第15話 ルナの知らない世界 ~NTRとBSS~

「オタク、ちょっと良い?」

「ん? どうしたの?」


 ある日。僕はルナさんと一緒に喫茶店に居た。

 特段、何かをするという訳ではなく、何となく一緒に帰っていて近くに喫茶店があったからと寄った次第。

 ただ、いつもとは少し違うルナさんを僕は今、見ている。

 僕の目の前でルナさんが真剣に漫画を読んでいるのだ。

 しかも、それは僕のオススメ、という訳ではなく、自分で興味を惹かれて買ったものらしい。

 一応、ラブコメではあるが、少々ニッチなジャンル。

 ルナさんには少々早いかもしれないが、今は真剣な顔で質問してきたので、僕は答える。


 すると、ルナさんは本を机の上に開き、漫画のページを見せる。

 そのある文字列を指差した。


「NTRって何?」

「…………」


 あっ……。

 

 えっと……。僕の頭が混乱する。

 NTRとは。

 寝取り、または寝取られの隠語であり、彼氏やそれに準ずる相手が居る女性が第三者と性的関係を持つ事、である。

 つまる所、浮気よりももっと酷い奴、みたいなものだ。

 さて、僕は考える。

 これを馬鹿正直にルナさんに教えるか、否かだ。


 ルナさんのえっち耐性は小学生以下である。

 そんな小学生ほどの耐久力でNTRを受け止めきれるのか。

 僕は一度机の上に置かれたミルクティーを飲む。


「オタク? あ、もしかして、あたし、まずい事言ってる?」

「あ、いや、そういう訳じゃないよ? まぁ、あんまり公の場で言って良い事じゃないけど……」

「あ、も、もしかして、えっちな言葉?」

「えっち……え、えっち……なのかな?」


 一応、えっち用語と言えば用語かもしれない。

 R18のジャンルで探せば、NTRなんていくらでも出てくる。

 それはもう、星の如き数で。つまり、ルナさんもこれからこのオタク界隈に入るとすれば、必ず話題として出てくる。

 そうなる度に、NTRって何? 何だろう、と引っかかりを覚える、というのも可哀想な気もする。


 ここは、僕が。ある意味、ルナさんを守ると思ってその知識を伝授しよう。

 僕は鞄の中からノートを取り出す。

 そこに恋人と書き、ルナさんに見せる。


「えっと、NTRっていうのは簡単に言うと、ここに恋人が居るよね?」

「うん。いるね」

「この恋人たちってまぁ、えっちな事をするわけなんだけど……」

「う、うん……そ、それで?」


 ルナさんはほんのり顔を紅くしながらも僕の話を聞いている。

 僕はノートに『間男』と呼ばれる存在を生み出し、彼女と矢印で繋ぐ。


「この彼女にこの間男って存在が肉体関係を迫ると、この男の人が寝取られた状態で、こっち間男が寝取ったって形になるんだ。つまり、寝取り、寝取られって関係の頭文字を取って、NTRっていうの。つまり、酷い浮気って感じだね」

「……え? な、何か結構、エグくない?」

「エグい……まぁ、エグいと思うよ?」


 ルナさんは僕の説明を聞いてから、ハっと思いついたのか、目を丸くする。


「そ、それってすげー分かりやすくいうと、あたしとオタクが付き合ってて、あたしが東郷のバカに襲われるって事?」

「あ、え、えっと、そ、そんな感じ……」


 やばい、僕の脳が破壊される!!

