春の盾

与兵

春の盾 上

彼女にりんごを切っていると事務所から怒声が聞こえる。周りの皆は口々にタコ親父が噴火しただの。春だからだの笑いながら仕事を続けていた。

先の騒ぎは長島さんが怪我をしたと連絡がきたことが原因だと分かったのは、彼女に投げられたりんごを受け取った時だった。



春は競馬の季節でもある。もちろん通年を通して競馬はやってるし、年末には数々のドラマを産んだ有馬記念もある。それでもやはりクラシックの大一番であるダービーやオークス、伝統ある天皇賞とまさに競馬シーズン到来と言って良いのがこの季節だ。周りの陣営の人馬も、そしてそれを追う記者の目も何れも力がみなぎり、独特な緊張感と心地よい高揚感がこのトレーニングセンターを包んでいる。

そんな天皇賞を間近に控えた昼下がり、クラシックやG1と無縁の僕はオヤジさんと慕う調教師から外でも掃いてろと言われ箒を手に暖かな日差しに照らされてボーッと突っ立っていた。

ガラガラと音を立て事務所の窓が開くと馬主の成瀬さんが顔をニョキっと出すといきなり

「彼女の引退レース君に任せたいが頼めるか?」

開口一番これである。僕は心底驚いた。だって僕は自他共に認める下手っぴだから。あまりのことにポカンとしているとオヤジさんから激が飛ぶ。

「乗れや!バカタレ」僕は条件反射でハイッ!と返事をしていた。

驚きの余りその日の記憶はこれ以降曖昧である。


彼女と呼ばれたシャリティアは牝馬の6才、生粋のステイヤー。おっとりとした性格と美しい栗毛の牝馬だ。体は大きく無いものの、無駄の無い綺麗な馬体をしている。人懐っこい彼女は、僕が前を通る度に馬房からヒョイと顔を出す。撫でると喜んで前足をカキカキするのが癖だ。その後は決まって僕の髪と顔をべろんべろんと舐め回す。りんごが大好物であげればパクパク食べるが、、、

毎回僕に一欠片だけ首を振って投げて寄越す。どうも僕を下に見ているらしく、食べろと言いたい様である。1度だけ餌の飼葉を桶ごと僕の口許まで押し上げて食わせようとしたのには閉口した。隣で厩務員の村田さんがゲラゲラ笑いながら、おまえ弟と思われてんな食べてやったらどうだと言われる始末だ。

毎日僕が調教をつけているだけに、嫌われそうなものだが不思議な姉である。


天皇賞・春は京都競馬場で行われる日本最長距離のG1である。向こう正面からスタートして場内を一周半する。

スタート直後から坂を駆け上がり、コーナーを曲がりながら下っていく、馬にもタフだし長丁場だけに名手と呼ばれるジョッキーが活躍する。

本来なら彼女の主戦ジョッキーの長島さんの騎乗予定だったのだが、ゴルフで腰を痛めたらしく代役は誰かと皆の噂の的となっていた。騎乗依頼はまさに晴天の霹靂だった。

そもそも僕は、新人の特典である減量騎乗が出来る期間が1番長かった。つまり勝てなかった訳である。

騎手養成の競馬学校でもダントツのビリで、今でも卒業出来たことは七不思議として学校の語り草らしい。

そんな僕に声を掛けてくれたのが、オヤジさんと慕う川上調教師である。

オヤジさんはまさに頑固一徹、パワハラなど知ったことかと怒声や物が飛んで来る。双眼鏡が飛んできたこともあった。でもそれは馬に対して間違ったことをした時や、人として礼儀が出来ない時であり、またネチネチせず、さっぱりとした頭部と性格の人だ。

僕が競馬学校時代の研修でお邪魔した時も今と全く変わらずスパルタだった。その頃の僕は自身の才能の無さと努力しても変わらぬ無力さに打ちひしがれていた。そんな時ふとオヤジさんに声を掛けられたことを今でも覚えている。なぁ1番偉い奴はどんな奴か分かるか?と。もちろん1番上手い奴です。1番勝てる奴ですと僕は答えた。オヤジさんは笑いながら最後の最後まで続けた奴の勝ちだ。どんな凄い奴もどれほど叶わないと思う奴でも歳や怪我を言い訳に辞めていく。だからそいつらより少しでも長く、最後まで続けて踏ん張った奴が勝ちなんだと聞かせてくれた。もしあの言葉が無かったら今の僕はいないだろう。


馬主の成瀬さんに騎乗依頼を貰った夜、厩舎での仕事をどう終えたのか、今一つ思い出せないまま事務所のパイプ椅子に座ってサイダーを飲む、パチパチとした刺激に少しずつ頭が回ってきた。

そもそも何故僕なんだろう、自慢じゃ無いが僕は下手っぴである。こんな僕にも重賞に乗せて貰ったことは3度あった。しかし結果は散々である。初めて乗った重賞ではゲートが開くと同時に馬がつんのめり、頭から落ちた。2度目は馬と折り合いが付かず、バカペースで逃げてしまいブービー、3度目は馬が立ち上がり大出遅れ、追い込んでも全く間に合わず、なんとも酷い結果である。

これで良く騎乗依頼がきたものだ。確かに彼女の調教は僕がつけている。坂路や芝でオヤジさんの指示通りのタイムで駆けてレースに向け調整してきた。レースでも1度だけ乗った。その時は序盤は上手く乗れたが勝負所で馬群に包まれ、前が壁でまともに追えずただ回ってきただけだった。ファンからは公開調教してんじゃねーと怒られ、成瀬さんには運が無かったね。ありがとうと言われた。オヤジさんには、またか!バカタレ!!もっと周りを落ち着いて見ろと叱責を受けた。なんとも酷い有様である。

その夜何故騎乗依頼がきたのか、ついぞ答えは出なかった。

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