第2話「猿神族って、本当に頬が赤いんだな。変なの」

 当時生まれてまだ五年しか経っていなかった申助は泣きながら熱に浮かされていた。


 三日前から始まった微熱はどんどん上がっていき、ついに寝込むまでの高熱となってしまった。頬もパンパンに腫れ、体も痛い。


 薬がなかなか効かず、眠れもしない息子の様子を哀れんだのか、申助の母である申江さるえはどこかに手紙を書き、夜には見知らぬ家に連れてこられていた。


 まるで平安貴族の屋敷のようなその家は広く、御簾と障子によって区切られていた。申助は入り口から近い一室をあてがわれ、中央に敷かれた布団の上で横になっていた。彼を取り囲むように母と、一人の女神が座っている。


 肩を落とす申江に、申助の胸に円錐状の筒を当てて心音を聞いていた女神は告げた。


「おたふく風邪ですね。子供にはよくある事です。お子さんは皆経験したでしょう?」


 須久那すくなと呼ばれていた女神はまるで平民のような飾り気のない麻の着物を着ており、長くふわふわの茶色い髪を後ろで一つにまとめていた。目は垂れていて、気安い雰囲気がある。申助は一目で彼女に好感を抱いた。

 申江は恥ずかしそうに頬を染める。


「あらやだ、私ったら……」

「でも、申助君は一般的なお子さんに比べて症状が酷いですね。病原菌が別の感染症を引き起こしたことも考えられます。よければこちらでしばらくの間預かりましょうか?」


 母は深々と頭を下げた。

 こうして申助は須久那の元で治療を受けることになったのだった。須久那は医療を司る神で、神や妖怪の医者をしているのだという。この屋敷の主である国主くにぬしの嫁である。


「隣には別の妖怪や神々も入院しているから静かに過ごしてね」


 須久那は桶の中に入っていた手ぬぐいを絞り、熱で苦しんでいる申助の汗を拭いてくれた。痛み止めの薬を処方され、頭に置かれた氷嚢により熱が和らげられる。こうして、ようやく申助は眠れたのだった。



 白い光で目が覚める。 朝になっていた。

 誰かが障子を開けて部屋の中に入ってきたようだ。申助は音のした方を見る。須久那ではない。小さな子供だった。犬のような耳と尻尾が生えている。


「これ、氷水と替えの手ぬぐい」


 甲高い声で子供は言う。申助と同じ年くらいだろうか。


「……誰」


 受け取りながら申助は尋ねる。 美しく整った顔についている瞳はまるで白い満月のようで、見つめられただけで申助の心臓がドキドキと高鳴ってしまった。


「戌二。ここでお手伝いをしている」


 名前からして男なのだろう。申助は内心でがっかりした。女の子だと思ったのだ。これは後で聞いた話だが、彼は当時須久那達の屋敷に奉公に出されており、患者の身の回りの世話をする役目についていたのだった。


 戌二は当時から独特の雰囲気がある美人だった。彼は申助の顔をまじまじと見つめる。 なんだろう、と胸が高鳴るのを感じながら視線を返した。男ではあるが、彼の顔は好みだった。戌二は口を開く。


「猿神族って、本当に頬が赤いんだな。変なの」


 言うと、興味を失ったとばかりに戌二は盥から氷嚢を取り出すと手ぬぐいを下手くそに絞って水気を拭う。 いきなりの言葉に申助は赤い顔をますます真っ赤にした。


「なんだとこのクソ犬!」


 病人とは思えない大声に戌二は目を丸くして申助を見た。

 先に手を出したのは申助だった。彼に掴みかかり、綺麗な顔をひっかいた。戌二も負けていない。申助の腕に噛みつき、尻尾を引っ張った。


 こうして始まった取っ組み合いの喧嘩は、物音に気が付いて様子を見に来た国主が申助達を物理的に引き離すまで続き、頭にはゲンコツが落とされ、たんこぶを作ってしまったのだった。