 そ、そんなの想像するだけでも、吐きそうになる。

 さーっと僕の顔色が悪くなったのに気付いたのか、ルナさんが声を上げる。


「お、オタク!? だ、大丈夫!? 顔、一気に白くなったけど!?」

「あ、え、えっと……NTRっていうのはね、耐性が無い人が感じたり、見たりすると、脳が破壊されるんだ……こ、これは研究結果でも出ていて……」

「のっ!? 脳が破壊!? お、オタク!! だ、大丈夫だから!! あ、あたしが東郷のものになるわけないでしょ?」

「だ、だよね……う、うん……そう、だよね……」


 本当に危なかった。

 ちょっと想像するだけで僕の脳が破壊されそうになる。

 これは極めて危険な概念である。僕は一つ息を吐く。


「ひ、人によっては本当に致命傷になりかねない精神的ダメージを受けるんだ……中にはこのNTRが性癖としてこびりついてしまう人も居る……極めて怖い世界なんだ」

「……な、何かほ、ほらーみたいだね」

「実際そうだと思うよ? NTRに脳が破壊された人って、ずっとNTRされてるし……それを求めている人だって居るくらいだしね……」

「……オタクって、どれだけの深淵を見てきたの?」

「聞きたい?」

「……ヤダ、聞きたくない」

「じゃあ、やめとく」


 オタクの世界とは沼である。

 ルナさんはその危険性を察知したのか、それ以上は踏み込んでこない。

 それはそれで良いと思う。

 知るべき事と知るべきじゃない事っていうのがあるから。

 

「じゃあ、オタクはそういうのは嫌いなんだ」

「僕は純愛派……NTRとかは本当に好きじゃない。何で大事な人を取られる事に喜びを抱くのか全然分からないから」

「な、何か良かったよ。オタクがそういう普通の人で」

「僕はいたってノーマルだから」


 僕の言葉を聞き、何処か安堵した様子を見せるルナさん。

 ルナさんはミルクティーを飲んでから再度、漫画に集中する。

 それからしばし、時間が流れ。またしても、ルナさんが口を開いた。


「ねぇ、オタク。また質問良い?」

「うん。良いよ」

「BSSって何?」

「び、BSSは、僕が先に好きだったのにってやつだね」

「僕が先に好きだったのに……あー、何か分かった気がする。あれか、失恋か」


 ルナさんの閃きに僕はうなずく。


「そんな感じだね。こう、恋の相手を横取りされるみたいな……これもNTRに近しいものを感じるね。お付き合いをしていない相手に勝手にそう思って、脳が破壊されるみたいな……」

「なるほど……これもまた脳破壊……ねぇ、オタクたちって定期的に脳、ぶち壊してんの?」


 ルナさんが純粋無垢な眼差しで僕を見つめる。

 僕はすぐさま否定の意味を込めて首を横に振る。


「ち、違うよ!! 脳が破壊されると、それが性癖に変えられるんだから……僕の脳は健全も健全だよ!!」

「へぇ……なんかオタクの世界って色々あるんだね。あたしの知らない事ばっかり」

「だと思う。でも、それは僕も同じだよ。ルナさんの世界を知ってる訳じゃないし……」

「あ、それもそっか」


 ルナさんがオタク界隈を良く分からないように、僕だってギャル界隈は分からない。

 最近の流行とかも良く分かってないし、オタクとギャル、というのは水と油、だとオタクは思っている。

 決して交じり合う事はなく、互いに独自の世界を持つ。

 それ故に相互理解は起こらず、互いにくっつく事はない。

 だからこそ、僕はこうしてルナさんがほんの少しでもオタク界隈に歩み寄ってくれている事が嬉しい。

 ……そこで僕は思う。


 も、もしかして、僕もルナさんの界隈を知ろうとしたほうが良いのかな……。


「ね、ねぇ、ルナさん」

「ん? どしたの?」

「ぼ、僕も他のギャルさんとかとな、仲良くしたほうがいいのかな? そ、その、ルナさんがオタク界隈を知ってくれてるように、僕もルナさんの周りの事、し、知ったほうが良いのかなって」

