第11話

「……はあ」


 一人きりの部屋に、吐き出したため息が想像より大きな音で響き渡る。だが相変わらずその溜息に応える声や姿は何もなく、中古で買った今にも壊れてしまいそうな冷蔵庫のぶーん、ぶーんというなんとも物悲しい音が聞こえてるだけだ。


「なんか、今日はいろいろあったな」


 充電中の携帯に目を向ければ、表示される時間はもうすぐ深夜二時になろうとしていた。

 本音を言えば今すぐ薄い煎餅布団に横たわり、夢の世界に旅立ちたい。それほどまでに今日一日に起きた出来事で体が悲鳴を上げていた。だが、あの掲示板に投稿されていた「少女の霊」が最も多く目撃されている時間が、この深夜零時から二時の間なのだ。丑三つ時、と呼ばれる時間だけありこの時間は霊にとって活動しやすい時間なのだろうか。

 学校に病院、廃墟に至るまで大体の怪談で何かが起きるのは古今東西深夜二時ごろと決まっている。


(……いや、昼間に活動する霊の方が変か)


 気を抜けば閉じてしまいそうになる瞼をこすりながら、俺はそんなことを考えていた。

 この部屋に越してきたからすでに一週間以上経とうとしているが、まだ少女の影どころかラップ音一つ耳にした記憶がない。時折聞こえる音、といえば時折両隣の部屋から響いてくる音くらいなものだ。あまりにも何も起きる気配のない日々に、日中に自分に向けて放たれた「霊感ゼロの後輩君」という言葉が思い出されてしまう。

 もしかすると、「りんちゃん」は毎夜現れているが、自分の霊感が限りなくゼロに近いせいでただその存在を感じ取れていないだけなのではないか。

 今まで意識をしたことがなかった、俺は一度として霊の類に会ったことがない。時折夏の夜にテレビで放送される心霊現象や心霊写真の特集なども見たことがあるが、それを恐いと感じたこともなかった。

 霊などより、実際にこの世界で生きる人間の方がずっと恐ろしいことを、俺は誰よりもよく知っていたからだ。


「……もし俺が見えてないだけなら、ごめん」


 実際近くに彼女が居るのかもわからない。だが、もし俺が見えていないだけならせめて謝罪だけでも聞こえてほしい。そう思ってしまい、俺は誰もいない部屋の中へ向かって深々と頭を下げた。

 だが、当然のごとく耳を澄ましてみても部屋の中から聞こえる音は何もなかった。再び溜息交じりに携帯の液晶に目を落とせば、時刻がちょうど二時に切り替わったところだった。


(今日はもう寝るか……明日、めんどくさいな)


 数時間後、再び大学に足を踏み入れた時に向けられるであろう視線とざわめきを想像し俺はげんなりと肩を落とした。

 平穏に生きるという新生活の夢はもろくも崩れ去ってしまったが、卒業後のことを考えて出来るだけ真面目に授業は出ておきたい。少なくとも、人目を避けるために大学に通わず留年という最悪の事態だけは避けたかった。

 布団に体を横たえ、後は眠るだけ。徐々に薄れていく意識の中で、俺の耳に「カタン」と小さな音が響いた。


「……っ!」


 慌てて布団を蹴り飛ばし、俺はそっと全神経を研ぎ澄ませ耳を欹てた。再びカタン、と小さな音が響く。だがその音は、俺が期待した部屋の中の音ではなく、隣の部屋から聞こえてくる物音だった。


(奥村先輩、まだ起きてるのか)


 隣から響いてくるのは決して気になるほどの音ではない。だが、ぼろい上に壁が薄いこのアパートではちょっとした生活音でも隣に筒抜けになってしまうのだ。

 半ば強制的に眠りの淵から覚醒したせいで、先ほどまでの眠気が嘘のように消え去ってしまった。こうなってしまっては再び横になったとしてすぐに眠ることは難しいだろう。


(……ちょっと外に出るか)


 覚醒してしまったとはいえ、今から起きて何かをする気にはなれない。だが、このまま布団の中で丸まっていると隣の部屋から響いてくる音が気になってしまう。

 このままうっかりシャワーの音などが響きだしてしまったら、多少なりとも健全な年ごろである俺には酷な時間が続くのは必然だった。


(頭、冷やすか……)


 脳裏をよぎりかけた邪な妄想を追い出し、俺は布団を抜け出すとベランダへと抜けるサッシへと手をかけた。

 日中の春の暖かさを残した室内に比べ、外は4月とはいえまだ夜は肌寒い。だが、春独特のどこか空気の中から花の香りを感じるようなこの空気が俺は好きだった。

どこかで遅咲きの桜でも咲いていたのだろうか。時折吹き抜ける風に乗って、小さな桃の色の花びらが飛んでいく。


(……なんだか、こうしてちゃんとベランダに出るのは久しぶりだな)