 これが、戌二と申助の出会いだった。

 それから彼らは顔を合わせるたびに申助がつっかかり、戌二も挑発をして喧嘩をするようになり今に至る。







「絶対に負けねぇ」


 申助は木の上に飛び移り独り言ちる。

 あんな陰険で根暗で顔以外全く取り柄のない犬っころに大切な姉を嫁にやってたまるものか。犬神は狼の神なので正確に言えば犬っころではないが、申助は子供の頃から駄犬だの犬っころだのと戌二を呼んでいる。


 あれから、戌二があまりにも自分の攻撃を避けるものだから、申助は一度その場から引いた。石壁を乗り越え川をまたぎ、草木が茂る森の木の上という安全地帯に飛び移る。石場での戦いだからといって何も場所を変えてはいけないとは言われなかったし、姉も戌太郎も咎めなかった。咎めない、ということは許されると同義だと申助は考えていた。


 戌二達犬神族は猿神族よりも速く走れるものの、上下の移動は不得手だ。逆に申助達猿神族は高さのある立体的な動きに強い。木に飛び移ってしまえば戌二は追ってこられないのだ。


 少し前に追いついてきた戌二は、申助が木の上でうんうん唸って作戦を考えているのを見て呆れた顔になり、ならば自分も、と川辺に行き水を飲み腕の怪我を清め始めた。背中を向け、しっぽを晒している姿は無防備そのものだったが、誘っているのは考えなくてもわかる。


「盥の水は残り四分の一です」


 遠くから申姫の声がする。

 時間があまり残されていない。どうするものか、と考えていると、下のほうでちりん、ちりんと音が鳴った。戌二の鈴の音だろうと視線を向ける。 樹の下では、戌二が誘うように紐を掴んで鈴を振っていた。


 鈴の紐は赤かった。


 本来ならば、申助の尻尾についているはずの色である。


「はぁ!? 何でお前が俺の鈴を持ってるんだよ!?」


 慌てて申助は地面に降りる。地面に足をつけた瞬間、鈴の音が背後で鳴った。


「え?」


 慌てて申助は背後を振り返る。自分の尻尾にも鈴がついていた。だとしたら、あれは何なのだ。 戌二へと振り返るが、彼の姿はもうそこにはなかった。 まずい、と思うとほぼ同時に背中から地面に押し倒されていた。戌二の手が肩を押さえつけられた申助の尻尾の鈴に触れ、紐をほどく。


「単純大馬鹿猿。俺の勝ちだ」


 戌二の手で赤い紐の鈴が二つ揺れる。一つは申助のつけていた真っ赤な紐に繋がれた鈴。もう一つは戌二の白い髪紐を赤く染めた紐に繋がれた鈴だった。


「あー!」


 青い紐はというと、戌二の髪を結んでいる。カラクリに気が付いた申助は大声を出した。

 戌二は申助に追いつく直前、髪を縛る白い紐と鈴についている青い紐を交換し、申助の攻撃によって流れた自分の血と渓流の水を混ぜ、白い紐を赤く染めた。普通なら騙されないだろうが、遠目に見ると赤い紐に鈴が結わえられているという事しかわからない。


申助はまんまと戌二にいっぱい食わされたのだった。


「勝者、戌二!」


 追いついてきて彼らの勝負の行方を見ていた戌太郎は片手を挙げる。誇らしそうな声に、犬神族からは歓喜の声があげられ、猿神族からは落胆のため息が漏らされた。

 ずるい、だの、卑怯、だの散々罵倒し、再勝負を申し入れても聞き入れられない。申助が勝手に岩場を抜け木の上に登ったように、尻尾の鈴を外してはいけない、鈴の紐を交換してはいけないとは言われていないのだから。犬神族は戌二の知恵の勝利だと主張し、猿神族の訴えを退けた。

 こうして猿神族は嫁を差し出さなければならなくなったのだった。

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