それなのに勝手に心の声に絶望して、イメージと違ったって悲観してたのは僕。相手はなにも悪くないのにね」

 結局、相手をちゃんと見ていなかったのは自分のほうだった。そう言う蓮見くんの横顔は、とても寂しそうだった。

 きっと、彼はこれまでたくさん悲しい思いをしてきたのだろう。私では想像もつかないくらいの想いをしてきたはずなのに。それでも、蓮見くんは、そんなふうに思えるのか……。

 ……すごいなぁ。私とは、大違いだ。

 私は目を伏せた。

 スマホに文字を打つ。

『お母さんのこと、聞こえたよね?』

 訊ねると、蓮見くんは少しだけ戸惑うような態度を見せた。

「……うん。自殺だったって」

『私が中学生のとき、お母さんは自殺した。お母さんが死んだのは、私のせい。私がお母さんの心を壊して、殺した』

「……さっき、宮本から聞いたよ。花野のお母さんは鬱病うつびょうを患ってたって」

『お母さんが病気になったのは私のせい。私の子育てがしんどかったから。私がお母さんに負担をかけたの』

「だとしても、花野に責任はない。お母さんが亡くなったことは、花野が責任を感じることじゃないでしょ」

 それは違う、と私は首を振る。

『私は、だれにも必要とされてないの。お母さんじゃなくて、私が死ぬべきだった』

 蓮見くんが息を呑んだような音がした。

『私は勉強も運動も得意じゃないし、人にも好かれない。……なんの価値もない人間』

「そんなことない!」

 そんなことある。

「私なんて、生きてたって意味がないの!」

 強く叫んだ。

 すると、蓮見くんは私の声に一瞬驚いた顔をして、息を呑んだ。

 しかし、すぐに私をまっすぐに見つめ、

「そんなことないよ!」

 と強く言った。

 蓮見くんが私の肩をぐっと掴む。

「僕は花野に救われたよ。だれかの本心に臆病になって、人間不信になってた僕がもう一度人に興味を持てたのは、花野がいたからだ。……それだけじゃない。花野といると、僕は音を聞くことが怖くないんだ。どんな音にもずっとびくびくしてたのに……それなのに今は、花野の心の声が聞こえたらいいのに、って思っちゃうくらいで……」

 ハッとして顔を上げる。

「僕はきっと、花野に会えていなかったら、今もみんなを拒絶したまま、人に興味を持てずにいたと思う。ずっと耳を塞いでた僕の手を取ってくれたのは、花野だよ」

「……私が?」

「花野といると不思議なんだ。花野のとなりは、言葉はないのにいつも音やカラフルな景色で溢れてる。この公園も」

 そう言って、蓮見くんは公園を見渡した。

「ここ、近所だし行き慣れた場所だったのに、花野と一緒だと音も色も匂いも、流れる時間自体ももうぜんぜん違うんだ。……僕、花野のおかげで少しだけ前向きになれた。心の声も、ちょっとずつ違うニュアンスの声が聞こえるようになって……ぜんぶ、花野のおかげ。だから、ありがとう」

「蓮見くん……」

 蓮見くんはにこりと微笑んで、言った。

「それにしても花野の声、初めて聞いた」

「あっ……」

 そういえば、と喉を押さえる。いつの間にか、声が出ていた。母を失った日に失ったはずの声が。

 蓮見くんが、私の手を優しく握る。

「ずっと、花野の声を聞いてみたかったんだ。花野の声で、本音を聞いてみたかった」

 胸がきゅっと潰れそうになった。

「……ねぇ、ずっと言いたかったこと、あるでしょ。言いたくて言えなくて、呑み込んでたこと。……話してよ。聞くから」

 その言葉に勇気をもらい、私はぽつぽつと想いを零す。

「私……ずっとお母さんに聞きたかったんだ。なんで死んじゃったのか。なんで私を置いていったのか。私はいらない子だった? 私がお母さんを追い詰めた? お母さんは私を憎んでいたの……?」

 今さら訴えたところで、もちろん答えなんて返ってこない。だって、私のお母さんはこの世にはもう存在しないから。

 ……言ったって、仕方ないと思っていた。零れそうになる悲しみも苦しみも、疑問もぜんぶ呑み込んで、心の奥にしまいこんで。そうしていたら、いつの間にか私は声を失っていた。

「ずっと、ひとりで抱えてたんだね。ずっと……辛かったね」

 蓮見くんが、私をふわりと抱き締めた。あたたかい。あたたかくて、涙が出そうになる。

 ぐっと奥歯を噛んで、考えてみる。

 私はお母さんのなにを知っていただろう。

 物心ついた頃にはお母さんはもう心を患っていて、いつも泣いたり叫んだり、時には打たれたりした。お母さんの笑顔なんて思い出せないし、優しい声も知らない。死ぬそのときまで、私はお母さんに愛してると言ってくれなかった。