 古びた欄干に凭れながら、ゆっくりとベランダを振り返る。

 元々家族で住んでいた物件、ということもあり決してベランダ自体が狭いというわけではない。物干し竿を置けば、男子大学生一人の洗濯ものを干しても十分余るだけのスペースがある。

 だが、俺は此処に引っ越してからこのベランダに出たのは今日を含めまだ二回しかない。一度目は引っ越した当日、部屋の換気を行うために家中の窓を開いた時だ。その時は部屋の中を片付ける事に必死で、ゆっくりとこうしてベランダだけを眺める余裕などなかったのだ。


(あー……洗濯機があれば、洗濯もここに干せるんだけど)


 だが、残念ながら俺の部屋に洗濯機は存在しない。

 浴室の横に洗濯機を置くスペースはあるものの、今は洗濯機の代わりに置かれた籠の中で、汚れた洗濯物が小さな山になり始めていた。

 前まで暮らしていた家の洗濯機を持ち込めれば良かったのだが、母の死と共にまるで役目を終えたとでもいうかのように壊れてしまったのだ。大学生活に必要なパソコンや生活必需品の冷蔵庫などは何とか中古で揃えることが出来たが、引っ越しの費用や新生活のための費用が思ったよりもかさんでしまい、洗濯機を買うだけの余裕がなくなってしまったのだ。

 だが、洗濯機に変わる施設として街にはコインランドリーというものが存在する。洗剤や柔軟剤も自動投入、洗濯から乾燥まで数百円で終わらせてくれるという一人暮らしの強い味方だ。特にこの街は大学キャンパスのお膝元ということもあり、街をあるけばすぐにコインランドリーの施設が見つかるほどだ。

 その恩恵にあずかっている俺は、かつて母がしていたように濡れた洗濯物を毎日このベランダに干す必要がなかったというわけだ。


(……なんだが、懐かしいな)


 何故かはわからない。だが、不思議とこうしてベランダの欄干に身を預けていると、なんとも言えない懐かしさに襲われてしまったのだ。

 十数年前、此処で暮らしていた時の記憶を俺はできるだけ思い出さないようにしていた。りんちゃんと遊んだ記憶以外、この家に良い思い出などほとんどないからだ。

 いつも家中に響き渡る父の怒声に怯える母親の背中と、気まぐれで振り下ろされる父親の拳が、この家で残っている俺の中の両親の記憶だ。漫画やドラマの中で見るような、模範的な微笑みを浮かべて食卓を囲むような暖かな家族の姿など、俺の記憶の中のどこにも残っていない。


 今俺が立っているこのベランダだってそうだ。

 このベランダに立つ母親の背中はいつも丸まっていてどこか陰鬱な影を背負っていた。記憶を辿れば、ベランダの片隅にいくつか茶色い植木鉢があったような気もするが、それらに美しい花や青々として緑の葉がしげっていた覚えはない。

 もしかすると俺が生まれる前や、記憶にないもっと幼いころはその小さなプランターや植木鉢にも花が咲いていたのかもしれない。だが、機嫌を損ねた父が花が咲く前の苗を根こそぎ捨ててしまうため、いつしか母の心も折れてしまったに違いない。どうせ傷つくなら最初から何もかもあきらめて過ごした方が良い。その方が余計な苦しみを感じることはないと考えた母なりの生き抜き方だったのだろう。


 なら何故俺はこのベランダに懐かしさを感じるのだろう。

 理想的で幸せな家族の風景の一ピースとして機能していなかったこのベランダに、懐かしさを感じる要素など何処にもないはずなのに。

 ぼんやりとベランダを眺めていた俺の目に、ふと隣室のベランダとの境目にある仕立て板が目に留まる。人の高さほどある、集合住宅ならではのベランダを隔てるための何の変哲もない仕組みだ。だが、それを目にした瞬間、ふと脳裏に「りんちゃん」の懐かしい声が響いた。


『お邪魔しまーす!』


 小さな体が壊れた仕切り板をくぐり、俺の家のベランダのガラスを叩く。

 ああ、そうだ。記憶に蓋をしていたせいで、すっかり忘れてしまっていた。あの子が俺の家に来るときは、いつもアパートの扉からではなく、壊れた仕切り板を外してベランダからこっそりと部屋にやってきていたではないか。

 まだ小学校に上がる前の、幼子の小さな体だからできた芸当だ。


「だから懐かしかったのか……」


 流石にあの事件があった後、壊れていた仕切り板は直されてしまったのだろう。そっと手を伸ばしてみても、かつてあの子が取ってきた秘密の通り道が開く気配は全くなかった。


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