第10話 あなたになら、わたし

 いつもは羽根が生えたように庭園を抜けるエレイナだが、今日はドレスが重く感じる。

 演奏会が三日後だなんて本当に急な話だ。

 あのスタンフィルと、一体何を話せばいいのだろう。また通訳がいれば少しは間が持ちそうだが、今度はそうはいくまい。おそらくふたりきりで、演奏会の会場を離れたどこか別の部屋でゆっくりと、ということになるのではなかろうか。

「どうしたの? 浮かない顔して」

 客間に入るなり、アデルが心配そうに尋ねてくる。今日も美しく着飾った彼女に手を引かれて、いつものように長椅子の隣同士に座る。

 エレイナは屋敷を出てからずっと、この話をアデルに聞いてもらいたいと思っていた。まずは自分のことを話してしまわなければ、今日は彼女の楽しい話も耳に入りそうにない。

 メイドがお茶の用意をして、出ていくまでエレイナはずっと無言でいた。そしてお茶をひと口飲んでから、ようやく重い口を開く。

「コリアード伯爵の演奏会に急遽出席することになりました。スタンフィル様とお会いするために」

「え? ……彼に会うの?」

 アデルの声に、エレイナは無言で頷いた。次の言葉を口にするのが本当に辛くて、とても顔を上げる気にはなれない。

「おそらく、それ以降は結婚に向けての準備が、急速に進むと思うのです。そうなると、花嫁修業も始まって、なかなかここには来られないのではないかと思って……」

 そこまで言って、エレイナは顔を上げた。その瞬間、目にしたアデルの表情に驚いて息をのむ。

 彼女は驚愕の表情を浮かべて虚空を見詰めていた。宝石のような青い目は零れ落ちそうに見開かれ、唇はわなわなと震えている。

「ア、アデル様?」

 思わず心配になり、エレイナは声をかけた。

「あの……どこかお加減でも悪いのですか?」

 エレイナが尋ねても、アデルは前を向いたまま何も言わない。

 彼女はやがて、視線をゆっくり下ろすと、お茶が満たされたカップを手にして口元へ運んだ。その手は気の毒なほど震えていて、頬は青ざめている。ひと口お茶を啜ってカップを置くと、大きく息を吐いた。

「……そう。そうなの」

 アデルは言って、おもむろに呼び鈴を鳴らす。

 すぐさま扉がノックされ、いつもの白髪まじりの男性がやってきた。

 彼はデローニという名で、アデルの執事をしている。どう考えても記憶にある顔なので一度尋ねたことがあるが、『過去にエレイナ様とお会いしたことはございません』とはっきり言われてしまった。

 執事デローニが、入り口で身体を二つに折って顔を上げる。

「何かご用でしょうか」

「ねえ、デローニ。エレイナはコリアード伯爵の演奏会に行かれるのですって。偶然だわ。私も招かれているのよね?」

「えっ」

 エレイナは驚いた。そして、デローニの顔に自分と同じ表情が浮かんでいるのを、一瞬見た。

 アデルはさきほどの動揺を忘れたかのごとく、いつものように優雅な姿で、長椅子の肘掛けにゆったりと身を預けている。

 こほん、と咳払いが聞こえた。視線をデローニに戻すと、彼はいつもと変わらぬ厳めしい顔つきに戻っている。

「はい、コリアード伯爵ですね。えー……確か日程は――」

「いつだったかしら?」

 アデルが振り返る。

「三日後の午後からです」

 エレイナが返すと、アデルはすぐさま執事の方に向き直った。

「そうだわ。確か三日後だったわね」

「ああ……確かにそうでした。失念しておりまして申し訳ございません」

「当日はエレイナと一緒に連れだって行くわ。一番乗り心地のいい馬車と、お菓子を用意してちょうだい」

「かしこまりました」

 デローニは深々と礼をして戻っていく。

 エレイナの頭には、クエスチョンマークがいくつも浮かんでいた。

 なんだか様子がおかしい。周りの人はすべて知っているのに、自分ひとりだけが何も知らない道化のような気分だ。

 しかし、アデルとのやりとりでは、こんなことは今に始まったことではない。

 彼女がする話は、常に物事の微に入り細に入り、核心を突いていたが、肝心なところは絶妙に濁してあった。つまり、自分の素性に関係するような話題には決して触れず、したがってエレイナは未だに彼女がどこの誰かということを知らずにいる。

 王家の遠縁にあたる人物、ということ以外は。

 ――もしかして、人間ではないのかしら。こんなに美しくてなんでも知っているし、『天使の鐘』も咲かせたくらいだもの。

 うっとりと、彼女の横顔に心酔しながらエレイナは考える。

 彼女になら、騙されてもいいかもしれない。

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