 ……それでも私は、お母さんを愛していた。お母さんが死んだとき、声を失うくらい悲しかった。

「ねぇ……花野。花野は、お母さんがいなくなってからずっとひとりで生きてきたって思ってるかもしれないけど、それは違うんじゃないかな。花野には宮本たちがいるでしょ」

 顔を上げ、蓮見くんを見る。

「……宮本、花野のことすごく心配してたよ。さっきは……ちょっと言い方はきつかったかもしれないけど、花野が宮本の気持ちに気付いてくれないから、怒っただけだと思う。だって宮本、さっきものすごく泣いてたよ。心の中もぐちゃぐちゃだったから」

「え……嘘。優里花が?」

 優里花は勝気で、家族をとても大切にする女の子。学校ではリーダーシップをとるようなタイプで、自分の意見もはっきり言う。

「私、優里花にはずっときらわれてると思ってた……」

 そのときだった。

「――そんなわけない!」

 いつからいたのか、優里花が東屋に入ってきた。優里花は私の顔を見るなり、泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。

「優里花!? なんでここに……」

 優里花は私の問いには答えずに、勢いよく私を抱き締めた。

「きらいなわけないでしょ! そもそもきらいだったら澄香のことなんて放っておくわよ! ……私はただ……悔しかったの。叔母さんが死んでから、澄香ぜんぜん笑わなくなって、喋らなくなって、私にもよそよそしくなった。昔はあんなに仲良しだったのに……だから、寂しかったの。……でも、さっきは言い過ぎた」

 ごめんなさい、と謝る優里花に、私も慌てて、

「私こそ、ごめんなさい。優里花にも幸子さちこさんにもいさおさんにも、すごく感謝してる」

 でも、私は他人だから、優里花の家族の邪魔をしちゃいけない。甘え過ぎたら、またお母さんのときみたいになってしまうかもしれない。そう思ったら、足がすくんだ。

「優里花たちに気を遣わせてるのは分かってた。でも、また失うかもしれないって思ったら怖かったの。だから……だれとも接しないで、ひとりで生きるっていう選択をした」

 そう言いながら、私はぼんやりと自分の足元を見つめる。

「……バカ。私たちは、家族だよ」

「……でも、私は」

 身を引こうとする私の肩を、優里花が優しく掴む。

「あのね、澄香の苗字を変えないままなのは、本当のお母さんのことを忘れてほしくないからって、うちのママが言ってた。叔母さん、澄香のこと本当に愛してたからって」

「……そんなの、ただ私に気を遣っただけで……」

 きっとそう。だってママは、私を愛せなかったから死んだのだ。

「そんなことないよ。だって、うちのママと叔母さんは姉妹なんだよ? 私たちが小さかったときのことも、うちのママはぜんぶ見てるんだから。澄香も私も、自分が生まれたときのこと知らないけどさ、知ってる人は今もちゃんといるんだよ。だから……今はまだ、叔母さんとの記憶は辛い思い出しかないかもしれないけど……もう少し、澄香の心が元気になったら、ぜんぜんそれだけじゃないってことを教えてあげたいって、ママ言ってたよ」

 涙で視界が滲んだ。

 ……そうだ。私は、私が生まれたときのことを知らない。お母さんがどんなに苦労して私を産んだのかも、どんな顔で育ててくれていたのかも……。

「病気になる前のお母さん……」

「ねぇ澄香。死んじゃった人に口はないから、死ぬ直前に澄香のお母さんがどう思ってたかは分からないけどさ。でも、病気になると人は変わるって、ママが言ってた。特に、心の病気はね」

 ……そうなのだろうか。

 本当に、自分の娘のことまで考えられなくなるほど、分からなくなってしまうの? 自分でお腹を痛めて産んだ子なのに?

 私には、分からない。……分からない。お母さんがどう思っていたのか……。知りたいのに。

「大丈夫。今だって、澄香はひとりじゃない。叔母さんのこと、これから知ることだってできるんだよ」

 堪え切れず、ぽろぽろと涙があふれた。泣き出した私を、優里花が優しく抱き締めてくれる。

「……ずっと我慢してたんだね。気付いてあげられなくてごめんね」

 私は口を結んだまま、ぶんぶんと首を振る。

「……私こそ……今までごめん。……ありがとう」

 久しぶりに聞いた自分の声にはまだ慣れないけれど、少しづつ身体に馴染んでいくような気がした。

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