第21話

 数時間後。


 すっかり日が暮れたアパートの前で、俺は白い紙箱を手に一〇一号室の前に立っていた。

 スヴニールという店名が印刷された紙箱を持つ指に、ひんやりとした冷気が伝わってくる。先ほど店を訪れた際、店番をしていた老婦人が「この暑さで痛んでしまわないように」と気を利かせて多めに保冷剤を入れてくれたのだ。

 以前、といってもすでに数か月前のことだが。引っ越しの挨拶時に菓子を渡した反応を見る限り、手土産として選んだものに間違いはないはずだ。


「……よし」


 俺は深呼吸をすると、壊れた呼び鈴は無視し一〇一号室の扉を軽く拳で叩いた。


「如月さん、すみません。隣の間宮ですけど……いますか?」


 こんこん、と扉を叩く音に反応する声はない。


(居留守かよ……)


 先ほどアパートに戻る際、一〇一号室には明かりが灯っているのを確認している。

つまり、如月は部屋の中にいるにもかかわらず、完全に無視を決め込んでいるのだ。だが、一度のノックで返事が返ってこないのはある程度予想済だ。


「如月さん、すみません!」


 今度は部屋に打ち付ける拳の音を徐々に強くし、俺は先ほどより大きな声で家主の名前を呼び続ける。宅急便の運送業者であれば、数度扉を叩いて返事がなければ素直にその場を去るだろうが、俺はそのつもりはない。今日は彼が出てくるまで何十分だって扉をたたき続けてやる。

 そう思った矢先だった。


「……煩い」


 建付けの悪い扉が開く鈍い音と共に、薄く開いた扉の隙間から不健康極まりない男の姿が見えた。

 以前と変わらず現所サンダルに色あせたジーパン、唯一変わったところといえば春先は伸び切った長袖の上着だったのが半袖になったところだろうか。だが、その半そでも襟が伸びた、一目で三枚数百円とわかる安物のシャツだった。

 伸びた前髪から覗く眼差しは、明らかにこちらを邪魔者扱いするものだった。扉の外に出てこないところをみると、煩いから扉を開けたものの話を聞くつもりは毛頭ないのだろう。


「あ、あの、ちょっと相談があって」

「……俺はない。さっさと帰れ」


 それだけ言うと、用は済んだとばかりに扉を閉めようとする。その姿に俺は慌てて手に持っていた白い箱を彼の目に映るように掲げて見せた。


「相談料代わりにこれ持ってきたんですけど!」


 如月の視線が、白い紙箱に印刷されたスヴニールという文字でぴたりと止まる。表情こそかわらないものの明らかな興味を示したその姿に、俺は急いで言葉をつづけた。


「スヴニールの夏限定のケーキです!今日はたまたま残ってたんで!」


 そう、今俺の持つ紙箱の中にはスヴニールの夏限定のケーキが三個きれいに収まっている。夏の果物代表メロンをふんだんに使ったケーキに、レモンを使った涼し気なババロア、そしてマンゴーを使ったフルーツタルトだ。

 どれも普段であれば昼過ぎに完売してしまう限定ケーキが、今日に限ってすべて一カットずつ残っていたのだ。

 前回手土産で菓子を渡した反応から、きっと甘いものは嫌いではないと予想していたのだが、限定ゲーキの効果は想像以上のものだった。

 ごくり、と日焼けとは無縁な、不健康極まりない白い喉が物欲しげな音を立てる。


「ちっ……、入れよ」


 如月の中でケーキと面倒ごとの天秤がかけられ、夏の限定ケーキのほうが勝ったのだろう。舌打ちの後に、先ほどまで閉じかけていた扉が人ひとり通れる程度の広さで開く。

 ついてこい、とでもいうようにさっさと部屋の奥に向かって歩き始めてしまった男の背中を追って、俺は慌てて「お邪魔します」と呟くと一〇一号室に足を踏み入れた。



◇◇◇



 部屋番号が違うとはいえ、基本的に同じアパートの一室のため部屋の間取りや構造は全く一緒だ。だが、足を踏み入れた瞬間漂ってきた香りに俺は思わず鼻を鳴らす。


(この匂い、お香か?)