「ダメ」

「え?」

「だから、ダメ」


 ルナさんは何処か無機質な眼差しで僕を見つめる。

 その目が言っている。


 は? お前、何言ってんの? と。


 僕は困惑する。ど、どうして、ルナさんがそんな冷めた目で僕を……。


「ど、どうして? 僕だってルナさんの周りの事知りたい」

「……知らなくていいから」

「何で?」

「……オタクが知る必要ないし。それに――から」


 ボソボソっと言ったせいで、後半何を言っているのか全然分からなかった。

 僕は首を傾げる。


「る、ルナさん、後半全然聞こえなかったけど……ど、どうしてダメなの?」

「だ、だからぁ…………うから」

「え? き、聞こえない……」

「~~~~っ!! バカ!! お、オタクが他のギャルに気に入られるのが嫌だから!! はい、これで良い!?」


 ルナさんは顔を真っ赤にしながら半ば投げやりに叫ぶ。

 それに僕は思わず目を見開く。

 そ、それってつまり? 僕が他のギャルと仲良くして欲しくないからって、事?

 ルナさんは顔を真っ赤にしたまま、ミルクティーを飲み、口を開いた。


「これに関しては一切質問を受け付けないから」

「……う、うん。わ、分かった」


 どうやら、僕は詳しい理由は分からないけれど、ルナさんの友達と仲良くする事が出来ないらしい。つまり、僕はこれから先もギャルの世界というのを僕は知る事が出来ないらしい。

 けれど、ルナさんがそれを望むのなら、それはしょうがないだろう。

 だって、ルナさんが嫌だって思う事を僕はしたくないから。


 それからしばらく沈黙が流れる。

 ルナさんは真剣に漫画を読み進め、机の上に漫画を置いた。


「はぁ……つっかれた~」

「読み終わった?」

「うん。終わったよ、これはなかなか刺激的な作品だった。うん……何か脳破壊って意味が分かったかも。嫌だね、好きな人がこういう目に遭うってのは」

「アハハ、だよね……」

「あたしもやっぱり、好きな人同士がくっついて幸せになるハッピーエンドが一番だよ」

「僕もそう思う」


 僕もルナさんと同じ意見だ。

 ハッピーエンド。それが一番幸福な未来……。

 僕は思う。もしも、僕とルナさんの間にあるハッピーエンドって何なんだろうって。


 今は嘘の関係だ。

 嘘の恋人関係。でも、これがもしも本当になったら……。


「? オタク? ぼーっとしてどうしたの?」

「え? あ、う、ううん。何でもない」

「そう? 何かすっごい考え事してるように見えたけど、平気?」


 ルナさんが心配そうに僕を見つめてくる。

 す、少しだけ、ほんの少しだけ聞いてみてもいい、かな。


「あ、あの、ルナさん。ぼ、僕とルナさんの関係のハッピーエンドってな、何だと思いますか?」

「…………」


 僕の思っていた質問をルナさんにそのままぶつける。

 すると、ルナさんはしばらく呆然としてから、ハっとする。

 

「え!? えっと……あ、あたしたちのハッピーエンドか……お、オタクは?」

「ぼ、僕はその……わ、我侭かもしれないけど、る、ルナさんとまだい、一緒に居たいかな……」

「……そっか。それはあたしも一緒。あたしもまだまだオタクと一緒に居たい。それで良いんじゃないかな?」


 そう言いながら、ルナさんは立ち上がり、僕の手を取り、優しく、それでいて力強く握った。


「あたしは未来の事なんか分からないし。ただ、今、オタクともっと色んな事がしたいって思ってる。それじゃあ、ダメかな?」

「……ううん」


 ルナさんの言葉で気付く。

 そうか、ハッピーエンドはまだ気にしなくても良い。

 せっかく、今、ルナさんと一緒に居る。

 まだ、どうなるかも分からない未来を心配する必要なんてないんだ。

 僕はルナさんの手をしっかりと握り、口を開く。


「じゃ、じゃあ、もう少しだけ一緒に居ませんか?」

「勿論。駅までゆっくり歩こっか?」

「うん!!」


 それから僕たちは遠回りをして、出来るだけ一緒に居る時間を長く作りながら家に帰った。

 

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