 大変失礼な話だが、如月の見た目から部屋の中は汚部屋同然だと思い込んでいた。鼻が曲がるようなひどい匂いがするのではないかと覚悟をして足を踏み入れた矢先の香りだったので、俺は思わず面食らってしまったのだ。どこか不思議と懐かしく、落ち着く香りだ。

 だが、その香りの発生場所を見つけた瞬間、一瞬でも懐かしい良い香りだと思ってしまった自分を殴りたくなった。

 確かに玄関先に白い煙を一筋立てているものがあった。だがそれは俺が想像していたお香ではなく、明らかに仏壇前に備えてあるタイプの線香だったのだ。

 仏壇や神棚など影も形もない家の入口で、線香が煙を上げているという事実から俺は目を反らす。何も見なかったとでもいうように反対側の壁へと視線をずらし、今度は別の者が目に留まった。


(……これは、家族写真?)


 古びた壁には、木枠に納まった数枚の写真が飾られている。子供を中心ににこやかに笑う父母の姿や、公園で遊ぶ子供の姿など映してある景色は様々だ。家の中に家族写真が飾られているということ自体は、取り立てて不思議な事ではない。一人暮らしであっても家族との思い出の写真を持ち込み飾ることもあるだろう。

 だが、壁に飾られる写真の違和感に俺は首をひねった。


(……なんかこれ、おかしくないか)


 違和感の正体は写真に写る者たちの姿だ。

 あるものは旅行中の家族写真、あるものは公園で遊ぶ子供、あるものは学校の運動会など切り取られたシーンは様々だ。だが、明らかに映っている写真の中の人物が全て違う。

 同じような構図の家族写真でも、全く違う家族の写真が写っているのだ。それによく見れば、家に飾られている写真のはずなのに如月玲らしい人物がうつっているものは一枚もない。


(それに、なんだ?これ、暗くてよくみえないけど)


 見ていると何故か背中が粟立つような寒気に襲われるのだ。日に焼けて色褪せた写真の一枚をよく見ようと目を近づけると、いつの間にか隣に佇んでいた如月がぽつりと声を漏らした。


「良いだろ、どれも最高の曰くつきの心霊写真だ。耐性の無い奴が見ると魅入られるから気を付けろよ」

「……は」


 その言葉に俺は言葉を失った。


(……狂ってるだろ)


 オカルト好きで何やらやばいものを集めている、という話は聞いていたが。まさか家の隣室に集めた心霊写真を名画のように壁に飾る男が住んでいるとは夢にも思わなかった。もしかすると、相談の相手に選ぶ相手を間違えたのかもしれない。まだ玄関を入ったばかりだというのに、そんな後悔が脳裏をよぎった。


「なんだよ、もっと見ていいんだぞ」


 壁に掛けられた写真から逃げるように和室へと逃げ込んできた俺の姿を如月は鼻で笑うと、さっさと座れとでもいうように畳の一角を指差した。案内された和室はかろうじて人が眠るだけのスペースはあるものの、明らかに怪しげな荷物がうず高く積み上げられていた。

 曰くありげな絵画には布がかけられ、中途半端に空いた段ボールの山からは先ほど壁にかかっていたのと同じくらい古びた写真の束が顔をのぞかせている。

 他にも、何やら意味の分からない文字が書かれた古い紙の山やら、どこから持ってきたのか神社にかけられているような縄飾りやら。

 それぞれの詳細を聞いたら、何も知らずに隣に住んでいたことを心底後悔しそうな品ばかりだったため、俺はそれらすべてを見なかったふりをして目の前に腰を下ろした男に向かって改めて声をかけた。


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